The Great Master’s View

vol.6 エドワード・マイブリッジ「“動く写真”の夢に身を捧げた男の数奇な生涯」
阿久根佐和子(IMA 2014 Summer Vol.8より転載)

8 October 2019

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エドワード・マイブリッジ「“動く写真”の夢に身を捧げた男の数奇な生涯」 | Light-Gray Horse Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images

Light-Gray Horse Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images

走る馬の脚は4本同時に離れるか?

米墨戦争の結果、メキシコからアメリカの手にわたり、続くゴールドラッシュを経て州に昇格した19世紀後半のアメリカ・カリフォルニア。一部の富める者がサンフランシスコやサクラメントなどの都市部で繁栄の恩恵を受けてヨーロッパ風の生活を送る一方、未開の砂漠や山岳地帯といった自然の中では、ネイティブ・アメリカンが昔ながらの暮らしを続ける……。そんな、現在からは想像もつかないほどにかけ離れたライフスタイルが共存していたこの土地に、リーランド・スタンフォードという男がいた。

その名から想起されるように、後に“西の名門”スタンフォード大学を創設するこの男、一攫千金を狙ってカリフォルニアに移住してくる鉱夫を相手に、雑貨を商って財をなした実業家である。1861年にはカリフォルニア州知事となり、大陸横断鉄道・セントラル・パシフィック鉄道を設立して社長に。お手本のようなアメリカンドリームの体現者であり、いまや多くのものを手にした彼には、さらなる願いがあった。

世界一の競走馬を育て上げること--サンフランシスコから南に50キロメートルほどの場所にあるパロ・アルトの広大な邸宅の敷地内に200頭あまりの馬を飼い、その野望を果たすべく日々熱意を注いでいたのである。

1872年のある日のこと。スタンフォードは、やはり馬好きの億万長者である友人と議論を始める。二人は走る馬の脚の動きについての発見を記した記事を読んだところであった。いわく、走る馬の脚は、それまで思われていたように交互に着地するのではなく、4本同時に地面を離れることがある--果たしてこれは本当か?その答えを巡って二人の間に多額の賭けが行われたという説もあれば、結果を馬の走りの改善に役立てようとした、という説もある。でもおそらくは、馬好きの二人の裕福な男の間の戯れのようなものだったろう。白黒つけるべきだという友人の薦めに従って、スタンフォードは当時界隈で最も有名だった写真家を雇い入れる。やってきたのは山高帽をかぶり、髭を長く伸ばした堂々たる一人の男。ヨセミテ渓谷やサンフランシスコの街並みを収めた写真で名を馳せていた彼の名は、エドワード・マイブリッジ。共に写真史に名を刻むことになるマイブリッジとスタンフォードの競走馬オクシデントとの出会いであった。

膨大な資金と時間と努力とを費やして彼らが歴史的写真を撮りおおせるのはもう少し後のこと。話を前へと進める前に、マイブリッジの人生をまずはさかのぼる。

Nude male athletes boxing, c 1872-1885 Eadweard Muybridge / SSPL / Getty Images

'Animal Locomotion' (plate 338): sequence with two half naked men fighting Eadweard Muybridge / Alinari / Getty Images


夢の土地アメリカで見つけた写真の世界

1830年4月30日。後のマイブリッジこと、エドワード・ジェームズ・マグリッジは、ロンドン南部ののどかな町、キングストン・アポン・テムズで生を受ける。家庭環境にも恵まれ、十分な教育を受けたエドワード。不足のない暮らしではあったが、1848年頃に始まり、アメリカを賑わせていたゴールドラッシュの噂は、彼の住むイギリスにも広がっていた。とりたてて大きなことも起きないのどかな生まれ故郷ではなく、何かが起きる場所に身を置いてみたかったといったところだろうか、青年エドワードは、1851年に単身アメリカへと渡り、人生の大半をこの国で過ごすこととなる。

まず腰を落ち着けたのはニューヨーク。出版関係の仕事に携わったこの街では、その10年ほど前に発明されたダゲレオタイプに出会って写真に惹かれるようになった。55年、サンフランシスコに移って書店を開業。ここでは、露光時間がより短く、1枚のネガから複数のプリントができたことから次第にダゲレオタイプを駆逐していく、コロジオン湿板による写真に出会う。

例えば、カールトン・ワトキンスによるヨセミテ渓谷の写真。陰影豊かに目の前に再現される自然の風景に魅入られたエドワードは、自らも本格的に写真の道へ分け入っていくことを決意する。マグリッジの姓を正式にマイブリッジと改めたのもこの頃のことだった。

そんな矢先の1860年、マイブリッジは旅の途中で大事故に遭う。意識不明の状態から目覚めた直後には聴力や嗅覚が戻らないというほどの大怪我を負った彼は、それからの数年間を、故郷で過ごすこととなる。療養の日々、洗濯機のパテントをとるなど発明稼業に興じたマイブリッジではあったが、写真への熱意が失われることはなかった。写真家の友人たちと論議を交わし、写真の基礎的な技術や知識をここで培うのだ。

この頃のアメリカでは、国じゅうを巻き込んで南北戦争がエスカレートしていた。マイブリッジは、終戦後の1886年、イギリスで手に入れ得る最高の写真機材を携えて、サンフランシスコへと舞い戻る。久しぶりに会うアメリカの知人たちは、彼の人格が「すっかり変わり、エキセントリックな人物になっていた」と言ったというが、事実、彼は“新しい”エドワードだった--それまでのシンプルな綴りの“Edward”を、故郷キングストンの町の名の由来ともなった、ウェセックス王たちが戴冠式を行った石の上に見つけた昔風の綴り“Eadweard”へと改めていたのである。

まず撮り始めたのは、変化を続けるサンフランシスコの街並みやヨセミテ渓谷。慎重に構図を選びとり、細部までコントラストにこだわったその写真は高い評判を得た。鉄道会社のために鉄道を撮ったり、政府からの依頼を受けてロシアからアメリカへ売却されたばかりのアラスカへの撮影行に出かけたり……。企業や政府との契約仕事はもとより、エージェントを通じての写真の売れ行きも上々だった。仕事が仕事を呼び、写真を生業にしようという彼の意志はたちまち叶えられていく。いつの間にかサンフランシスコで一、二を争う売れっ子となっていたマイブリッジ。そんなところへ、リーランド・スタンフォードから、奇妙な撮影仕事が舞い込むのである。写真史に共に名を刻む競争馬との出会い被写体に選ばれたオクシデントは、当代随一とも言われたスタンフォード厩舎の誇る競走馬。人間の目では見極めることのできないその動きを写真に収めるのは、そう簡単なことではなかった。当時マイブリッジが使っていたのはコロジオン湿板を用いるカメラで、以前の技術より露光時間は短くなったとはいえ、まだ10秒ほどは必要で、馬の動きには到底追いつかなかったのだ。薬品を研究し、より高速のシャッター装置を編みだして、彼はようやく一枚の写真を撮る--この写真は現存しないが、かろうじて4本すべての脚が地面から離れているとわかる、もやっとした影の塊のような写真だったという--が、満足のいく出来からはほど遠かった。それどころか、口さがない人々からは、その一枚はねつ造だとまで言われる始末。マイブリッジは、まだまだ尽きないスタンフォードの好奇心と資金力とに支えられ、馬の動きを捉える写真をさらに追い求め始める。試行錯誤の末、ついに馬の動きを連続で分解して捉える写真を撮るのが1878年頃。しかし、プロジェクトの始まりからここまでの間には、彼の個人的な事情による大きな中断があった。マイブリッジが殺人を犯したのだ。

Semi-nude female kneeling down and standing up, c 1872-1885 Eadweard Muybridge / SSPL / Getty Images

Semi-nude female kneeling down and standing up, c 1872-1885 Eadweard Muybridge / SSPL / Getty Images


殺人による人生の中断、悲劇からの回復

悲劇が起きるのは1874年。その3年前、マイブリッジはギャラリーで出会った若く美しい女性に惚れ込み、20歳以上も歳の離れたこの女性--フローラと結婚していた。方々からの仕事を引き受け、73年には息子のフロラルドも生まれて……と、公私ともに絶好調かに見えたのだが、撮影のために長く家を空けることが多かったのが災いしてしまう。実はフローラが浮気をしていたこと、そして一人息子もその浮気相手との子どもであるらしいことが発覚するのだ。

ふつふつと身体の中で煮えたぎる怒りを抑えられないマイブリッジは、スミス&ウェッソンのリボルバーを片手にその浮気相手、ハリー・ラーキンスのもとを訪れる。

「やあどうも、マイブリッジです。これが、あなたがウチの妻に送ったメッセージへの答えです」

ラーキンスの身体に打ち込まれた銃弾は彼の命を奪う。有名写真家が妻の愛人を射殺したこの事件は、大変なゴシップとして当時の新聞を賑わせ、多くの同情的な意見も聞かれたが、審理を待つおよそ2年の間を、マイブリッジはナパ郡の刑務所に過ごした。弁護士の手腕によって無罪放免となったとき、それまで心神耗弱の申し立てを拒否するなどあくまで頑なだったさすがのマイブリッジも、床にくずれおちたという。

過去を断ち切るかのように、刑務所を出たマイブリッジは中央アメリカへと旅立つ。パナマやグアテマラを撮ったこの頃の写真は、皮肉なほどに美しい。例えば、グアテマラ・アンティグアで、地震で崩壊した教会を撮った一枚。荘厳な雰囲気を漂わせて建つその教会は、しかしよく見ればあちこちが朽ち、屋根には植物が茂る。どんな思いでマイブリッジはこの景色に向き合ったのだろう。

長旅を終えてアメリカへ戻った彼を迎えたのは、妻フローラが24歳の若さで亡くなり、息子も里子に出されたという悲しい報せ。救いようのない家庭生活の終わりであった。自分に残されたのは写真のみとばかりに、マイブリッジは仕事に没頭していく。

この当時の彼を夢中にさせたことのひとつが、サンフランシスコのパノラマ写真だ。街を一望できる高所にカメラをセットし、一回転360度を11枚に分けて撮影。出来上がった作品は全長2メートルから5メートルに達したという。

家々の輪郭がきりっと際立ち、遠方の山々までが写り込んだこの作品は、マイブリッジの優れた能力を伝えると同時に、当時の街を知る上でも貴重な写真だ。

さらに、パロ・アルトのスタンフォードの厩舎では、競走馬オクシデントの撮影も再開された。高速の動態を写すというこのプロジェクトのことは、キャリアどころか人生が中断している間も、ずっと頭の中にあった。

解決すべき課題はいくつもある。フィルムの感度やレンズ性能の向上、素早く切れるシャッター、よりよい撮影条件の確保……。これまでの経験をもとに薬品の調合を多数試し、またさまざまなシャッターを試作し、イギリスのダルメイヤー社からレンズを取り寄せる。スタンフォードの資金援助を受けながら、マイブリッジは研究を重ね、確実に技術を進歩させていく。そうして1878年頃までには、ついに納得のいく写真の撮影にたどり着くのである。

いまやカメラは12機。特別に誂えたそのカメラを走路に沿って等間隔に配置し、走路に張ったワイヤーに動体(馬)が触れることで、それぞれにつながれた電磁式のシャッターが切られる仕組みだ(後にカメラは24機となり、シャッターのレリーズもタイマー式となった)。マイブリッジが、スタンフォードの下で働くセントラル・パシフィック鉄道の社員たちと開発したというこのシャッターが、かなりの優れもの。当時すでに開発されていた、レンズの前でスリットを開けた板を落とす“ギロチンシャッター”を進化させたもので、スリットの開いた板2枚が互いに逆方向に動くことでより早いシャッター速度を実現するのだ。実際、シャッター速度は1000分の1秒程度にまでなったという。

カリフォルニアの燦々とした日ざしの中、岩塩を塗って日光を反射しやすくした板塀を背景に、馬が走り抜けていく。ガシャ、ガシャ、ガシャ……と、シャッター音は、馬のひづめの音より大きく高らかに響いただろうか。出来上がった連続写真は、馬の一挙手一投足をはっきりと写しだしたものであった。

大成功だった。発表したその成果は、新聞や雑誌はもとより、科学誌などでも賞賛を受ける。こうして1881年、プロジェクトから生まれた一連の写真に加え、それら写真を生みだした機材の写真も収めた『The Attitudes of Animals in Motion』を出版。ところが私家版だったこの本に対抗するかのように、翌年にスタンフォードが同じくプロジェクトで撮られた写真をまとめた書籍の準備を進めていたことが明らかになる。自分には全く無断で事が進んでいたのに腹を立てたマイブリッジは、長年のスポンサーであるスタンフォードを裁判所に訴え出る。スタンフォードの腕利きの弁護士によって訴えは退けられ、プロジェクトはなんとも苦い幕切れを迎えるのだった。

Antelope; Galloping Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images

Antelope; Galloping Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images


聴衆を熱狂に包んだ“動く写真”

その仲が破綻したとはいえ、マイブリッジとスタンフォードの協力で実現した連続写真に写る“動き”が、当時の人々にとってはまるで見たことのない、新しいものであったのは変わりのないこと。撮りためた写真をスライドにし、マイブリッジはアメリカやヨーロッパの各地へとレクチャーに出かけるようになる。彼の手元には、それまでの単なるスライド映写機から一歩も二歩も進んだ、新型の装置があった。円盤状のガラスのプレートに連続した写真を並べ、これを回しながら投影する“ズープラクシスコープ”だ。連続写真の魅力を引きだそうと考え抜いたマイブリッジが、1879年に発表したこの装置は、素早い回転によって静止画を動いているように見せるという点では、すでに一般的なものになっていたゾエトロープに近いが、ゾエトロープのように回転板をのぞき込むのではなく、映写され、大勢で見られるのが強味。

パロ・アルトで、パリで。マイブリッジの数年間にわたる連続写真の研究の成果に聞き入る聴衆の前に写しだされる馬の写真……と思ったのもつかの間、ディスクが回転を始め、さも馬が走っているかのように見える……!リュミエール兄弟による映画の発明へとつながる、“映画前夜”である。言葉の壁など軽々と越え、それは人々に熱狂とともに迎え入れられた。こうしてレクチャーを重ねるたび、マイブリッジの名声は揺るぎないものとなっていく。

スタンフォードという後ろ盾を失ったマイブリッジだったが、このレクチャーがきっかけとなり、新たな拠点も見つかった。ペンシルべニア大学から研究室と助手、そして研究資金とを得て、1884年からはここで連続写真の研究を進めていくのだ。歩く、荷物を運ぶ、踊るといった人間のあらゆる動き、檻の中のライオン、空へと羽ばたく鳩、駆け抜ける犬……。いまや被写体は馬だけではない。身の回りにあるすべての“動き”を記録しようというオブセッションに駆られたかのようだった。研究の最初の1年だけで、マイブリッジと彼のチームは10万点以上のコロジオン湿板を使ったというから、その熱意のほどははかり知れないものがある。さらに、連続撮影のコマ数を増やしたり、同じ動きを違う角度から撮影したり、シャッターを改良したりと、技術面での進化も続いていた。研究の途中では、それまでのコロジオン湿板にかわり、71年に開発され、普及し始めていたゼラチン乾板を採用。撮影はより融通の利くものとなる。

熱に浮かされたかのように続けた撮影がもたらした大量の連続写真。マイブリッジはその中から特に出来のいい2万点ほどを厳選し、1点ずつナンバリングし、順序よく並べて……という気の遠くなるようなプロセスを繰り返して、編集作業を進めていく。その結果完成するのが、87年出版の『アニマル・ロコモーション』だ。約60×40センチ、ずっしりと重いその超大型の写真集に収められるのは、781組(写真数としては約1万9千点)の連続写真。12点あるいは36点からなるそれぞれの組は、“コロタイプ”というガラス板を使った印刷版に印刷される。全セットで600ドルという、当時としては目の飛び出るような価格ながら、27セットを売却。さらにプレート1枚=連続写真1組を1ドルでも売ったため、10枚単位などで購入する者も多くいたという。また後には、レクチャーなどで販売できる改編・廉価版も出版している。

大著を上梓した後、マイブリッジはさらに世界各地で多くのレクチャーに招かれるようになる。“動く写真”を発明した彼は、いまや有名人であった。これを受けて、1893年にシカゴで開かれたシカゴ・コロンブス万国博覧会では、ズープラクシスコープの上映館を開催。製作の指揮は全面的にマイブリッジが執り、これまでのモノクロの写真にかえて、カラー写真が動くヴァージョンへと装置はぬかりなく進歩していた。しかしながら、この上映館がかつての彼のレクチャーのように賑わうことのないまま終わってしまう。ズープラクシスコープ館のすぐそばで人気を博していた、ドイツの写真家アンシュッツによる、ゾエトロープを改良した装置を使った展示に完敗した形であった。

また、この年には、エジソン(マイブリッジのレクチャーを聴いた一人でもあったという)が箱をのぞき込むとその中で動画が展開する“キネトスコープ”を公開。“映画”の発明はすぐそこに近づいていた。より目新しいものを求める人々の熱狂が、マイブリッジを置き去りにしていく。

1894年、マイブリッジは、漠然とした夢を抱いてその土を踏んで以来、人生のほとんどを過ごしてきたアメリカを離れ、故郷イギリスへと戻る。96年、エジソンの発明からさらに進み、リュミエール兄弟によって、工場から出て行く人々を映した映像をスクリーンに投影したという報せを、彼はどんな気持ちで聞いたのだろうか。

Cat Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images

Cat Eadweard Muybridge / Premium Archive / Getty Images


目に映ったものを甦らせることへの執念

イギリスに戻ってからの日々は、完全なる余生であったといわざるを得ない--『アニマル・ロコモーション』を再編纂していくつかの写真集を出版した以外、大きなプロジェクトに取りかかることはなかったようである(とはいえ、それら写真集は重版がかかるなどよく売れた)。

人生の最後の10年あまりを過ごしたのは、生まれ育ったキングストン・アポン・テムズ。不安定な体調に、ひたひたと押し寄せてくる老いを実感したのだろうか、この頃に彼は、人生をかけて携わってきた仕事のもろもろを、地元の図書館へと寄贈している。スケッチ、メモ、手元に残された大量のフィルムやズープラクシスコープのディスク……。アメリカに長く過ごしながらも国籍を変えず、また悲劇の末に独身を貫いた研究者/写真家らしい、寂しくも誇り高い“身の始末”だった。

さて、現在の視点で、マイブリッジの連続写真に向き合ってみる。そこにあるのはあくまで“写真”で、撮影当時の人々が見たような“見たこともない未来”ではない。背景に生真面目に引かれたグリッド、一枚一枚を比べていくときに初めてわかる、被写体の微妙な変化……。わたしたちがいまそこに見るのは、むしろちょっと昔懐かしいかわいらしさやおかしみだ。

写真技術の発展期、まさに波瀾万丈としかいいようのない人生をものともせず、なりふりかまわず目の前の課題にぶつかっていったマイブリッジ。撮影から100年以上の後に、自らの写真がそんな目で見られるとは、思いもしなかっただろう。写真の“見方”だとか、あるいはそこに込める“コンセプト”だとかいったものは、いまのわたしたちが思い込んでいるほどには、重要なことではないのかもしれない。

とはいえもちろん、マイブリッジの一連の作品群が、“過去の発明品”として面白いというだけで、現代にまで残っているわけでもないだろう。あえていうならば、それは“コンセプト”ではない、強い意志……ひょっとして執念と呼んだ方がいいかもしれない何かだ。目に映るものを、誰も見たことのない形で眼前に立ち現すことをひたすらに追求しつくした、その経験の軌跡は、本人がそうと知らずとも、写真に現れてくるものなのではないか。

1904年、マイブリッジは、庭での作業中に倒れてこの世を去る。彼はその庭に、五大湖をモチーフにしたランドスケープを作ろうとしていたという。自分の目で見たものを、誰も知らない形でよみがえらせて提示する……。最期となってしまった、自分の庭でのマイブリッジのその目論見は、彼が生涯をかけて追い続けたものと、なんら変わるものではなかったといったら、大げさにすぎるだろうか。

Cockatoo, bird in flight, c 1872-1885 Eadweard Muybridge / SSPL / Getty Images

Cockatoo, bird in flight, c 1872-1885 Eadweard Muybridge / SSPL / Getty Images

エドワード・マイブリッジ|Eadweard J. Muybridge
1830年、イギリス生まれ。ギャロップする馬の連続動作をとらえる独創的なシステムを設計し、運動の写真解析分野の先駆者と見なされている。1872年に写真の実験を開始したが、妻の愛人を射殺した後に中断を余儀なくされた。1879年に動物種を対象に実験を再開し、1886年からは人間も対象とする。1880年には写真を連続投影できるズージャイロスコープを開発し、それを1889年にエミル・レイノーの作品に触発された改良版ズープラクシスコープに置き換えた。1904年没。

阿久根佐和子|Sawako Akune
文筆家。鹿児島県生まれ。東京大学文学部卒業(英語英米文学)。雑誌への執筆のほか、翻訳、書籍構成なども手がける。2011年、東京・浅草にオルタナティブ・スペース「GINGRICH(ギングリッチ)」をオープンした。