写真家、大森克己の初エッセイ本『山の音』は、1997年から2022年までさまざまなメディアで発表してきたエッセイやノンフィクション、書評、映画評、詩、対談などに加えて、コロナ禍の日々を綴った日記を加えたものだ。写真は掲載されておらず、464ページにわたって、これまで大森が歩んできた日々の生活と視点の痕跡が綴られている。ここでは、写真家、野口里佳が、大森の思考の軌跡が詰まった1冊を通して、幾度となく「写真が上手い」といわれてきた大森が、何をもって写真が上手いと人々に感じさせるのか、その糸口を見つけ、独自の言葉でひも解いていく。
テキスト=野口里佳
写真=萬田康文
雑誌をめくっていて、上手な写真だなと思ってクレジットを見ると大森克己さんの写真だった、ということはよくある。例えば靖国神社を訪れた際の人混み越しに写る、当時の小泉首相の写真。別府の温泉街で見かけた旅行冊子の温泉のお湯を撮っただけの写真も上手だな、と思ったら大森さんの写真だった。そして私は長い間、大森さんが写真の上手な理由は、きっと特殊な身体能力にあるのだろうと思っていた。並外れた反射神経、運動神経の持ち主に違いない、と思っていたのだ。けれどこの『山の音』を読んで、それが間違っていたのではないかと思い始めた。完全に間違っている訳ではないのかもしれない。でも大森さんの写真の上手さは、大森さんの知性に支えられているのだと思う。
この本の最初の方に俳優の光石研さんを撮影したときの話が出てくる。楽屋に書きかけの原稿用紙があり、原稿用紙の上に万年筆が置いてある。大森さんはキャップのクリップに彫られたTIFFANY&CO.の文字を見ながら、ヘップバーンやカポーティーのことを思い出す。そしてピントを合わせる。
私は、「ああ、そういうことなのだ」と思った。万年筆を見て、その万年筆の持つさまざまな物語を思い出す。もしかすると、大森さんは後ろに流れているクラッシック音楽が、誰の曲で誰の演奏でいつの録音なのかも知っていたかもしれない。いろいろなことを知っていることは、上手な写真を撮る上でとても大切なことなのだ。たくさんの知識を総動員して、目の前にある世界と向かい合う。そしてすべてを一瞬にして整理し、正確に撮る。そんなことが出来てしまうのが、大森さんなのだ。
大森さんに向かって「大森さんは本当に写真が上手いですよね」といったことがある。写真家に向かって、あなたは写真が上手ですね、ということは、とてもおかしなことなのかもしれない。もしかすると失礼なことなのかもしれない。けれど、それが私の素直な気持ちだった。ちょっと羨ましさを含んだ言葉だったと思う。でもその時の大森さんの返事は、「それって褒め言葉じゃないよね」というものだった。そのとき初めて、上手い人には上手い人の悩みがあるのだと知った。それは衝撃だった。
だけどきっとこういうことだったのだと思う。本当に上手い写真というのは、誰が見ても絶対そう撮るべきという感じでそこにあるので、誰が撮ったかすら重要でなくなってしまう。写真家が透明人間になってしまうのだ。だから大森さんは誰もが羨む透明人間なのに、本人は実体を持ちたいと悩んでいる、そんな風だったのではないかなと思う。でもこの本の中で大森さんが「いまの自分は『写真が上手い』といわれると嬉しい」と書いていたので嬉しくなった。きっと大森さんは、自分の持つ特別な才能と折り合いをつけたのだと思う。そしてこの本には、その場所に辿り着くまでの思考の軌跡が詰まっているように見える。
私がこの本の中で一番好きなのは、大森さんが横浜から浅草まで歩いてみる話だ。古典落語に出てくるシーンをなぞって、自分でも試してみる。私もこういうことをよくするので、この気持ちはとてもよくわかる。ワクワクしたり、疲れてきてこんなことを始めた自分を後悔したり、私もいつもこんな感じで写真を撮っているなと思う。逆に大森さんを一番遠くに感じたのは、自分の家にいるより人の家にいる方がリラックスできるという話だ。人の家で自分の家みたいにリラックスしてしまうことはあるけれど、人の家の方がリラックスするということはなかなかない。でも確かに大森さんは、いつだってバリアがない。だからあんなふうに写真が撮れるのだろう。そんな風に考えながら読み進めると、頭の中にいろいろな思いがめぐっていく。
頭の中にあるさまざまな言葉を、そのまま頭の中にあるように並べていくことは簡単ではない。なのに大森さんの文章は大森さんの頭の中に入って景色を見ているみたいに軽々としていて、いとも簡単に書いているように感じられる。でもこの本の最後にある大森さんの日記に辿り着くと、大森さんが毎日文章を書いているということがわかる。結局は日々の積み重ねでしか、才能は磨かれないのだと思った。さまざまな知識を蓄積することも、自分の言葉を上手に書きつけることも、結局は毎日をどう過ごしているかでしかない。そして大森さんは日々鍛錬を積んで、写真の世界の先頭に立って歩いていく。
タイトル | 『山の音』 |
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出版社 | プレジデント社 |
発行年 | 2022年 |
価格 | 2,970円 |
仕様 | 四六判/464ページ |
大森克己|Katsumi Omori
1963年、神戸市生まれ。第9回写真新世紀優秀賞(ロバート・フランク、飯沢耕太郎選)受賞。主な写真集に『サルサ・ガムテープ』『Cherryblossoms』(以上リトルモア)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)、『心眼 柳家権太楼』(平凡社)など。主な個展に「すべては初めて起こる」(ポーラミュージアムアネックス、2011年)、「sounds and things」(MEM、2014年)、「山の音」(MEM、2022年)。参加グループ展に「Gardens of the World」(Rietberg Museum、2016年)、「語りの複数性」(東京都公園通りギャラリー、2021年)などがある。写真家としての作家活動に加えて『dancyu』『BRUTUS』『POPEYE』『花椿』などの雑誌やウェブマガジンでの仕事、数多くのミュージシャン、著名人のポートレート撮影、エッセイの執筆など、多岐に渡って活動している。『山の音』は初の文章のみの単著となる。
野口里佳|Noguchi Rika
1971年、埼玉県生まれ。沖縄県在住。2002年、第52回芸術選奨文部科学大臣新人賞(美術部門)を受賞。国内での主な個展は「予感」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2001年)、「飛ぶ夢を見た」(原美術館、2004年)、「光は未来に届く」(IZU PHOTO MUSEUM、2011〜2012年)、「不思議な力」(東京都写真美術館、2022〜2023年)など。作品は東京国立近代美術館、国立国際美術館、グッゲンハイム美術館、ポンピドゥ・センターなどに収蔵されている。