2024年9月に千葉市美術館で個展『Nerhol 水平線を捲る』展を成功させた田中義久と飯田竜太によるアーティスト デュオ・Nerhol。グラフィックデザイナーである田中と、紙や文字を素材とする彫刻家の飯田は、それぞれ独立したキャリアを積む傍ら、2007年から共に活動してきた。今回、美術館初となる個展の開催に際し、Nerholが歩んできた17年について改めて話を聞いた。
『IMA Vol.42』から転載。
テキスト=深井佐和子
写真=高木康之
いくつかの転換点を超えて
ーまずは活動のきっかけとなったお二人の出会いについて教えてください。
飯田竜太(以下、飯田):Nerholとして作品を初めて発表した2007年まで、僕は彫刻家として展覧会などで作品発表をしていて、田中もグラフィックデザイナーとして独立して活動していました。ある時、田中が僕の作品を見てくれて突然連絡をくれたんです。
田中義久(以下、田中):最初はすごい警戒されたよね(笑)。
飯田:僕はそれまでも誰かと一緒に作品を制作したり発表したりという機会が結構あったのですが、それなりに苦労もあったので余計慎重になっていたんです。でも田中のスタジオを訪れていろいろ話したら面白い人だな、と。特に印象に残ってるのが紙の「盲牌棚※」。500 段ぐらいある棚に異なる種類の白い紙が10000枚ぐらい入っていて、田中は目で見なくても触るだけで用紙の種類がわかるんです。この人はやばい! と(笑)、こんな人とだったらいろいろなチャレンジができるかもしれないと直感で思ったんです。
※編集部註:盲牌(モウパイ)は麻雀用語のひとつ。指の腹で牌の図柄の凹凸をなぞり、感触だけでどの牌か識別すること。
田中:でも実はこんなに長く活動が続くとは想像もせず、最初は 1 回きりの企画のつもりで一緒に作品を作ったんですよね 。私たちとしては結構面白いと思ったんですけど、「グラフィックデザインと彫刻」っていうことに対して周りからの拒絶反応が結構あって。伝えたかったコンセプトを表現するにはどうしたら良いのか、そこからディスカッションとトライアンドエラーが始まって、気づいたら今に至るという実感です。
飯田:当時、僕は青森で教職についていて、田中は東京で活動していたので、遠距離でリサーチをしたり、モックを作りながら試行錯誤を続けていました。その後、2012 年頃に僕が東京の大学院に行くことになって週1で、青森から東京に通い始めたので、毎週顔を合わせて相談できるようになったらどんどん制作が進んで、国内での発表や、スイス、オランダで展示の機会に恵まれることになったんです。
ー2015年にオランダのFoam写真美術館やスイスのフォトフェスティバルで大きく紹介されました。
田中:評価してもらえたのは自信にもなりましたし、その先を考えるきっかけにもなりました。『Misunderstanding Focus』 までは、ある意味プロセスがシンプルで、決めてから彫って作業が終了すれば完成なのですが、じゃあ単体のイメージの深さを表現するにはどうしたらいいのか、飯田君と徹底的に話し合いました。その後 2017 年に韓国のYoungeun Museum of Contemporary Art( ヨンウン現代美術館)で滞在制作をしたのが大きなターニングポイントになりました。
飯田:今までのプロセスでは、僕が彫りやすいように田中が素材を作ってくれていましたが、そうじゃない方法もあるのではないかと。また、彫刻的な問題としても、それまでカッターを主なツールにしていたんですが、物理的な作業量や正確さが全面に出てしまうとペーパーアート的要素が高くなっていく懸念もあって。それを解決するためにグラインダーややすりを使うようになりました。あえて荒削りな方法も取り入れて、イメージの何を見せて何を見せないかを考える、という新しい視点が生まれました。
田中:そこから作品が大きく変わりましたね。
飯田:活動初期に、自分たちらしい表現を深く考えた時に、 時間の積層を表すのにポートレートが適した素材だったんです。そしてその先へと進むにあたり、連続写真の性質、時間軸、立体的な彫刻としての物体性、視覚性と、どんどん自分たちの作品の要素をひもといて深く考えていく必要があったんですよね。
田中:また、大きな変化として、自分たちで撮影していないイメージを初めて素材にしたんです。それまでは素材となる写真は自分たちで撮影をしていたのですが、その時は従軍慰安婦をテーマに据えて韓国で制作をしていて、美術館の近隣にあった施設「ナヌムの家」に協力していただいたのですが、入居者の人々のプライバシーや健康上の懸念もあって撮影もインタビューもできなくて。その代わりアーカイブ映像を提供してくださったのでそれを素材として使用したんです。
飯田:それは Nerhol の作品を作っていて初めて「彫りづらい」 状態だったんです。それまではカッターできれいに表象を作り上げてきたのが、なんかやりづらいなと。インタビューに映る人の顔を出すべきかという倫理的なこともあるし、そもそもその個人に関する情報に伝えたいことがあるわけではない…それで、削っている状態で一回やめよう、となったんですね。
田中:そしたらモノクロのイメージに白場が多く残って、何だかよくわからないものができていた。でもその時、今までは連続写真を撮影して彫って作業が終わったら完成、というリニアなプロセスしかなかったのが、表面に残る白い跡が急に自分たちのキャンバスの上に塗る絵具のように表現の一つに見えてきたんです。そこから紙の白場を隠したり、光として使ったりと絵画的に扱うようになりました。プロセスに終わりがなくなり作業時間は増えたんですが、積極的に自分たちの視覚性を表象させるという方向に変わったんです。
ー従軍慰安婦というテーマを選んだのはなぜなのでしょうか。
田中:韓国でレジデンスしていた美術館のすぐそばに慰安婦問題を伝える博物館と介護施設があったんです。私の父親が韓国人なのですが、もうその繋がりは戸籍上途絶えてしまっているので、個人的にも韓国と自分との関係はずっと気になっていたし、また、その美術館に日本人が滞在制作するのは私たちが初めてと聞いて、日本人作家としても向き合うべきなのでは、と思って。思い切って美術館に相談したら、やってみようと言ってくれたんです。
飯田:もちろん悩みました。題材として扱うことで作品としての表象よりも背後の文脈が作品の本質と思われてしまうのではないかと。田中君ともすごく話し合いましたが、題材の歴史的意味合いが先に立っても、それでも美しいものとして存在する作品を制作するのが重要ではないかという結論になりました。小さな美術館で、英語もお互い流暢ではないけれど、僕たちがやりたいことに全面協力して博物館とも連携してくれて。そこでした対話も貴重な経験になったし、歴史的背景はそれぞれ持っていてもこうやってコラボレーションしながら作品を作り上げることができる、ということに絶対的に価値があると思ったので、目と鼻の先にある施設やそこが持つ歴史的な意味を無視するという後ろ向きな態度ではなくて、 むしろ積極的に伝えていこうと自然に思ったんです。
田中:そこでレジデンスの意義や可能性に気づきましたね。 自分たちでリサーチしフィールドワークを経て作品が完成する。出来上がった作品を単体で見ても面白いし、かつそれがきっかけになってイメージの背景にも関心を持つ。それは健全なあり方ではないかと思ったんです。現地の人と話していると同じアジア人としての共通の感覚にも改めて気づいたし、 どんな出来事があって自分は今この場所にいるのかということを考えて、歴史における民族の移動、それに伴う、種の変化や流れにも大きな興味を抱くようになりました。
ーそれが帰化植物を題材にした『Naturalized Species』にも繋がるのですね。
田中:そうですね。例えばチューリップにしても、かつては球根1つが非常に高価だったけれど、大量生産化され日本に流入し今では花壇に咲くのが日常の風景になったり、人の往来や価値観の変化で世界がどんどん変わっていく。そしてバタ フライ効果のように一人の人間の行為が想像を超えた距離まで広がっていくことをテーマに取り入れるようになりました。
偶然を必然に結びつけるのが彫刻
ーパブリック・ドメインの動画アーカイブを使用するようになったのも、韓国のレジデンスからですね。
田 中 : VOCA展で受賞した《Remove》(2020)の映像もそういった関心を元に制作しました。実際はアポロ計画に付随するNASAの重力テストの映像ですが、アーカイブ映像をたくさん見ている時で、ちょうど人体実験とかエジソンの本を読んでいたので、あ、ナチスの人体実験の映像かな、って一瞬思ったんです。自分の中に仮説があったのでそれを繋げて連想してしまった。でもそれをひもとくと、エジソンが電気椅子開発に携わった話、ナチスの記録、そして冷戦の象徴であったアポロ計画と、歴史上繰り返されてきた問題がある。そういった歴史的背景を現代に生きる自分が無意識に知覚するところに写真の面白さを感じて、その興味を作品化するという方法が身についてきた時期だったんです。
ー素材となるイメージの選び方に変化が出てきて、そこにどう「彫る」という行為が重なってくるのでしょうか?
飯田:その偶然性を必然性に結びつける、繋ぐのが彫刻という行為だと思ってます。たくさんのリサーチを経て元となるイメージに辿り着き、さらに時間軸的に遠い状況を、彫ることによって現在に繋いでいく。だから彫刻って僕らの中で、彫って切り刻んでいくんだけれども、切断するんじゃなくて時間軸を繋いでいく行為みたいなところがあるんです。そのことは振り返れば初期から感じてはいたものの、ああ、そういうことだったんだって改めて言葉になってきたのは、2018年に別府で参加したアーティスト・イン・レジデンス「KASHIMA」の時くらいですかね。時間の集積を彫刻にするのは、基本的にイメー ジ上にノイズを作ることで、意図的にデフォルメすることは過去のアーティストもたくさんやっていたけど、僕たちの場合は素材がもともと持っている移動の足跡を正確に彫って繋げていくと自然にそういう表層になる。だからデフォルメしようとコントロールしたことはないし、できないんです。イメージが持っている、バラバラの時間を1つのイメージに結びつけると、そこには自然とずれや白場や歪みができる。その余白が、鑑賞者に「解読したい」という感情を呼ぶのではないかと思います。
田中:現代では SNSを含めて多くのイメージが恣意的に撮影されている。被写体となっている対象物の歴史的背景や経験、情報は無限にあるけど、その解像度を持っていたら暮らしていけないですよね。でも本当はあらゆる対象の背後にそれが存在し、自分と無関係に見えても過去の人間の行為の因果でそれはそこに存在している。その自分と世界との関係性を照らし合わせたりほどいていくことを考えるきっかけをもたらしたいんです。彫刻的にすることで「知っている」が揺れる。揺らさないと、意識も揺れないんです。みんな未知を既知で理解しようとするけど、見たことないものを目にすると「これなんだろう」って考える。未知と既知の中間にあるものが大切な気がするんです。
ー活動初期から現在までの17年間は、アートのみならず社会も含めてイメージへの振る舞いが大きく変化した時期でした。現代に生きる私たちのアイデンティティとイメージの関係性も大きく揺らいできましたね。
歴史をリサーチし、時間を可視化する
田中:そうですね、テクノロジーとメディアの関係でいうと、連続写真という大量の印刷を必要とするモチーフを選んだこと 自体、現実的に制作費を考えると昔はできなかったことですからね。テクノロジーの進化の恩恵はすごく感じていて、プリントのクオリティや耐久性、スキャンの精度も上がっているし、 布でもなんでもプリントできるし、またパブリックドメインにアクセスできることも大きい。そういうことは作品制作の可能性をすごく広げてくれています。
ー長い時間の中でそれぞれの興味や関心も変化してきていると思うのですが、どういうスタンスで長年一緒に活動されているんですか?
飯田:とにかくよく会話していますね。今興味があることとか、 たわいもない話から真剣な話まで。二人で同じ方向を向いたらこんなに長年続かないような気がしますし、ある程度別々の方向を見ながら、ずっと並行して一緒に制作している感覚があります。やっぱり2 つの目線があるのがいいんだと思うんです。お互いの役割があってそれぞれ責任を持っているので、双方向からのアプローチが一致したものが結果になって出てくるんだと思います。
田中:長く話しているのでお互いの価値観は理解しているし、話せば話すほど自分自身のやりたいことや興味の対象もより明確になるので、それが深く絡まっている状態ですね。全く違う人間だからこそ交差点もあるし、だからどんどん次の作品に向けて走っていけるんだと思います。
ー近年の作品を拝見していると、作品を通しての他者や地域とのコミュニケーションに対して非常にオープンですよね。
田中:それは特にこの 5 年間で顕著でしたね。自分たちの作品を客観視したかったこともあり、とにかくいろんな人と作品について対話しようと心がけていました。例えば太宰府天満宮では、宮司さんと対話をしながら神社のこともリサーチしていたら、紙は神事にとって非常に重要なことがわかってきた。 なので今度は新しくその土地に根ざした素材を入れて紙を作ってみたり。そうやって新たにフィジカルな素材を作るということも、映像のアーカイブからイメージを探す作業の延長線上にあるんです。時間軸をどういうふうに見せていくかという私たちの作品の基本的なコンセプトは変わらないんです。その上で、例えばポートレートのように数分間だったり、種の移動という長い時間だったり、もしくは木のように対象自体が長い時間を内包している素材だったり。それを作品として立体的にすることでさらに違った何かが見えてくる。それを基本にした上で、どんなテーマでも対話やフィールドワークを重ねな がら、リサーチして素材を探して、どうやってこの時間軸を可視化しようかと考えているんです。
ー今後の展望について教えてください。
田中:来年には国内でまた大きな美術館の個展が決まっているので、なるべく新作でやりたいなと思っていて、再びポートレートの作品に挑戦したいと思っています。現在その地域のことをいろいろリサーチしているところです。あらゆる場所には歴史があって、私たちはそれを辿るリサーチはしますが、懐古主義にはならず、あくまで「現在」にフォーカスしたい。今いる人々、そこにあるものが内包する豊かさを、作品を通して表現したいと思っています。見慣れた世界が美しく、新しいイメージになって見えてくるというのが、私たちの作品の重要なところだと思っているので、これからもリサーチを通じてそういう作品を一つずつ積み重ねていけたらと思っています。
ネルホル | Nerhol
田中義久と飯田竜太により2007年に結成されたアーティストデュオ。紙と平面的構成によるグラフィックデザインを行う田中と、紙や文字を素材とする彫刻家の飯田からなる。田中は、1980年静岡県生まれ。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科を卒業後、慶應義塾大学大学院政策・ メディア研究科在学中。飯田は、1981年静岡県生まれ。日本大学芸術学 部美術学科彫刻コースを卒業、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。写真と彫刻を往還する独自の表現を通じ、現代的な視点から人間社会と自然環境、時間と空間に深く関わる多層的な探究を続けている。主な個展に、「 Tenjin,Mume,Nusa」(太宰府天満宮宝物殿、福岡、2024年)「Beyond the Way」(レオノーラ・キャリントン美術館、メキシコ、2024年)、「Affect」(第一生命ギャラリー /M5 GALLERY、東京、2023年)「Interview, Portrait, House and Room」(Youngeun Museum of Contemporary Art、韓国、2017年) 、「Promenade」(金沢21世紀美術館、石川、2016年)など 。