Photographers' Field Work

写真家のフィールドワーク vol.5
福島とフクシマ、小さくなった父:上竹真菜美が撮る故郷・福島のいま

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上竹真菜美 02
上竹真菜美 03

2020年の東京五輪へとカウントダウンを始めた私たちは、同時に「復興の終結」に向けて歩みを進めている。2021年3月の復興庁廃止によって、被災地の事情はいままで以上に見えなくなっていくだろう。3.11以来、上竹真菜美は故郷福島と東京を往復しながら写真を撮り続けている。その理由は告発でも暴露でもない。病気になった父を見舞うための束の間の帰省。いつも通りの穏やかな、あっけらかんとした日常の中に、しかし「フクシマ」は異物のように入り込む。記憶と現状の錯綜から生まれる個別具体的な物語。その中にニュースでは決して報じられることのない「福島のいま」が浮かび上がる。「写真家のフィールドワーク」第5弾は、被災した故郷を歩く女性写真家のフォトエッセイ。

文・写真=上竹真菜美
企画・編集=若山満大


2011年の3月には、私はすでに福島を離れていた。私は小学校から高校を卒業するまでを福島で過ごしていたが、進学をきっかけにして東京で暮らすようになっていた。地震の直後は福島にいる両親となかなか連絡がとれず心配していたが、数日経ってから無事を知らせるメールが配給米の写真といっしょに届いた。父は、コンクリートの地面が波打つのを初めて見た、死を覚悟したなどといっていた。

地震から数日経って、ようやく全体の状況も明らかになってきた。テレビでは黒い津波が街を飲み込む映像が繰り返し流されていた。ヘリコプターが原発に水をかける映像を見ながら、その光景のあまりの現実感のなさに困惑したことを覚えている。やがて父は福島を離れ、東京で仕事を探し始めた。父が東京で働くようになったので、前は年に何回か帰っていたものの、福島に帰ることはなくなった。

そうして数年が経ったある日、父の病気が発覚した。


上竹真菜美 04

病気のせいで仕事が続けられなくなった父は福島に帰っていった。父の様子を見るために数年ぶりに福島に帰ると、ほとんど何も変わっていないように見えた。数年の間隙も感じないまま、それから定期的に福島に帰るようになった。

父の体はゆるやかに悪くなった。合併した骨粗鬆症で背骨が何箇所も折れて、椅子や布団の上からほとんど動けなくなっていた。立ち上がるときには、どこからか拾ってきたカメラの一脚を杖代わりにして、息を吐きながら少しずつ立ち上がる。それだけで痛い痛いとうめき声をあげていた。手を貸すとかえって迷惑なようなので、私にはうめきながらゆっくりと歩く父をただ見守ることしかできない。歯の中身がスカスカになって簡単に折れてしまったり、突然足がパンパンにむくんで象の足のようになったり、父はほかにもいろいろな不調と付き合っていかなければいけなかった。


その日もいつものように両親の家を訪ねていた。家の近所を歩いていると、見慣れた福島の町中に、見慣れない人工的な緑色の物体がいくつもあることに気がついた。いっしょに歩いていた母にあれは何かと尋ねると、除染で出た汚染物質を保管しているのだという。緑色のビニールで覆われた物体は、民家の庭やビルのあいだなど町中に点在していた。その緑色の物体には、それがその場に設置された日時と、そのときに測定された放射線量の張り紙がされている。見る限りではどれも設置されてからすでに数年経っていたが、母はあまり気にしていないようだった。


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調べてみると、その緑色のカバーの中には除染作業で取り除かれた土砂が保管されているらしい。そうした除染土砂は仮置場や処理施設に搬送されるまでのあいだは現場で保存するというのが基本だそうだ。庭付きの一戸建てや畑の多い福島市内では、どこを歩いてもその除染土砂の人工的な緑色が目についた。

見慣れた風景の中にノイズのように存在するその緑色が気になって、もっと探してみることにした。手始めに福島駅前周辺の住宅地を歩いてみると、それはいくらでも見つかった。遠くまで歩こうと決めて駅前を出発すると、福島市の中心部から数キロ離れた飯坂という街で育ったせいか、自然と足がそちらの方へと向かった。飯坂線という福島駅から飯坂温泉駅までをつなぐ9キロほどの短い私鉄がある。数え切れないほど乗ったその飯坂線沿いの県道を歩きながら除染土砂を探した。そして見慣れた風景のあちこちで、その緑色の物体を見つけた。


また別の日、福島駅前でタクシーの運転手さんに自分で撮った除染土砂の写真を見せて、これがあるところを知らないかと尋ねた。運転手さんは「ああ、フレコンバッグね」と独り言のように呟いて信夫山へと連れていってくれた。信夫山は駅の近くにある山で、福島に住んでいた頃はよく母の運転で夜景を見に展望台へ行った。運転手さんの家の庭にも除染土砂が長いあいだ保管されていたそうだが、最近ようやく業者に回収されたらしい。そんな話を聞きながら信夫山にたどり着くと、まず大きな緑色の山が見えた。それが除染土砂の仮置場だった。市内の除染土砂を集めて大きな緑色のカバーをかけて管理しているようで、傍には放射線量を表示する電光掲示板が立っていた。この日の放射線量は1時間に0.16μSv。それが多いのか少ないのか、すぐにはピンとこない。山をさらに登っていくと、黒いフレコンバッグに入った除染土砂を積み上げている現場があった。


「震災とか復興とか、そういうのもいいけど、今日は天気がいいから景色を見よう」。タクシーの運転手さんがそういうので、そのまま展望台まで連れていってもらった。タクシーを降りて二人で景色を見る。その日はたしかに天気がよくて、眼下の市街地がよく見渡せた。「除染土砂なんか撮ってないで、猫とか撮ったほうがいいんじゃないの」「そうかもしれませんねえ」。そんな話をしながら眺める福島の街は、私の知っているいつもの福島に見えた。


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近くのおいしい蕎麦屋の話を最後に聞いて、駅前のロータリーでタクシーを降りた。料金は5,000円弱だった。そのまま歩いて家に帰ると、父が椅子に座ってスマートフォンで映画を観ていた。父はいつも家でYoutubeやFacebookを見て時間をつぶしている。体が痛くて動かせないので、ほかにやることがないのだ。父の正面に座ってその日に撮った写真を見返していると、信夫山の仮置場前の立て看板に「景観に配慮してみどり色の紫外線保護シートで覆っています」と書かれていたことに気がついた。あの悪目立ちする派手な緑色は、景観に配慮しての選択だったのか……?どう見ても余計に景観を損なっているような気がしたが、しかたがないのでそれ以上考えるのをやめた。

父はあいかわらず神妙な顔をして小さな画面を見つめている。父はこの数ヶ月で身長が10センチ縮んだ。折れた背骨がうまくくっつかず、背が曲がってしまったせいだ。ついこのあいだまで私より背が高かったはずの父が、いまでは私とほとんど変わらない身長になってしまった。


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福島を離れてもう10年以上が経つけれど、いま訪れてもあまり違和感はない。どこを歩いても見慣れた景色だ。地図なんて見ずにどこへでも行ける。福島駅の東口側なんてすべての通りを歩いているし、飯坂線の駅名は全部いえるし、13号線や3号線沿いに並んだ郊外型のショッピングモールには何度も行った。近所の高校には果樹園の果物を盗むと退学になるという校則があることも知っている。目の前の福島と記憶の中の福島にはほとんど違いはない。

だけど景色の中の緑色と小さな父親は、私の記憶の福島にはないものだった。

上竹真菜美|Manami Uetake
1988年鹿児島県生まれ。父の転勤にともなって10歳から福島に移住する。現在、東京都在住。2018年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。2015~16年ロンドン芸術大学チェルシーカレッジMAファインアート交換留学。主な展覧会として「ゆるんだ遠近法」(2017年、gallery COEXIST-TOKYO)、「Still Ongoing」(2016年、TAP Gallery)などがある。 第17回1_wall ファイナリスト(2017年)。