写真家の思考をたどる「写真家のフィールドワーク」は、写真家による写真と言葉で綴られるフォトエッセイ。第7回目は「不思議の国のアリス症候群」という自身が抱えてきた不可思議な症状を、写真で可視化するプロセスを綴った木村和平。ルイス・キャロルや芥川龍之介も抱えてきたという、色覚や時間の感覚などにまつわるこの幻覚症状について、写真家ならではの視点で考察する。そこにはスナップショットで知られる木村が模索しながらも新境地を掴もうとする姿が垣間見れる。
写真・文=木村和平
幼少期から続く症状があった。
自分を構成する上で欠かせない、けれどひとに話すまでもないと思っていた感覚。
ひとまず思い出せる順に羅列してみる。
・色や形が歪んで見える。
・みているものが果てしなく遠く、または極度に近く感じる。
・白黒と蛍光色のイメージが再生される。
・針のような硬く尖ったものと、餅のような柔らかいものがぐにゃりと交わるイメージが再生される。
・主に横になって天井を見上げた際、部屋の四隅がきゅうと収縮する。
・夜中親に説教をされている際、母親の顔が巨大化して見える。
・時間の流れが早く、または遅く感じる。
・会話中あるフレーズが脳内で高速に反復再生される。
これらの症状は日常的に当たり前のように起きていたので、周囲のひとに話したことはほとんどなかったし、ようやく話したとしても、理解どころか関心をもってもらえることすらなかった。けれど、幼い私は共有できない寂しさと同じかそれ以上に、ひとが持っていないものを自分は持っている……?というある種の優越を感じていたように思う。
日常生活を送る中で、それらの症状を強く意識することはあまりなかったが、症状がなくなることもまたなかった。とはいえ苦痛に感じていたわけでもないので、自ら調べたり医者にかかることもしなかった。そして私は、大人になった。
確か7、8年ほど前のある日、Twitterを眺めていると、あるまとめ記事が目に止まった。「不思議の国のアリス症候群」という病に関する記事だった。名前の可愛らしさと、その時点でなにか予感のようなものを感じてリンクをクリックした。症状の欄を読み進めると、自分が体験してきたこととほとんどが一致していて驚愕した。あの時の衝撃は、いまでも簡単に思い出すことができる。
「不思議の国のアリス症候群」は、視覚に異常がないにもかかわらず、ものの大小が現実と異なって見えることを主症状に、色覚や時間感覚に異常をきたすなどさまざまな症状が現れる病であること。その名の通り、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』から付けられていて、キャロル本人や芥川龍之介なども同じ症状を味わっていたらしいことを知った。
幼少の頃、自分だけが持っていると思っていた感覚を、同じように体験しているひとがいるということに安心と失望の両方を感じたけれど、なによりも、それらに名前がついたことがうれしかった。
そして反射的に、アリス症候群についての作品を作りたいと思った。思ったはいいものの、思うようにいかないまま何年も経った。当時私は写真を始めてまもない頃で、技術も知識もなにもかもがなかった。
前述した症状のイメージをビジュアルに起こすならば、絵画やコラージュ、あるいはアニメーションのほうが向いているだろうし、それらを用いて、ルイス・キャロルやヤン・シュヴァンクマイエルをはじめとする作家たちが、すでに高い精度で作品を生み出している。
じゃあ、写真でできることは?
いわゆる症状をそのままビジュアルとして再現することは一旦置いておいて、なにか方法がないか考える日々が始まった。
インターネットで片っ端から記事を読み漁った。ある程度アリス症候群について詳しい人間になっていたと思う。けれど、ひとと話すということがほとんどできていなくて、私はそれがしたかった。
数年前の暑い日に、当日の思いつきで関西へ向かった。日本でも数少ない、「不思議の国のアリス症候群」に詳しい医者を訪ねるためだった。カルテに諸々を書き込み待合室で待機していると、自分よりもあとから来た患者たちが次々と診察室に通されていく。はじめは少し苛立ちを覚えたが、途中からあぁたぶん、最後に回してくれているんだ、と分かった。
私以外の患者がいなくなったあと、診察室へ通された。その時点で閉院時間を回ろうとしていた。
「アリス?アリスなんだ」
どんなかんじ?椅子に座るか座らないかのタイミングで、先生は食い入るようにいった。
「治したいわけじゃないんです」
私のような患者が来院することはめったにないようで、先生は終始興奮した様子で話していた気がしたが、普段からこういうキャラクターなだけかもしれない。いままで出会ったひとの中でも最上位の早口で、話の半分くらいは耳をすり抜けていった。
発症の原因や治療法はおろか、ひとによって症状が大きく異なるためにその全貌も解明されていないこと。偏頭痛や数々の精神疾患と絡めて語られること。話のほとんどはすでにインターネットで得た情報だったが、直接話を聞くのはやはり楽しかった。
「アリスと夢が混ざっていないかい?」
きみは。診察室に入って1時間ほどが経った頃、先生はいった。昔みたアニメの主題歌を思い出したときのような気持ちがした。
確かに、アリス症候群は症状の幅が広く、長年の付き合いを経てどこまでがアリスの症状なのか明確な判断ができなくなってきていた。私は日頃から眠りが浅く、一晩で何種類もの夢をみるし、起きている間のアリスの症状と、睡眠時に見る夢は関連性があることも多かった。この問いがきっかけとなり、アリスの症状と夢の関係性を作品に取り入れようと考え始めた。
私はアリスの症状に悩まされはしたものの苦しんだことはたぶん一度もなく、むしろ楽しんでいたように思う。苦しい思いをしているひともいると聞くし、自分はまだ軽い方なのかもしれない。
構想を始めてからそこそこの年月が経った。ぼうっとしているうちに、「不思議の国のアリス症候群」はテレビで何度か取り上げられ、以前よりも知られた病となった。26歳ごろまでは日常的に症状が現れていたが、この数年でだんだんと症状を感じる頻度は減ってきている。いまでは特におおきな疲労を自覚したとき、ほんの少しの症状が現れる程度になった。
長年肩に乗せていた妖精がいなくなってしまったような気分だ。
このことを忘れてしまうことが、なかったことになってしまうことが怖い。
私はその感覚を、残しておかなければと思った。
現在はアリスの症状と夢のそれぞれの要素から着想を得て、写真に反映させる方法を模索中だ。プリントは前作『あたらしい窓』の制作に引き続き、写真家・熊谷聖司さんの暗室をお借りし行っている。
モノクロプリントに取り掛かるのは2019年に発表した『灯台』の制作以来で、再び基礎を学ぶところからはじめた。撮影時に細かな演出を取り入れたり、プリントの工程で意図的に不具合を起こしたり、仕上がったプリントに蛍光インクで着色したりと実験を繰り返しているが、納得するイメージに辿り着くにはまだまだ時間がかかるだろう。
主にストレートなスナップ作品を制作してきた自分にとっては、あたらしい体験ばかりだ。悩みながらも、そのすべてが楽しい。熊谷さんや画材に詳しい友人、ときには愛猫の力を借りながら、着地点を見つけていきたいと思う。
この作品は、いずれ発表したいと考えている。
症状が完全になくなった頃が、その時だろうか。
木村和平|Kazuhei Kimura
1993年、福島県いわき市生まれ。東京都在住。第19回写真 1_WALL 審査員奨励賞受賞(姫野希美選)。IMA next #6 グランプリ。主な写真集に『袖幕』『灯台』(aptp)など。今年、写真集『あたらしい窓』を赤々舎から刊行。