捨てられないもの
2階の仕事場で作業していたら夫がミモザを瓶に挿して持ってきた。庭から採ってきたようだ。もうそんな季節なんだね、と言い合い、またお互いの作業に戻る。出会ってすぐの頃、初めて自宅に訪れたときに彼はミモザの花とシャンパンを持ってきた。彼のほかにも数人参加する食事会だったし、会うのは2回目だったから特別な意味はないだろうが、単純にきれいな花をもらうのは嬉しかった。それ以来、毎年季節になるとミモザをくれる。数年前に庭に植えたミモザは無事に根付いて毎年花を咲かせる。外にでれば見られるのだが、咲き始めると律儀に活けて持ってきてくれるのも、毎年の恒例となった。作業用の机の上に飾ると、その鮮やかな黄色のおかげで部屋が明るくなった。わかりやすく春を感じる色だなと思ってから、先週ある依頼の仕事で撮影した花を思い出した。いまの時期に咲いている、その土地特有の花を撮影したのだが、良く言うととても控えめな、悪くいうと地味めな花だった。ミモザのようなはっとする色ではないが、好ましく思った。その花を依頼仕事としては久しぶりにフイルムで撮影をした。アシスタントはいなかったので、時々デザイナーさんにカメラバックを持ってもらったりして撮影したが、撮影済みのフイルムを一箇所にまとめなかったせいで、現像に出してからバックのポケットの端にもう一本残っていたのに気が付いて慌てて追加で出した。いままでにそんなことをしたことがなかったから、久しぶりのフイルム撮影とはいえ、なんだか自分が情けなくなった。単にカメラバック内を整頓しなかった自分が悪いのだが。つい数日前も、接写用のレンズやフィルターをどこにしまったか思い出せずにいろんなカバンのポケットを開けて探したり、ジャケットのポケットのなかを確かめたりしたが見つからず、最終的には何度も探したカメラの収納庫で見つかってほっとしたあとにがっくりした。そもそも使わない機材や備品が多すぎるのだけど、処分するのも面倒だし、いつかまた使うかも、という感じで置いてあるからカメラケースのなかも混沌としている。なかを眺めながら、娘と違わないじゃないかと思った。最近なんでも捨てるのを嫌がっていて、お菓子の空き箱とかマヨネーズの袋とか、ゴミ箱で見つけると捨てちゃダメ!と言ってゴミ箱から出してしまう。いろいろなだめても頑なに捨てない!と言い張るので、保存用のファイルにそれらをとりあえずファイリングしている。でも、自分も小さいときそういうところがあったから、強く言えない。というか、いまもそうなのだ。カメラ機材を処分できないし、着なくなった服もまたいつか着るかも、娘が大きくなったら着るかも、と、なにかと理由を見つけては捨てられない。亡くなった祖母もそうだった。家具と家具のすきまにびっしりと包装紙や紙袋がはさまっていたし、食パンの袋を留めるプラスチックのクリップは空き缶のなかに溢れるほど入っていた。冷蔵庫も冷凍庫もぎっちり食材がいつも埋まっていた。ごちゃごちゃとしていたから、祖母が見てないときにこっそり溜まった割り箸やプラスチックの入れ物を捨てたりしたけど、なくなると不安になるようだったからほどほどに捨てるのに気をつけないといけなかった。物がなかった時代を生きた人だから、もったいない精神で捨てられず、食材も貯め込みたくなったのは仕方がないなと思う。いまは時代が違うので、なるべく無駄なものは買わずに風通しよく暮らしたい、という理想があるのだが、なかなか近づけない。
そういえば夫に初めてもらったミモザもドライフラワーにしてまだ部屋に飾ってある。物には一つずつなにかしらの思い出が付随しているから、処分しづらい。毎年年末にゴミ袋片手にさあ、いろいろ捨てようと思ってみても、物を手にとってはそれにまつわる色々の記憶が引き出され、ついまた元あった場所に「とりあえず」「まだ」置いておこう、となり、結局そのままずっとあったりする。でも、だから写真などを生業にしているのかもしれない。流れていく時間を、薄れていく記憶や思い出も、残しておきたくなる性分だから。
先日、ぼさぼさになった娘の歯ブラシを捨てようとしたら、捨てないで!とまた言われたので、なんでもかんでも全部残していたら新しいものが入ってこないよ、古いぼさぼさの歯ブラシばっかり引き出しのなかにいっぱいになったら、新しいものはどこに仕舞うの?と聞いたら納得して捨ててくれた。言ってからそのままその言葉がブーメランみたいに自分に返ってきたことに気がついた。自分もクローゼットの中を見直さないといけない。
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