IMAが主宰する「STEP OUT!」とは、日本人の若手写真家を発掘し、世界へ羽ばたくサポートをすることを目的とした多様なプログラム。これまでにポートフォリオレヴューの開催や雑誌『IMA』、グループ展を通しての作品紹介などを行なってきたが、今回新たにIMA ONLINE版の新連載をスタートする。毎回ひとりの若手作家をフィーチャーし、書き手にキュレーターの若山満大を迎え、常に変化してやまない新たな写真表現を掘り下げる。第1回に登場するのは、ベルリンを拠点に活動する武村今日子。鮮度を保ったまま長期保存したいという人間の欲の彫刻として缶詰をとらえたり、死後の世界に持っていけない贅沢品を燃やしたり……。日常に潜む「あたりまえ」に焦点を当てながら、私たちが普段見て見ぬふりをしがちな生と死の境界線を多様なアプローチで問う武村の魅力に迫る。
テキスト=若山満大
日本で商業としての葬儀屋が誕生したのは明治時代にさかのぼるといわれている。葬式がアウトソーシングされて久しい。近代社会は死を可能な限り外部化しようと努めてきた。ゆえに死(あるいは生死のあわい)について考えることは少々不都合で不愉快なことではある。しかし反面、じつに興味深いことでもある。
武村今日子は、アートという形式を通じて、おそらくそのような話をしている。そんな彼女の代表作、例えば〈Mirakelmann〉や〈Cabinet of Life〉によって言及されるのは、まさしく生死の汽水域、なかんずく死という概念から遡及的に発見される生の仄暗さである。あるいは〈Canned〉によって表現される缶詰のグロテスクな永遠性、〈Taste of Ostalgie〉が扱う失われた食文化という鮮度を欠いた過去もまた、生死を裏表から同時に見ようという武村のユニークな視座ならではの発見というべきだろう。
〈Luxury beyond Death〉
ベトナムなどのアジア諸国では、紙幣や身の回りの品を模した紙を親族が燃やすと、煙を通して故人に物資を届けられると信じられている。しかし、死後の世界におけるお金やブランド物の価値とは? 消費社会に生きる人間の物質的な豊かさへの執着に焦点を当てながら、死の向こうで私たちを待ち受けるものについて問いかける。
彼女の仕事でとりわけ印象的な〈Luxury beyond Death〉では「豊かさ」の象徴が燃えている。いずれも死後の世界には持っていけないものばかりである。デジタル写真が作り出す仮想の世界が、同じく仮想に過ぎない死後の世界に若干のリアリティを与えているのはおもしろい。
他方〈Holy Territory〉〈Our Lady for Sale〉では、資本主義や社会主義の中で陳腐化され、骨抜きにされたキリスト教のイメージを扱う。単に商品やその装飾として市場に流通するそれらは信仰のよすがとはいい難いが、しかし買われることで売り主を「救っている」という皮肉な事実もあろう。後生の解決はしてくれないが、今生の延命には寄与してくれる「神聖な」イメージというわけだ。
彼女は作品によって社会のなかに再度、死を布置しようと努めている。あるいは外部化された死の所在を突き止め、丁寧に報告してくれている。それは余計なお世話だろうか。室町時代の禅僧・一休禅師は「死の用心、死の用心」と唱えながら正月の街頭を髑髏を掲げて練り歩いたという。毎日忙しくて死ぬ暇すらない人々のために。
武村今日子|Kyoko Takemura
1992年、神奈川県生まれ。ロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズ校卒。ベルリン在住。「あたりまえ」を再検証しながら、既製品や食文化など人工物に映し出された人の心や社会を可視化する。生と死の境界をさまようモチーフを取り上げ、肉体と意識の関係、生命とは何かなどの問いを扱う作品にも取り組む。賞歴にジャパンフォトアワード、Sony World Photography Award、Kassel Dummy Awardなど。
https://kyokotakemura.net/
若山満大|Mitsuhiro Wakayama
1990年、岐阜県養老町生まれ。東京ステーションギャラリー学芸員。愛知県美術館、アーツ前橋などを経て現職。最近の著作に『Photography? End? 7つのヴィジョンと7つの写真的経験』(magic hour edition)、「非常時の家族 — 戦中日本の慰問写真帖について」(『FOUR-D note’s』掲載)、『やわらかい露営の夢を結ばせて —戦中日本の慰問写真に関する断章』(『パンのパン03』所収)など。主な企画展に「写真的曖昧」「甲斐荘楠音の全貌」「鉄道と美術の150年」などがある。