REVIEW: EXHIBITION

“視線”の発見

鈴木理策「意識の流れ」

2015.Feb.25

TEXT: HIROYASU YAMAUCHI

01眼が、もてあそばれる愉しさ

 高知から車で出発し、四国山地を越えるルートで一路、香川県丸亀へ向かった。道中はほとんどクマやシカの領分で、ヒトは場違いと心から思う山深さ。瀬戸内側へ抜けて、絵本に出てきそうなシルエットの讃岐富士を眺め、光沢ある讃岐うどんの肌質に感嘆した末に、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に入った。

 鈴木理策「意識の流れ」展が開かれているのは、3階の広大な展示スペース。何て不思議なんだろう、室内を眺め渡して思った。海原に磯、桜や雪山、森の木々。会場の壁面には、四角いフレームに収まった自然の光景が無数に並んでいる。ああ、ここにも自然がある。そう強く感じた。さっきまで全身に浴びていた大自然といったん別れを告げ、美術館内に入ったのに、すぐさま自然と再会。奇妙な気分になる。

 ただ、明らかに何かが違う。実物の景色と、ここで写真作品の被写体となっている風景は、全く別種のものだ。外界の自然は、当然ながら圧倒的なスケール感を持つ。車窓から見た四国山地の稜線はどこまでも連なり、走り去った背後は海沿いの平野と太平洋にまでつながっているのを知っている。リアルな自然の奥行きと広がりは果てしない。風の音や木の匂いもただよってきて、五感もフルに刺激される。

 対して、この展示室内にある自然。スケール感は外界と比べるべくもない。写真としては大きなプリントだけど、サイズは有限で、そこには自然のほんの一部分が写り込んでいるにすぎない。80枚ほどがかかっているものの、全身を包まれるような本物の自然の迫力にはとうてい及ばない。

 でも、それでいいのだ。ここに並ぶ鈴木の写真は、「まるで本物みたい」「実際の風景よりきれい!」という比較のためにあるんじゃない。1枚ずつの写真の前に身を置いてみると、実際の自然に触れるときとは全く違った引力の存在を感じ、強く惹きつけられていく。

 実物そっくり、ということを楽しむのでなければ、いったい何が魅力的なのか。

 自分の視線があれこれと誘導され翻弄される、めまいのような感覚である。または、自分の視線というものの存在に気付き、その動きをトレースできることの新鮮さだ。

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 磯の光景でも咲き誇る桜でも、任意の1枚と正対してみる。どこの磯か、いつの桜かといった具体的なことはわからない。特定できる情報は画面内にほとんどない。でも、そんなことはやがて気にならなくなる。ふと目を留めた一点から画面に入り込んだ自分の視線が、ぐりんぐりんと動きだす快楽に、すぐ夢中になってしまうから。

 鈴木の写真には、わかりやすいアイキャッチがない。たいていは、何を撮ったのかよくわからない。それなのに、画面内で最初に視線を注ぐ場所は自ずと決まる。たいていの場合、それはピントが合っているところとなる。被写界深度がとても浅いので、撮り手からある一定の距離にあるものにだけ、ピントが合っている。それより手前や奥にあるものは、少しずつ暈(ぼ)けている。鮮明に見えているのはごく一部だから、そこに知らず誘導される。

 人は習性として、はっきり見えるものにまずは注目する。というより、本来は話が逆で、そのとき注目したいものだけをはっきり見る。例えば、新しい本を広げて読もうとするとき。眼は瞬時に文章冒頭の文字に焦点を合わせ、文字の意味を読みとる。そこ以外の視野は大いに暈けたままだ。冒頭の意味を理解したら、その次の文字、次の行の文章へと視線を移していく。ピントが合うのはその都度ほんの一部分だけで、焦点を合わせたポイントこそ、いま自分が注目したいものごとである。だから、写真の画面のごく一部にだけピントが合っていれば、よほどのことがないかぎり、視線はまずそこへ向く。

 鈴木の作品は一見とりとめのない写真だから、被写体の意味から考えていくと注目点が不明だけれど、視覚的には入口がちゃんと用意されている。

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02へ続く)

Information

「意識の流れ」

フォトグラファー:鈴木理策

2015年2月1日(日)〜 5月31日(日)

会場:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

写真展の詳細はこちら

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