リサーチ、撮影、プリント、展覧会……それぞれの目的を持って生活圏内から離れ、滞在制作に挑む写真家たち。自分の作品に集中して向き合う限られた時間、あるいは未知の土地との出会いと交流が、リサーチを深め、新たなアイデアを生み、作品を進化させる。いま活躍する日本人作家たちのアーティスト・イン・レジデンスでの経験談から、写真家としてさらなる飛躍を遂げ、世界に羽ばたくためのヒントに迫ってみた。
IMA=文
猛スピードで変わりゆく中国で
そのとき、その場所でしかできないことをやり尽くす
北野謙による「our face」は、1999年から継続的に世界各地のローカルなコミュニティに属する複数の人々のポートレイトを撮影し、一枚の印画紙に重ね焼きしたシリーズである。これまでに150点以上の集団肖像を生みだしてきた同作は、制作と並行して度々発表されてきたが、その中でも特に2010年に北京の三影堂撮影芸術中心(以下、三影堂)で展示された、被写体が等身大以上の大きさに引き伸ばされた巨大なプリントは、世界の写真界に衝撃を与えた。渾身の作品が生まれた背景には、三影堂での3カ月半にわたる滞在制作があった。
2009年に同作のリサーチのために中国を訪れた北野は、「中国の美術が持つ『大きさ』に対する考え方に、西洋美術の持つ隅々まで管理された『大きさ』とは全く違うものを感じて興味を持ちました。例えば、有名な作品でいうと、艾未未の『1トンのお茶』や蔡國強による『big foot』のような作品は、作品自体も巨大だけど、目の前のそれは世界のほんの断片であると気付かされ、目ではとらえられない『世界の本当の大きさ』を想像させる」と振り返る。
その「大きさ」のとらえ方に共感し、写真は1枚の表層にすぎないが、それを巨大化させることで、表層の向こうに無数の他者の存在を覗き見ることができ、集積の中に世界を想像させるような作品を作りたいと感じたという。以前から鏡で自分の姿を見るような感覚で、等身大の「our face」を作りたいと思っていたこと、そして三影堂を主宰する榮榮に、彼らが保有する日本ではもう見ることがない大きな暗室での制作を勧めてもらったことなど、さまざまな考えやタイミングが重なり、北京での滞在制作を決意した。
ジェットコースターのような疾走感に包まれた北京で、当時は三影堂もまだ手探りでさまざまなプログラム作りに奔走していた時期に、同世代である榮榮、そして出版と翻訳をしていたスタッフと「面白いことをやろう、という雰囲気で意気投合しました。そういうタイミングってある気がします」。
帰国後、北野は1年間かけて準備をし、費用もかなりかかるため、公益財団法人ポーラ芸術振興財団と国際交流基金から日本人作家の海外滞在制作発表のための助成金を得た。2010年5月からの3カ月半の滞在制作は、猛烈に忙しく、充実した日々だったと話す。
「最初の1カ月は、制作の仕組みづくりでした。誰も挑戦したことのないプリントなので、テストを繰り返してなんとか独自の制作方法を確立した頃に、やっと三影堂のみんなが『こんなに複雑なプリントなのか』と理解してくれた気がします。最初のプリントが出来上がったときは、暗室に集まったみんなから歓声が上がりました。1枚のプリントを仕上げるのに、3、4人がかりで2~4日を要します」
イルフォードの142cm幅ロールのバライタ紙を使い、142cm×178cm(印画紙寸)にミリ単位で位置を調整しながら肖像を焼き付ける作業を数十回も繰り返し、「巨大な印画紙とファイトする格闘技のようなプリント制作だった」。また、「一方で、アナログはひとつのミスがすべてを台無しにするので、集中力とチームワークが必要だった」と語る。常にコスト面も気にしなければならなかったので、緊張感も伴ったという。
「電圧が不安定だったり、古い引き伸ばし機なので電球が切れたりと、予定通りに進まない中、毎日のようにさまざまな打ち合わせやゲストの対応もありましたね。制作だけでなく、展覧会とシンポジウムを行い、加えて図録と記録映像を作ることにしました。三影堂のスタッフや日本の画廊も手伝ってくれますが、全体を見渡しプロジェクトを管理するのは自分なわけです」
ようやく最終的なアウトプットが見えてきたのは、展覧会の開催が迫る6月後半のことだった。「多忙を極める中、前に進めたのは、あの環境のおかげだった気がします。滞在作家は毎朝、三影堂の中庭を独占できる。建物に囲まれた三角形の中庭は、守られていて龍の懐にいるよう。たとえ外の世界で何が起こっていても、そこでは自分の作品のことだけを考えていていいと思える空間なのです。勇気が湧いてきました」。
結果的に日本では技術的に制作できなかった作品が、国外でもたびたび展示されるようになり、「海外に行くと『北京で発表していた、あの作品ね』とお見知りおきいただくようになりました」。現在は国内4つの美術館に収蔵され、北野による代表作のひとつとなっている。その後も、三影堂との付き合いは続き、「暗室制作も短期では何度か行いましたが、現在は困難です。材料費、人件費の高騰、何より中国元と日本円のレートが全く変わってしまい、当時の3~4倍の費用がかかってしまいます。あの時でないと制作できなかったかもしれません」と話す。
海外でのレジデンスでは、「目的を持って行くことが重要。外国は環境が違うので、行くだけで何かを発見した気になってしまうが、明確な目標を設定しないと、成果を生み出すのは難しい。その時期にそこでないとできない展示なり、制作なり、リサーチにフォーカスするべき」という北野のアドバイスほど、説得力のある言葉はないかもしれない。
Three Shadows Artist-in-Residence Program
三影堂アーティスト・イン・レジデンス・プログラム/北京(中国)
2007年、自らも写真家である榮榮&映里が、北京・草場地の4,600平方メートルもの巨大な敷地に設立した写真センター、三影堂によるレジデンスプログラム。図書館や展覧会スペースなどが併設され、リサーチ、制作、発表を行うことができる。滞在作家のプロジェクトに合わせ、中国での制作を彼らのネットワークや設備を使ってサポートしてくれる。北野は「作家、キュレーターやコレクターはもちろん、写真界以外の人にも、さまざまな人と会いました。特に同世代の作家たちが、写真や美術界を動かしていることに触れられたことは大きかった」と振り返る。まさに中国における現代写真のハブといえる場所だ。
三影堂で、北野も活用した「アナログ写真で可能な最大規模の大きさに挑戦できる環境」。材料や設備の面では、何度も壁にぶち当たったというが、「足りないものは、手作りしたりしました。絶対に解決方法があるので、諦めないこと」。ひとりではできないサイズのプリントを現地のスタッフとともに制作し、出来上がったときには、ともに喜んだ。
2010年の夏、三影堂のギャラリースペースを2フロア使用する、大規模な個展を開催した。そこで制作した「our face」はもちろんのこと、それ以外の作品も日本から運んだ。会期中に行われた肖像をテーマにしたシンポジウムには、批評家の光田由里と日高優、キュレーターの本尾久子が中国の写真および美術関係者とともに参加。図録のデザインを手がけた町口覚ら関係者も訪れた。「国際交流という意味でも、人の出会いの場になったと思います」。
北野謙|Ken Kitano
1968年、東京生まれ。1991年、日本大学生産工学部数理工学科卒業。作品に「our face project」、「FLOW AND FUISON」、「光を集める」など。2004年写真の会賞、2011年東川写真賞新人賞、岡本太郎現代芸術賞特別賞を受賞。2012年には文化庁芸術家在外研修員としてロサンゼルスに1年間滞在した。
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