24 November 2023

被写体との「距離」に美を見出した
森本洋輔『Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo』

24 November 2023

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被写体との「距離」に美を見出した森本洋輔『Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo』 | Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo

代々木公園にいたひとりの女性に「ポートレイトを撮らせてほしい」と声をかけたことで始まった森本洋輔の写真集『Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo』。2006年から2023年にわたって撮影された写真と東京の風景で構成される本書に写るのは、撮影者と被写体の間に存在する「距離」である。柔らかさと優しさが漂う森本の写真を、美術評論の執筆などを行っている岩垂なつきの視座を持って掘り下げる。

文=岩垂なつき

森本洋輔の写真集『Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo』(赤々舎、2023年)は2006年から2023年までに撮影した女性たちのポートレイトと、東京の風景写真で構成された1冊である。被写体は街中で偶然出会った女性たちで、森本は初対面の彼女たちに「写真を撮らせてくれませんか」と声をかけ、カメラを向けられたやや緊張した彼女たちの面持ちを写し取っている。被写体の表情は決して嫌そうではないけれど、嬉しそうというわけでもない。その曖昧さが、淡い光でぼかされた東京の風景と呼応して、写真集全体に漂う柔らかな空気感を生み出している。


一連のポートレイト作品の特徴をひとつあげるとすれば、それは被写体との「距離」であるように思う。森本の制作スタイルは初期から一貫しており、街中で魅力を感じた女性に声をかけ、応じてくれた人物とほんの一言二言の会話を交わしてから、数枚の写真を撮影し、別れるというものだ。これは写真家がモデルを撮影する通常のプロセスとは大きく異なるだろう。一般的な人物写真を撮影するとき、写真家はモデルの魅力的な表情を引き出すため、彼らと心理的な距離を詰めようとする。そのためにはモデルと一緒に過ごすある程度の時間と、積極的なコミュニケーションは不可欠だ。しかし森本の作品には、そのどちらも介在していない。彼女たちとの間に確実に存在する隔たりは、シャッターを切るそのときまで決して埋められることはないのである。

このような制作の背景には、森本の個人的な体験がある。かつて森本は交際していた女性の写真を撮影していたが、その後別れることとなり、喪失感を癒やすためにカメラを携えて街に出かけるようになったという。そこで代々木公園で出会った女性を初めて撮影する。森本は本書のあとがきで、当時のことを次のように語っている。「その女性はスターバックスのコーヒーを飲みながらiPodで音楽を聞いていました。…撮影したフィルムを現像してプリントしてみると悲しそうな表情の女性が写っていました。知らない人に写真を撮られるときに女性が見せる表情は、付き合っていた女性が別れるときに見せた表情と似ていると思いました」。

関係が終わる寸前の恋人と、偶然出会って声をかけた女性。両者と写真家との間合いには、どの様な共通点があるのだろうか。恋人と別れる直前の女性の心情を考えてみれば、カメラの向こう側の人への恋愛感情は既に薄れているかもしれないが、一定の期間を共に過ごした相手をひとりの人間として尊重する気持ちがそこにはあるだろう。ふたりの間の距離は遠くなりつつあるが、辛うじて思いやりや情けがそれぞれを繋いでいる。一方で、街中で撮影に応じる初対面の女性について考えてみれば、そもそも森本と何の関係もなく、何らかの特別な感情を抱いていることはほぼないだろう。このような状況の中で彼女たちと写真家を繋ぐのは、やはり思いやりや情けであり、それは道端で困っている人に手を差し伸べるような、同情にも似た慈愛の気持ちかもしれない。

このように両者と写真家との間には、共に決定的な距離があり、この先も埋めようのないものである。別れる前の恋人とのそれはシャッターを切った後も一層広がってゆくもので、街中で出会った女性とのそれもまた、一過性の関係の中で縮める術はない。だが彼女たちは、思いやりと一抹の好奇心によって撮影に応じるのである。やや固い表情はその距離を顕著に物語り、漂う柔らかな空気感は関係性の中に確かに存在する優しさを体現している。

そして森本も、被写体との距離を決して埋めようとはしない。彼の制作ははじめこそ恋人との別れがきっかけであったかもしれないが、撮影の中で見出した「距離」は、もはや一連の作品に通ずる美学として機能している。森本の写真作品においては、対象への「届かなさ」にこそ美が宿っているのである。

「届かない」美といえば、スコット・フィッツジェラルドの文学作品『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年、村上春樹訳)を思い起こさせる。いわずと知れたこの名作では過去の恋人である身分違いの女性を手に入れるためにあらゆる手段を講じて富豪となり、派手な振る舞いを続け、彼女の気を引こうとする男とその周囲の人々の様子が第三者の視点を通じて描かれている。恋の相手、デイジーを象徴するのは彼女の家の桟橋の先端にある緑の灯火である。ギャツビーは彼の生涯を費やしてその灯火へと手を伸ばし続けたが、不運にも最期まで届くことはなかった。彼女までの距離とそれを埋めようとするギャツビーの尽力は、悲しく、狂おしく、そして輝きを放っている。

女性との間の「距離」そのものが作品の主要なテーマである点で、森本の写真とフィッツジェラルドによるこの小説は共通しているといえるだろう。ギャツビーはデイジーを手にいれることが出来ないからこそ、森本と街中の女性たちは仲を深めることがないからこそ、美しく思えるのである。一枚一枚の写真に写し出された女性たちは森本がシャッターを切る前も、そのときも、そしてその後も彼に寄りそうことはない。森本が抱き続ける憧れが、彼女たちに神々しいともいえる空気をまとわせている。

また、ポートレイトと共に並べて構成された風景写真は、森本の思慕の情をより強調して見せる。ショッピングセンターや高層ビル、公園の街灯……。それらは森本によれば、撮影した女性たちが「見たかもしれない風景」であるという。森本は撮影が終わってからの彼女たちの足跡を想像し、たどっていったのだろう。しかしその行為によって彼女たちに到達できるわけではなく、かえってそこにある隔たりを実感するものとなる。ややピントをぼかした風景は、実像をつかむことが難しい彼女たちの存在の曖昧さと響き合い、作品にファンタジー性を付与しているかのようだ。対象との間の「距離」そのものは、女性たちの表情によって、彼女たちが目にしたかもしれない東京の風景によって、優しく柔らかな形でそこに現れている。

タイトル

『Yoyogi Park,Shibuya-ku,Tokyo』

出版社

赤々舎

発行年

2023年

価格

3,850円

仕様

ソフトカバー/195mm×305mm/154ページ

URL

http://www.akaaka.com/publishing/YosukeMorimoto.html

森本洋輔|Yosuke Morimoto
1982年、香川県小豆島生まれ。日本写真芸術専門学校卒業後、スタジオフォボス勤務を経て若木信吾に師事。2014年に第37回写真新世紀 優秀賞受賞(HIROMIX 選)。これまでの主な展示に第37回 キヤノン写真新世紀展(東京都写真美術館、2014年)、Lianzhou Foto 連州國際攝影年展 (中国・連州、2016年)、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 KG+2018 (京都、2018年)など。2023年、赤々舎より写真集『Yoyogi Park, Shibuya-ku, Tokyo』を刊行 した。

岩垂なつき|Natsuki Iwadare
1990年、長野県松本市生まれ。2015年、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了(美学)。ヴァンジ彫刻庭園美術館の学芸員、都内文化施設の広報・コーディネーターを経て、現在はフリーで美術批評執筆などを行っている。

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