5月14日(日)まで開催中の「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2023」のメインプログラムのひとつであり、ケリングによる「ウーマン・イン・モーション」の活動の一環として開催される石内都と頭山ゆう紀による二人展、A dialogue between Ishiuchi Miyako and Yuhki Touyama「透視する窓辺」。本展は、大切な人の死による喪失感が共通する石内と頭山の作品が重なり合い、呼応し合う形で構成されている。この対談は、『IMA』vol.39の特別付録であり、展示会場でも配られているブックレットに収録したものを再編集した。世代を超えて語り合う二人の写真家の対話を通して、作品の生まれた背景や展示にかける思いをひもとく。
インタヴュー・文=IMA
写真=高橋マナミ
―今回石内さんは、二人展のパートナーを選ぶ際、迷わず頭山さんを選ばれたそうですね。
石内都(以下、石内):もともと頭山さんとは、古い付き合いなんです。彼女が18歳のときに沖縄でのワークショップに参加してくれたのね。ワークショップには荒木経惟さん、森山大道さん、中平卓馬さんとかがいて、頭山さんは私を選んで来てくれたらしいのですが、私は全然覚えてなくて。その後に会ったのが2006年のひとつぼ展で、最後10人が残ったときに、彼女はすごくいいなと思っていました。
それ以降、彼女は定期的に小さなスペースで展覧会をしていましたが、写真集を2冊も出しているんだし、もっとポピュラーな場所で展示するべきだと私は思ってました。そんな思いもあって、今回の展示のパートナーは頭山さんしかいないと迷いなく選びました。
頭山ゆう紀(以下、頭山):以前から石内さんには「人の目に留まる大きな場所で展示したら?」とおっしゃっていただいていたのに、自分ではできていなかったという申し訳なさもありました。恐れ多いですが、こうして引っ張り出していただいて、この展覧会はいいタイミングだったのかなと思います。
石内:一番大きなきっかけは、やっぱりおばあさんとお母さんの死ですよね。人生の中で身近な人が亡くなったときには、考えることがたくさん出てくるんですよ。今回は、KYOTOGRAPHIEの展示と頭山さんの個人的な事柄がうまく結びついたように感じています。二人展は考えたこともなかったのですが、彼女のいまの写真の状況を踏まえても、すごくいい流れができたと思います。
―身近な人の死がお二人に共通するテーマですね。
石内:今回の「透視する窓辺」というテーマは、3人の女の死から始まっているんです。〈Mother’s〉は、もう今年23回忌ですから、私の母の死は随分前のことになります。それにもかかわらず、私にとってはまだリアリティがある。そして同じ作品でも展覧会をするたびに、空間やコンセプトや自分の気持ちが違うことで見え方が変わって新しい発見があるんです。今回のような二人展は初めてですが、女二人で母や祖母の死の作品を展示するから、何かまた新しい化学反応が生まれるのではないかと思ってます。個展っていうのは、自分が全責任を負えるけど、二人展でも、グループ展でも、他者がいることで違ったスタンスを持たなきゃいけなくなるわけ。それが最近面白いなと。一時期グループ展みたいなものはやりたくなかったんですけど、 やってみると、その空間の共用、共有みたいなものが、それはそれで発見があるっていうことがすごくわかったから。今回、女二人で母の死みたいなことも含めながら、 何かまた別なものが生まれるかなと。私もあらためて母との関係性を考えるひとつのきっかけになるかもしれないと期待しています。
頭山:私もいままで何回も石内さんの〈Mother’s〉を見ていますが、祖母が亡くなって、その1年後に母も亡くなったいま、同じ空間で自分の作品が一緒に並んだら、きっとこれまでとは見え方、感じ方が変わる気がしていて、新たな発見があるのではないかと楽しみです。
石内:現実的に展示してみないとわからないけど、京都の帯屋さんという癖のある空間でやるということも含めて、ちょっとドキドキするよね。
―今回展示する作品について教えていただけますか。
石内:母は2000年に亡くなっているんですけれども、無口な人だったからコミュニケーションがうまくとれなかったんです。でも話す相手がいなくなってから思いのほか喪失感があって、その喪失感を埋めるひとつの方法として、遺品と対話する感覚で〈Mother’s〉を撮り始めたんですよ。しゃべる相手がいないから、しょうがなく遺品としゃべるみたいな感じで。作品はこれまで世界中で展示してきましたから、ある種の客観性みたいなものが生まれてきて、同じ作品でも違った空間で距離感がどんどん変わっていくのね。展覧会が面白いのはそういう繰り返しの中で、あ、そうだったんだと新しい発見があることなんです。自分の作品を見ながら、自分がどうやって納得していくかという感覚とでもいうのかな。そうしているうちに、母がどんどん自分から離れていく感覚があります。自分から作品が離れるというのは、作品が自立していくこと。あの遺品ももう私の母のものではない。誰の母でもない普遍性を帯びて、一人の女性という存在になった。だから作品を作るってすごいことだなと思いますよ。
―石内さんのお母様の遺品を通して、観客が身近な誰かの死を考えることになる。
石内:そうですね。頭山さんは、今回の展示作品を撮るきっかけは何だったの?
頭山:〈境界線13〉は15年前の作品ですが、友人が突然事故死して、その子が写った写真を見たときに、写真の中にはいるのにどうして彼女はいまここにいないんだろうという猛烈な喪失感を覚えたんです。同時に、写真の中にはその人の存在や過ごした時間が残ることにも改めて気づき、写真にはそういう役割もあるんだということを強く意識して撮っていた作品なんです。もうひとつの作品は、一昨年、祖母の介護中に撮った新作です。今回、この新旧ふたつのシリーズを展示します。この2つの作品は私の中ではずっと繋がっていて、同じ家で介護をしてたんですけど環境も変わっていってて、境界線13には祖父が写ってるけど、いまはもうその祖父がいなかったり、〈境界線13〉と今回の介護の写真を一緒に展示することで、写真というものの意味が見えてきたり、新しい発見がある気がしてます。
石内:今年のKYOTOGRAPHIEのテーマが「BORDER」だったじゃない。〈境界線13〉でしょ。いや、びっくりしちゃって。でも、それも偶然じゃないんだよ、もう仕方ないこれは運命だと思う。
もうひとつ、私は、頭山さんがおばあさんを介護しながら、窓から庭を撮っていたということが気になっていて。実は〈Mother’s〉も最初は庭が見える窓際で撮っていたの。でもある日、庭が写り込んでいるのがうるさく感じて、背景にトレーシングペーパーを貼ったんです。だから今回の展示コンセプトは、あなたがたくさん撮ってた窓際から庭を写した写真を利用して、私が〈Mother’s〉を撮ったシチュエーションをそのままKYOTOGRAPHIEの展示会場に持ち込むことなんです。窓辺に写真を展示するような感じでね。
―「透視する窓辺」ですね。「庭」を媒介に、頭山さんの作品を背景に、その上に石内さんの作品が展示されるという、まさに二人展のコラボレーションの中でも実験的な展示ですよね。窓というのは、内と外を隔てるボーダーであり、また亡くなった方をテーマにした作品ということで、あの世のとこの世の境界線という意味も感じ取れますね。
石内:そう、偶然にも庭で繋がって。繋がりを見つけたのかもしれないけど、見つかっちゃったから、不思議なんですよ。もうこれは最初から決まってたんだな、二人でやるのは。
―介護が行き詰まって、写真を撮ることをもう一度始められたんですよね。
頭山:祖母の介護は亡くなる3カ月ぐらい前まではわりと順調だったんですけど、祖母の性格も変わっていったりして、本当に大変だったんです。写真はそんな中での気分転換ではあったんですが、特に作品にするつもりはなくて。ある日心が折れて、祖母の家から逃げ出して3日ほど自宅で眠り続けていたときに、寝床にあったロバート・アダムスの写真集『This Day』を開いたら、全く違う世界に連れていってくれたんです。アダムズが日常を撮った写真に救われたというか、肩の力が抜けた感じがして。改めて写真ってすごいなと思い、祖母の家に戻ったんです。当時、すでにせん妄が現れて、何もないところに「墨絵が描いてある」とか「鳥が飛んでる」と言い始めた祖母には何が見えているのか、彼女の目線を想像しながら撮ったのが窓の写真なんです。
© Yuhki Touyama
石内:おばあさん本人を撮ることはなかったの?
頭山:やっぱり撮れなかったですね。今回の展示のために15年前の作品である〈境界線13〉をセレクトしていたのですが、祖母と母だけが写っていないんですよ。当時の私はどういう心理だったんだろう。怖さなのか、カメラを向けられない何かがあったんじゃないかと思っています。
私にとって、祖母は常に応援してくれる絶対的な味方でした。写真学校に通い始めたときにも、祖母の家に暗室をつくってくれて。理解し合える相手であり、対等な関係でいてくれました。ただ、介護自体はあまりいいものではなかったので、思い出すと少し言葉が詰まってしまうんですけど。
石内:死んだ人に対しては皆、後悔するのよ。私も母が亡くなって、いっぱい後悔したもの。あれもこれもやってあげればよかったって。しょうがないんだよ、それは。
頭山:祖母だけでなく母に対してもです。母は姉御という雰囲気の怖い人で、私は3人姉妹の末っ子なので、甘やかされて育ちましたが、頭が上がらないし、歯向かえない存在でした。だから石内さんの〈Mother’s〉のように、私も話せなかったことを写真で対話したいと思っています。
―女性の写真家として活動されてきたお二人はいまどんな境地に立っていますか?
石内:昔は、写真は女に向いてないって散々いわれたの。女性写真家はだんだん写真から離れていかざるを得ないのが現実だったんですよ。でも本来、写真は女性に向いているのよ。職業としてもね。だから、もう写真は女に任せればいいんじゃないかな。いまは結婚しても、子どもが生まれても、女性が写真を続けられるのは、男たちや夫が変わったってことですよ。でも、表面的には少しずつ変化はあっても、国のあり方を含めて根本的には何も変わっていない。だから、こうしたケリングの「ウーマン・イン・モーション」のような女性のアート活動への支援は大切だと思いますよ。
頭山:私は90年代の写真家ではないですし、これまではあまり女性であることを意識することなく作品制作してきましたが、確かに思い返せば、「若手女性写真家」というくくりにまとめられたりはしましたね。
石内:私もことさら女性に立脚した作家ではないけれど、それでも女性性は制作する上での素材であったり、要素であったり、生きる上で逃げられない。すごく難しい問題ね。でもね、図々しくいうならば、写真の歴史は浅いので、私は写真の歴史を作っている真っ只中にいると思っているんですよ。それは若い人も同じです。
―写真の歴史180年のうちの40年って4分の1ですし、本当に歴史を作っているということですよね。
石内:そう思わないとやっていられない部分がありますが、実際にそうなんですよ。私は別に写真しかできないと思っていなかったから、いつでもやめられるとは思ってたの。でも不思議と飽きずにずっとやってきたのは暗室があったから。暗室の中にすべての世界があった。暗室作業っていうのは水仕事なんですよ。私は、織物、染め物をやっていたけど、同じ水仕事なんですよね。料理も水仕事。ただ、洗濯は嫌いなんだけどね(笑)。真っ暗にして、赤い電球を灯すあの暗室の中って、やっぱりどう考えても変なんだと思います。トリップですよ、臭いしね。たった一人薄暗い部屋入って、毒まみれで素手で全部やってたから。その時はすごく楽しいなと思ってたんです。
頭山:私も、薬品混ぜるのも結構好きですね。
石内:そういえば、(2021年の)西宮(市大谷記念美術館)の個展の時に、最後のロールプリントを作る暗室作業の映像に、頭山さんが助手として出ています。
インタヴューを行った石内の自宅にて。
―お二人とも暗室作業がお好きなところでも共通しているんですね。
石内:私は写真を始めたときに、目に見えないものを撮りたいってずっと思っていたんです。基本的に写真というのは、例えば、空気だったり、匂いだったり、音だったり、目に見えないものが写る。そういうものを、私は意識的にずっと撮っていました。
ただ、〈Mother’s〉の場合は、それとはちょっと違って、もう残されたものと会話するしかなくなってしまった。それも、最初は発表するなんて考えてなくて、ただいっぱい撮っちゃっていて。撮るよりプリントの方が好きだからプリントしたら、100枚ぐらいになり、それを蒼穹舎の大田(通貴)さんに見せたら、じゃあ写真集を作ろうという流れになったんです。母がそうさせたのかもしれないし、私がそういう風に反応したのかもしれません。
©︎Ishiuchi Miyako, Mother’s #39, Courtesy of The Third Gallery Aya
頭山:私の場合は、介護から帰ってきてとにかくプリントをずっとしたんですよ。そういう時間が必要だなって思ったんです。なので、石内さんと一緒だと思ってびっくりしました。
私は友人が亡くなったときに、写真には何かが写っているのを感じました。当時はあまりわかってなかったんですけど、だんだん作品を撮っていくうちに、目に見えないものが写るんだと。その後は意識的に撮っています。写る自信があるっていう感じがします。
石内:やっぱ意識しないとね。どんどん意識した方がいいと思う。
―世界中から石内さんが評価されることは、頭山さんをはじめ、日本の女性写真家にとってすごく大きな励みや目標になっていると思います。
石内:私は頑張ってるわけではなくて、自然にそういう流れの中で、出会いと発見を繰り返してきたんです。そしてそれがまだまだ続いてる。でも国が、私のこと後期高齢者って言ってきたの。まだまだ現役で、働いているのに。私はまだバトンタッチなんてしません。みんなライバルですよ、遠慮しちゃいけない。東松(照明)さんや荒木(経惟)さん、森山(大道)さんは先輩だけど、興味があったし、私は図々しいから対等に付き合ってきて、その中で学んだことはたくさんありますね。いい人と出会うってことは、一番大きいことかもしれない。そういう意味では、私は環境に恵まれてると思います。写真学校には行かなかったから先生は誰もいないけど、自分で選んだ先輩はいたから。
頭山:私がそろそろ外に出て展示をしようと思ったのには、石内さんの存在が私の中ではずっと大きいのですが、コロナ禍になる3年ほど前から、介護中も連絡をしてなかったんですよ。祖母と石内さんが知り合いだったので、いま電話したら、愚痴っぽくなってしまうし、気が緩んでしまいそうだと思ったから、プリントをまとめ終わってから電話しようと思っていて。石内さんは目標ですし、写真を続けて来られたのも、石内さんがいらっしゃるから頑張れているところがあります。対等に接してくださって、突然写真集を送ってくださったり、そういうことに毎回感動しています。
石内:頭山さんと私は、対等だと思ってます。頭山さんとは暗室が好きなところなど、写真に対するスタンスが似ていること、そして何か共通する価値観があって、好き嫌いが似てるのも大きいと思います。写真は、年齢もあんまり関係ないんですね、いま何を撮っているかってことが一番重要で。頭山さんは写真集2冊も出してるのに発表しないときもあって、もしかしたらスランプがあったのかもしれないけれど。でも私だってスランプがあったから。
頭山:そうだったんですか。
石内:もう写真をやめようと思ったもの。でもなんとかずっと続けてきて、最近になってやっと写真が面白いなと思います。
―石内さんの作品は個人的な思いを起点にしたものから、歴史を題材にした作品まで、個と社会の行き来があり、ダイナミズムを感じます。鑑賞者はどの作品も自分ごととして感じざるを得なくなる。
石内:特にそれを意識して作品を作っているわけではないけれど、個人をぐっと突き詰めるとすっと広がって社会につながるんです。普遍性って、個人からしか出てこないんですよ。だから、しっかり個人的な問題に向き合って写真に撮ってきたという気持ちはあります。
横浜から桐生への引っ越しの際に撮った最新作の〈Moving Away〉も新しいきっかけで、写真からとても自由になれた感じがあって。40年写真をやっていて、もっと自由気ままに好きに撮っていいんだっていう感覚は初めてだったのね。私は「記録」と「伝達」ということには興味がなくて、写真の王道であるこのふたつの意味をこれまではすごく嫌がっていたのだけど、不思議なことにいまやっと素直に受け入れることができるようになりました。だから写真撮るのがすごく楽しい。
頭山:希望になります。
石内:うん、大丈夫だよ。諦めずにずっと撮っていれば。
―本展はお二人の対話であり、そしてそれぞれの失った人たちとの対話であり、さらには鑑賞者との対話でもあり、写真を介して、さまざまなダイアローグが生まれていますね。
石内:写真って視覚的な要素が強いメディアだけど、同時にある種の思考を呼び起こすきっかけをつくる装置なの。だから自分では考えてもみないような、とんでもない感想や意見をいわれるほうがいい写真なのよね。そうして、あとでわかることがたくさんあるでしょう。
頭山:写真に残すと気づきが多いなと、最近すごく感じています。
石内:写真はやはり他者、第三者が見ないとダメなんです。自分だけ見てても写真じゃないのよ。自分とは全く関係ないところで、知らない人の目線が返ってくる。写真の面白さはそうした対話のようなものにあるかなという気がしています。
石内都|Ishiuchi Miyako
群馬県桐生市生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。1979年に〈Apartment〉 で第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。2005年、母親の遺品を撮影した〈Mother’s〉で第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。2007年から被爆者の遺品を撮り続けている〈ひろしま〉も代表作のひとつ。2013年に紫綬褒章を受章し、翌年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞。
頭山ゆう紀|Yuhki Touyama
1983年、千葉県生まれ。東京ビジュアルアーツ写真学科卒業。2006年、第26回写真「ひとつぼ展」に入選。生と死、時間や気配など目に見えないものを写真にとらえる。暗室で時間をかけて写真と向き合うことで時間の束や空気の粒子を立体的に表現する。主な出版物に『境界線13』(赤々舎、2008年)、『さすらい』(abp、2008年)、『THE HINOKI Yuhki Touyama 2016-2017』(THE HINOKI、2017年)などがある。