23 June 2021

なぜいま白黒写真が人気なのか?
シャーロット・コットンの現代モノクロ表現論

23 June 2021

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なぜいま白黒写真が人気なのか?シャーロット・コットンの現代モノクロ表現論 | Arthur Ou, “Test Screen (Lines 2),” 2010, courtesy of Brennan & Griffin, New York

Arthur Ou, “Test Screen (Lines 2),” 2010, courtesy of Brennan & Griffin, New York

色にあふれた現実世界がひとたびモノクロ写真の中に閉じ込められると、そこには新たなイメージが現れる。黒と白の諧調だけで、時に現実よりももっと雄弁に、奥深く真理に迫って行く。だからモノクロ写真は古びることなく撮る側を、観る側を、魅了し続けてきた。丸ごと1冊モノクロ写真特集となった『IMA』Vol.14では、「シャーロット・コットンの現代モノクロ表現論」を掲載。拡張する表現の最前線をとらえた評論とともに、白黒写真の定義を更新する写真家4名を紹介する。

文=シャーロット・コットン
翻訳=宮城太

写真がアートの領域において、長期的かつ本質的なポジションを獲得するための可能性を、より複雑かつ乱雑で、取り立ててファッショナブルでもなく、さらに領域の広がった白黒写真に見いだすことができるのではないか……と考え始めているのは、私一人ではないことに確信を持っています。

暗室での試行錯誤を好む巨匠と呼ばれる写真家たちは、好みの印画紙やフィルムを大量にストックし、若い挑戦者たちは、色に満ちたデジタルをモノクロに変換するという潜在識的なアイロニーを抱えながら、アナログに取って代わるデジタル表現を見いだそうと実験を始めています。このような矛盾をはらんだ動きは、作家自身が持つメディアに対する批評と写真に対する多様な価値体系を結び付けることで、議論を生みだしています。経済的・技術的に恵まれた家庭や教育施設以外の多くの場所では、いまだにアナログの白黒写真が物事を写真的にとらえることができる重要な導入口となっています。

テクノロジーに明るく、自由な時間を持て余すアマチュア写真家たちは、郷愁に満ち、完璧な様式美を備えたモノクロ写真の力作を、デジタル技術を駆使し生みだします。エプソンなどの企業は、感傷的にならずにイルフォードなど万人に好まれていた銀塩印画紙を淘汰しながら、豊かな白黒の階調と銀塩紙の質感を再現した代用品を高度な技術で生みだしています。

Electric Comma One, 2013 © The Artist, courtesy Sadie Coles HQ, London

Electric Comma One, 2013 © The Artist, courtesy Sadie Coles HQ, London

シャノン・エブナー|Shannon Ebner
1971年生まれ。ロサンゼルスを拠点に活動する。バードカレッジ、イエール大学卒業。MoMA PS1で個展を開催したほか、ホイットニービエンナーレ、ヴェネチアビエンナーレなどにも作品が選出されている。エド・ルシェやスティーブン・ショアなどが、サインを撮影してきた写真史の流れに属すると自身を認識するエブナーは、言葉とイメージを混在させる作風で知られる。ヴェネチアビエンナーレでも出品された「The Electric Comma」は、彼女から親愛なる読者(DEAR READER)に向けたいくつかの指示が書かれた13行の詩を、事故などの緊急事態を知らせるために道路に設置されたLED看板を使い、文字のオレンジ色を黒色に変えて写しだしている。長過ぎる言葉は、公共の場で目にする記号や模様のように見えてしまい、込められたメッセージは形を失い崩れてしまう。


また、ファッションやライフスタイルの分野において90年代に商業的タブーとされていたはずの、デジタルのモノクロ写真が新たに市民権を得始めています。それは、90年代後半の重度にレタッチされたファッション写真が作りだしたきわどいながらも効果的な性と暴力の表現が、9.11以降の厳粛な世の中において不謹慎で不愉快とみなされ、コミッションされない状況になったことにも起因するのでしょう。近年のスタジオベースの白黒表現を生みだす古典的で新保守主義的なプロダクションこそ、文化的滅亡の気配をまとう白黒写真に執行猶予を与えているのかもしれません。白黒写真が抱える課題と扱い方の両方を考慮することで、挑戦的かつ本質を理解する視座を獲得した写真を作りだせるのだと私は考えます。

ウェブ2.0の時代において、白黒写真は、まるで古代の遺物のようにその様式美によって消費されています。本来の機能を失いながら、物質性と長い年月存在したという事実のみで評価されています。我々は、このような観点を受け止め、理解する必要があるでしょう。モノクロの写真が発するオーラを欲する傾向は、もはや再構築されたモダニスト的衝動ではなく、現在のモニターを通して体験されるイメージ環境で変容していく写真の見方に対する、まっとうな反応であるかもしれません。

“Test Screen 1,” 2010, courtesy of Brennan & Griffin, New York

“Test Screen 1,” 2010, courtesy of Brennan & Griffin, New York

アーサー・オウ|Arthur Ou
1974年台北生まれ。現在はニューヨークを拠点に活動する。2000年、イエール大学にてファインアートの修士課程を修了。カナダ、アメリカ、ヨーロッパを中心に作品を発表している。写真、絵画、彫刻、インスタレーションなど多様なメディアを用いるアーサー・オウ。それら異なる要素の上に写真を配することで、写真のあり方、読み解き方、そして物質性に対する問いを引きだす。革新的なランドスケープシリーズ「Test Screen」では、大判カメラで撮影したモノクロのネガにとらえられたイメージの一部を漂白剤で消し去っている。引き算のプロセスではあるが、消失したイメージは感光することで黒い線や形として現れ、最終的なプリントには“ペインティング”や“ドローイング”という新たなレイヤーが足されているのだ。


現代の白黒写真が、写真の異端な性質に注力することで、この媒体の歴史は根絶することなく続いているのでしょう。過去から紡がれた糸が、確実に、新しく有意義な効果を生みだし始めています。現代の白黒写真が、写真の未来を一手に引き受け、体現していると言っているわけではありません。しかし、現代のモノクロ表現に見られる、表現のあり方を自由に決定することのできる自己決定性の高さは時世に沿ったものであり、同時に歴史的先駆者たちが暗い未来に埋もれてしまうことを防いでいます。

白黒写真を用いる現代の作家たちは、写真史を再考しています。彼らの活動は、現代美術としての写真がカラー写真に傾倒している現状が窮地に陥るという可能性、そして写真史が形作った適切な写真のあり方に感じる居心地の悪さに対する、創造的かつ現在進行形の解決策を提示しています。そこには、写真的思考の未来に想いをはせる私たちが、いまこそ考えるべき、核心となる問題が存在しています。写真が選択する行為であることを思い出させる彼らのプロジェクトは、写真が21世紀にどのような進化を遂げるのかという点において重要な提案といえるでしょう。ここでいう選択には表現手段や技法、スタイル、ヴィジョンも含まれていますが、それらは一時代の市場価値によって定義付けられるものではありません。

Untitled from the series NYLPT 2005-12 (various formats)

Untitled from the series NYLPT 2005-12 (various formats)

ジェイソン・エヴァンス|Jason Evans
1968年イギリス生まれ。アート、ファッション、音楽などさまざまな分野で活躍するほか、ウェブサイト「The Daily Nice」を運営する。テートコレクションに作品が収蔵されている。ジェイソン・エヴァンスによる「NYLPT」は、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京の路上で、不思議と既視感を感じる都市のモチーフを多重露光で撮影したシリーズ。本作は、写真集とアプリの形態で発表され、前者には作家が印刷に適当と判断した作品80点が収録されている。後者のアプリは独自開発したもので、起動するたびに内蔵された16種類のシンセサイザーがドローン音楽を奏で、600点のイメージを無作為に並び変える。毎回、新たなシークエンスと音楽に触れることができるのだ。二つの異なるアウトプットを用いることで、アナログとデジタルの同等性を探求している。


これまで白黒写真の性質とは、現実を抽象化し、抽出した一枚であることでした。現在、21世紀の文脈においてそれは、再定義され始めています。私は著書である『写真は魔術』において、現代の白黒写真を見ること、読むことについて、「写真的思考の過去と現在の両方に対してコード化された、美しいほどにつかみどころがないものを見つめる行為」であると書きました。ソフトウェアが媒体の役割を果たす今日の文脈において、黒と白は写真における表意記号となっており、それは限りなくシンボリックな「素材」と呼べるものに近いでしょう。まるで手品師にとってのシルクハットと燕尾服のように、白黒写真を目にすると、観る者は、「写真家」のペルソナについて考えるよう促されます。職人技というイメージと、伝統的な物質性と技術へのこだわりを想起させます。だからこそ、このような類いの写真的「扮装」を若い作家が採用することは、見事な倒錯といえるでしょう。なぜなら彼らは、確信犯的な抵抗を胸に抱きながら、遊び心を持って、写真表現と呼ばれる分野と向き合っているのですから。

From the series Flatness, Light, Black & White, 2013

From the series Flatness, Light, Black & White, 2013

アニー・マクドネル|Annie MacDonell 
1976年生まれ。トロントを拠点に活動するヴィジュアルアーティスト。写真、映像、インスタレーション、パフォーマンスと表現方法は多岐にわたり、国内外で精力的に作品を発表している。マクドネルは、「Flatness, Light, Black & White」において、デジタル時代の写真の形式的特性をチャート化しようと試みる。本作は紙にインクで刷られ、展覧会のためにガラスに入れられただけのもの。昼下がりの床屋をドキュメンタリー形式で撮影した白黒写真は、古風で慣れ親しんだ“写真”を想起させるが、鑑賞者はもはや伝統的な形式であっても、それらがうわべの美意識であることを見抜き、有限のものだとは信じていない。写真は情報の塊、スクリーン上で反射しているだけに過ぎず、アルゴリズムで生成されたJPEGの傷と同じくらい信用できないものであることを提示している。



シャーロット・コットン|Charlotte Cotton 
現代写真を専門とするライター・キュレーター。ヴィクトリア&アルバート美術館写真部門キュレーター、フォトグラファーズギャラリー企画主任、ロサンゼルス美術館アネンバーグ写真部門統括の経歴を持つ。2015年、ニューヨーク写真センターにキュレーターとして就任が決まる。著書に『The Photograph as Contemporary Art』(2004年)、『Words without Pictures』(2010年)、『写真は魔術』(2015年)がある。

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