経済的視点からアートの新たな役割を考察する連載企画「アートと経済」。第2回は今年3月に『現代アートとは何か』(河出書房新社)を上梓した小崎哲哉に話を聞く。経済云々以前に、そもそも「現代アート」とはいったい何なのか。そしてなぜアートは高額で取り引きされているのか。アートジャーナリズムの第一人者が、いまさら聞けない素朴な疑問に答えてくれた。そして“現代アートの面白さ”についても、明快な答えが用意されていた。それは「作品そのものがいまの自分と世界を映し出す鏡」だから、面白いのである。
文=加瀬友重
写真=山口賢一(JAMANDFIX)
―この企画はアート、特に現代アートを経済の側面からとらえてみようというものです。そのためには、そもそも「現代アートとは何か」を知る必要があると思います。
それは…本(自著『現代アートとは何か』)を読んでいただくのが一番いいんですが(笑)、僕なりにお答えすると、「現代人の想像力に訴えかける、五感のいずれかあるいはそのいくつかに向けて作られる作品」でしょうか。もっと単純にいえば―これは僕ではなくドナルド・ジャッドがいった言葉ですが―「誰かが自分の作品はアートだといえば、それはアートである」んです。
―確かにその通りだと思います(笑)。でも、そこがわかりづらいとも思っています。それ以前のアートから現代アートへと移行した、何か具体的なわかりやすい例はありますか。
これは多くの人が賛同されると思いますが、マルセル・デュシャンという人がいまから101年前に『泉』という作品を作りました。磁器製の小便器に偽のサインを施しただけのものです。アート史に残る有名な作品ですが、1917年当時、この作品を実際に見た人はごく限られていて、ですからすぐに(当時のアートシーンに)影響は現れなかったようです。
けれども、デュシャンが成し遂げたことが広く知られるようになった20世紀後半以降は―ほぼ定義上といっていいのですが―あらゆるアーティストがデュシャンの影響下にあります。アーティスト本人が意識するかしないかにかかわらず、です。
─どういう点で「影響下にある」といえるのでしょうか。
まず「レディメイド」ということ。既製品ですね。デュシャンは小便器を使ったり、シャベルをポンと出したり、自転車の車輪を椅子の上に乗せたりして、「これは作品だ」といったんです。彼はさらに極端なこともいっています。「何かをつくる、それは青のチューブ絵具を、赤のチューブ絵具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、常に一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、そして常に画布の上に色を載せる場所を選ぶことです。それは常に選ぶことなのです」と。そう啖呵を切ったんですね。
そして「絵画は単に網膜的あるいは視覚的であってはならない。絵画は灰色の物質、つまり我々の知性に関わるべきであり、純粋に視覚的であるだけでは駄目なんです」という彼の言葉も重要です。つまり現代アートとは目を喜ばせるものではなく、見る人の知性や想像力に訴えかけるものなんです。
─現代アートが「作ること」よりも「コンセプチュアルであること」を重要視している感じは、何となくわかります。知識が必要だということも。そうなると見るほうに知識の準備がなければ、作品から多くの想像は得られないのでしょうか。
確かに多くの人がそういっていますが、僕はどっちもありだと思います。その場合の“知識”は主にアート史であったり、先行作品だったり―つまりデュシャンがいてピカソがいてウォーホルがいて―ということですよね。僕はいま芸術大学(京都造形芸術大学大学院)で教えています。やはりアーティスト志望の学生が多いのですが、彼らはプロ予備軍なので、そういう知識は持つべきでしょう。ただ、一般的に「作品を見る」うえでは、その知識はいらないんじゃないかな、と思っています。
─知識がなくても作品を見て感じるものがあればいいと。
もちろん知識はあるほうが面白いんですよ。心あるアーティストは、アート史の先例を何かしら取り入れていたりするからです。でもそれは、映画ファンが「ヒッチコックへのオマージュだ」「ゴダールのパクリだよ」なんていって楽しんでいるのと同じこと。とはいえ、いまの時代においては、アーティストの関心がアクチュアリティ(現実性)や、ジャーナリスティックなもの、政治などに向かっていることが多い。また、他ジャンルの芸術、それこそゴダールに影響されて作られた作品がいくらでもあります。だから、アート史の知識よりもむしろ、現代に起こっていることや他ジャンルの芸術についてよく知っている人のほうがアートを楽しめるんです。
─政治と無縁でいたいというアーティストももちろんいますが、向き合わざるを得ないと感じているアーティストも多いということですね。
例えばドナルド・トランプが大統領になれば、「トランプいじり」の作品を作るアーティストが出てきます。ジェンダーやポストコロニアリズムの問題、さらに政治的、社会的、歴史的なものに材をとるアーティストもたくさんいて、1990年代後半以降は難民問題を扱う作品が増えています。つまり、そういう事象や背景事情を知らないと(作品が)何を訴えているかわからないわけです。
─ようやく現代アートの入り口に立ったところですが(笑)、その現代アートに、いま極めて高い値段がついています。この状況をどう思いますか。
クレイジーですね。これは現代アートではありませんが、昨年最も高額で取り引きされた作品は『サルバトール・ムンディ』。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたといわれるキリストの肖像画で、実に500憶円以上です。買ったのはサウジアラビアの皇太子。女性の車の運転や映画鑑賞を解放した、開明的君主といわれている人物ですが…。
かなり散財する人で、ロシアの富豪が持っていたクルーザーにひと目惚れしてこれも500憶円で買ったとか、ヴェルサイユ時代の宮殿を模したフランスのヴィラを500憶円で買ったとか。500憶、500憶、そして『サルバトール・ムンディ』で500憶。どれも国民には内緒らしいのですが(笑)。
─現代のアート市場においては、そういう驚くべき金額がどのようにして決まっていくのでしょうか。
マーケットには二通りあって、「プライマリー・マーケット」と「セカンダリー・マーケット」というものがあります。つまり第一の市場と第二の市場。村上隆さんの作品を例にとれば、「プライマリー」は、日本だとご自身のカイカイキキ、フランスではエマニュエル・ペロタン、最大のものはニューヨークを中心に各国に拠点を持つガゴシアンというギャラリーです。
それらのギャラリーで新作の個展を開いて、客が買うわけです。得る金額は契約にもよりますが、一般的には作家が半分、ギャラリーが半分。1億円で売れたら5000万円ずつ折半というのが基本の仕組みです。
─なるほど。「セカンダリー」は?
まず「セカンダリー」のギャラリーというものがあります。新作の企画展を開くのではなく、何らかの形で手に入れた作品を売る。ほかに、一般によく知られているのはオークションですね。主にコレクターが売り主ですが、コレクターがギャラリストを兼ねている場合も多い。というかそもそも、ほとんどのギャラリストはコレクターからキャリアをスタートしています。その人たちが、いろいろな理由でオークションハウスに出品します。
オークションハウスで世界的に有名なのは、「クリスティーズ」と「サザビーズ」。これがツートップです。「セカンダリー」の場合、アーティストに対する支払いはありません。出品した持ち主が落札額を得て、オークションハウスに手数料―これもケースバイケースですが10%以上でしょうか―を支払います。「プライマリー」、「セカンダリー」、あとは闇取引ですか(笑)。
─では、なぜここまで価格が高騰しているのでしょうか。
それは非常にシンプルです。お金が余っている人たちは、銀行にただお金を預けるということはまずしませんよね。株を買うか、土地を買うか、宝石を買うか。その中で、非常に率のいい投資商品として、現代アートを含めた美術品が彼らの目に映っている。これが最大の理由です。
─わかりやすい構図ですね。お金持ちの中には、アート作品の取引に投資以外の意味を見出しているケースもあるのでしょうか。
それはあると思います。僕は金持ちでもないしビッグコレクターでもないのであくまで察するに、ですが、純粋にアートが好きな人もいると思います。また投資といわずとも、自分の資産を株や土地ではなく美術品に換えるという愉しみもあるかもしれません。日本でも、例えば織田信長。安土桃山時代に武野紹鷗(たけのじょうおう)、村田珠光、千利休らが「茶の湯」を完成させましたが、そこでは茶道具、特に唐物(からもの)と呼ばれる中国や朝鮮半島から入ってきた輸入品の碗などが珍重されました。
名物(めいぶつ)と呼ばれる数々のお宝を、信長は実力行使で奪っていきます。それを戦で武功を立てた臣下に配るわけです。人心掌握の道具とするとともに、自分の趣味の良さをひけらかすという。社交のツールでもあったんですね。
─アート作品を手に入れることは、金持ちや権力者にはさまざまな意味があるんですね。
古美術の名物に限らず、ルネサンスから印象派くらいまでの名作絵画は、数が少ないから、なかなか市場には出回らない。だから現代の大金持ちは現代アートに照準を絞るということもあったと思います。
それともうひとつ。現代においては、ファッションブランドや自動車メーカーなどがビッグコレクターになっています。カルティエ、ルイ・ヴィトン、プラダ、メルセデス・ベンツ…。グッチやサンローランを擁するケリング・グループの総帥であり、屈指のスーパーコレクターであるフランソワ・ピノーは、自身の名前を冠した財団を設立しています。
─アートとマーケットの“構図”が、少しずつつかめてきたような気がします。
その構図も、実は歪み始めている部分があります。特にアメリカで見られる傾向なのですが、個人のコレクターが美術館を作っています。それは、財団化して美術館を作ると税制上の優遇措置がとられるからなんです。ところが実態はどうかというと、美術館は作ったけど宣伝や広報活動をまったくしておらず、客がほとんど入っていない。つまり公共の利益になっていないということで、アメリカの税務当局が実情の報告を求めたことがあるんです。
─ごく一部のコレクターがアートの世界を作り上げているから、そういう問題が生まれるのでしょうか。
いや、歪みさえなければ、コレクターが自分の趣味を発揮するのはとてもいいことだと僕は思っています。福武總一郎(ベネッセホールディングス名誉顧問。「ベネッセアートサイト直島」のコレクションを作り上げた実業家)さんもはっきりした趣味をお持ちだし、フランソワ・ピノーもそうだと思います。なかには有名なものを上から順に買っているように見える人もいますが(笑)。
本にも書きましたが、僕が一番素晴らしいと思っているのは、デイヴィッド・ウォルシュというオーストラリア人のコレクターです。オーストラリア南東部のタスマニア島の出身なんですが、そのさびれ果てた故郷に美術館を建てた人です。何がすごいって、彼は自分の資産をすべてギャンブルで築いたんです。正確にいうとギャンブルに基づいたビジネスで財を成したのですが、最初は本当にバカラや競馬で得たお金でアートを購入していたそうです。そうして集めたコレクションを、惜しみなく一般に披露しているんです。
メディアが名付けたその美術館の通称は、“ミュージアム・オブ・セックス・アンド・デス”(正式名称は「MONA」=「ミュージアム・オブ・オールド・アンド・ニュー・アート」)。実際、そういう内容のコレクションが充実しています。先日も訪れたのですが、彼も丸くなったのか、わりと普通の作品が増えましたね(笑)。
─お話を聞いていると、やはり一般人が「アートを買う」というのは難しいように思えてきました(笑)。
いずれにしても、本気で集めるならべらぼうな金がいる、ということですね。美術館を訪れる人は多いし、美術品鑑定のテレビ番組も人気です。ただ「アート作品を買わない」という普通の人の神経は、ある意味健全だとも思うんです。
9年前に東京から京都に引っ越して、その間、京都で何度かアートフェアが開催されました。でも、おしなべて失敗したといえます。京都人がケチだというわけではなく、逆に、非常に合理的だからでしょう。要は、「ワケのわからんもの」は買わないんですよ。現代アートは、これまでずっと「ワケのわからんもの」とされてきました。それは業界の努力が圧倒的に足らなかった、誰もやってこなかったからだと思います。
─これからようやく「現代アート」が多くの人に理解されるようになる…。
いや、まだまだ難しいでしょうね。先日「日本の大学生の人気就職先ベスト10」を目にする機会があったのですが、驚いたのは僕が学生の頃とほとんど変わっていないこと。銀行、金融、保険、航空、有名メーカー…という、完全安定志向(笑)。これがアメリカだとかなり違っていて、ある調査によればトップはエアビーアンドビー(2008年設立の民泊貸出者向けウェブサイト)です。アメリカがすべていいとはもちろんいいませんが、少なくとも変化している。新しいものへの興味が湧いてこないようでは現代アートどころじゃないでしょう。
─日本において現代アートへの理解を進めるとなると、教育や歴史まで含めて考えなければいけないように思えますね。
何かが変わってほしいとは思います。ただヨーロッパ諸国、広く欧米といってもいいんですが、向こうはやはりアートの歴史が長い。ギリシャ、ローマ時代から始まっていますからね。また欧米のお金持ちは―最近では中国でもそうですが―、自分の子供を海外留学させますよね。そこで新しい世界の“扉”が開かれる。でもいまの日本の学生って海外に留学しないでしょう。僕が若い頃は親をだましていくばくかの金をむしり取ったり、アルバイトで稼いだ金を貯めたりして、海外を目指したものですけれど。
─時代といってしまえばそれまでですが…。でも現代アートの面白さが理解できれば、状況は少しずつ変わっていくかもしれません。
これも声を大にしていっておきたいんですが、現代アートは確かに面倒くさいんですよ。こんなに面倒くさいものをわざわざ好きになる必要はなくて(笑)。
ただ、(現代アートを)好きになった者としていうと、本当に面白いんです。例えばコントラクトブリッジのような複雑なカードゲームがありますよね。ルールも面倒だし、相手を選ぶようなところもある。その意味で非常に面倒くさいけれど、ゲームを重ねて理解が進むとハマってしまう。もしかしたらそういうものに近いのかもしれません。
この本でもさんざん書いたのですが、アート史の知識よりもほかの芸術ジャンルや、いま世界で何が起こっているか、翻って世界の歴史だとかを学んでいくと、作品が鏡になって自分と世界を映してくれるんですよ。そこが醍醐味なんです。ああ、学ぶっていう言葉も良くないですね、お勉強っぽくて。自分がいろんなことを経験すればするほど、それが鑑賞に活きてくる。だから現代アートは面白いんです。
小崎哲哉|Tetsuya Ozaki
1955年、東京生まれ。京都在住。カルチャーウェブマガジン『REALKYOTO』発行人兼編集長。京都造形芸術大学大学院学術センター客員研究員。同大学舞台芸術研究センター主任研究員。2002年、20世紀の人類の愚行を集めた写真集『百年の愚行』(Think the Earth)を企画編集し、2003年に和英バイリンガルの現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。2013年には「あいちトリエンナーレ2013」のパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当。2014年に『続・百年の愚行』(同前)を執筆・編集。近著は2018年3月に上梓した『現代アートとは何か』(河出書房新社)。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。