10 March 2023

STEP OUT! vol.1 武村今日子
「あたりまえから問う生と死」

10 March 2023

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STEP OUT! vol.1 武村今日子「あたりまえから問う生と死」 | STEP OUT! vol.1 武村今日子「あたりまえから問う生と死」

IMAが主宰する「STEP OUT!」とは、日本人の若手写真家を発掘し、世界へ羽ばたくサポートをすることを目的とした多様なプログラム。これまでにポートフォリオレヴューの開催や雑誌『IMA』、グループ展を通しての作品紹介などを行なってきたが、今回新たにIMA ONLINE版の新連載をスタートする。毎回ひとりの若手作家をフィーチャーし、書き手にキュレーターの若山満大を迎え、常に変化してやまない新たな写真表現を掘り下げる。第1回に登場するのは、ベルリンを拠点に活動する武村今日子。鮮度を保ったまま長期保存したいという人間の欲の彫刻として缶詰をとらえたり、死後の世界に持っていけない贅沢品を燃やしたり……。日常に潜む「あたりまえ」に焦点を当てながら、私たちが普段見て見ぬふりをしがちな生と死の境界線を多様なアプローチで問う武村の魅力に迫る。

テキスト=若山満大

日本で商業としての葬儀屋が誕生したのは明治時代にさかのぼるといわれている。葬式がアウトソーシングされて久しい。近代社会は死を可能な限り外部化しようと努めてきた。ゆえに死(あるいは生死のあわい)について考えることは少々不都合で不愉快なことではある。しかし反面、じつに興味深いことでもある。

〈Mirakelmann〉(2022 - )
ドイツ語で「奇跡の人」を意味するMirakelmanは、16世紀に制作され、現在はドイツの教会に保管されている等身大のキリストの像。解剖学的に忠実で、本物の遺体に非常に近い造形を持つが、心が宿っていない「ひとがた」 は、人間と人形を隔てる生命や意識といった差異の部分について疑問を投げかける。

〈Cabinet of Life〉(2017、撮影:Nick Dunne)
水槽の中で一見生きているように見える魚は、実はすでに意識の去っていった空の容器であり、誰しもが行き着く姿でもある。デカルトが他者に精神が宿っていると証明するのは不可能だと説いたように「生きている」とは目に見えない不確かな状態なのだ。

〈Canned〉 (2022)
生鮮食品は、缶詰に加工されると数年間も貯蔵が可能になる。グロテスクでありながらも美しい食品の塊は、安価に大量の食料を保存、供給したいという人の心、欲望が作った彫刻と見ることもできる。

〈Taste of Ostalgie〉 (2022)
ドイツ分裂時代、慢性的な食糧不足だった旧東ドイツでは、限られた食材で作る独自の料理が生み出された。本作では、その当時一般的だった家庭料理を再現している。ベルリンの壁崩壊と共に姿を消した食文化の中に、失われた国の社会の様相や、それに適応してみせた庶民の知恵と創造性を見ることができる。


武村今日子は、アートという形式を通じて、おそらくそのような話をしている。そんな彼女の代表作、例えば〈Mirakelmann〉や〈Cabinet of Life〉によって言及されるのは、まさしく生死の汽水域、なかんずく死という概念から遡及的に発見される生の仄暗さである。あるいは〈Canned〉によって表現される缶詰のグロテスクな永遠性、〈Taste of Ostalgie〉が扱う失われた食文化という鮮度を欠いた過去もまた、生死を裏表から同時に見ようという武村のユニークな視座ならではの発見というべきだろう。

〈Luxury beyond Death〉(2018)

〈Luxury beyond Death〉
ベトナムなどのアジア諸国では、紙幣や身の回りの品を模した紙を親族が燃やすと、煙を通して故人に物資を届けられると信じられている。しかし、死後の世界におけるお金やブランド物の価値とは? 消費社会に生きる人間の物質的な豊かさへの執着に焦点を当てながら、死の向こうで私たちを待ち受けるものについて問いかける。

彼女の仕事でとりわけ印象的な〈Luxury beyond Death〉では「豊かさ」の象徴が燃えている。いずれも死後の世界には持っていけないものばかりである。デジタル写真が作り出す仮想の世界が、同じく仮想に過ぎない死後の世界に若干のリアリティを与えているのはおもしろい。

〈Holy Territory〉(2023)
インターネットで販売されるキリスト教関連の商品の考察を通して、 消費文化の強力な渦の中に生きる人間の営みのおもしろさを浮き彫りにするシリーズ。私たちの生活の隅々まで浸透した市場経済の見えざる手は、さながら神に替わる超自然的存在のようである。

〈Our Lady for Sale〉(2022)
中国製の聖母マリア像を撮影したシリーズ。信仰心を支える置物が、神の存在を認めていない社会主義国家で「単なるモノ」として大量生産され、付加価値として「神聖さ」が利用されている。その奇妙な構造に着目し、現代の資本主義社会を考察する。


他方〈Holy Territory〉〈Our Lady for Sale〉では、資本主義や社会主義の中で陳腐化され、骨抜きにされたキリスト教のイメージを扱う。単に商品やその装飾として市場に流通するそれらは信仰のよすがとはいい難いが、しかし買われることで売り主を「救っている」という皮肉な事実もあろう。後生の解決はしてくれないが、今生の延命には寄与してくれる「神聖な」イメージというわけだ。

彼女は作品によって社会のなかに再度、死を布置しようと努めている。あるいは外部化された死の所在を突き止め、丁寧に報告してくれている。それは余計なお世話だろうか。室町時代の禅僧・一休禅師は「死の用心、死の用心」と唱えながら正月の街頭を髑髏を掲げて練り歩いたという。毎日忙しくて死ぬ暇すらない人々のために。

武村今日子|Kyoko Takemura
1992年、神奈川県生まれ。ロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズ校卒。ベルリン在住。「あたりまえ」を再検証しながら、既製品や食文化など人工物に映し出された人の心や社会を可視化する。生と死の境界をさまようモチーフを取り上げ、肉体と意識の関係、生命とは何かなどの問いを扱う作品にも取り組む。賞歴にジャパンフォトアワード、Sony World Photography Award、Kassel Dummy Awardなど。
https://kyokotakemura.net/

若山満大|Mitsuhiro Wakayama
1990年、岐阜県養老町生まれ。東京ステーションギャラリー学芸員。愛知県美術館、アーツ前橋などを経て現職。最近の著作に『Photography? End? 7つのヴィジョンと7つの写真的経験』(magic hour edition)、「非常時の家族 — 戦中日本の慰問写真帖について」(『FOUR-D note’s』掲載)、『やわらかい露営の夢を結ばせて —戦中日本の慰問写真に関する断章』(『パンのパン03』所収)など。主な企画展に「写真的曖昧」「甲斐荘楠音の全貌」「鉄道と美術の150年」などがある。

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