文・選曲=菊地成孔
あらゆる<ヌード写真>というものが「生と死」をイメージさせる。というのは本当だろうか?少なくとも僕には、実際の性行為、その最中の自らの主観の中で感じる「生と死」と比べた場合、1兆分の1ほどそれは低いし、性行為中の主観と、ヌード写真を観ている主観が、別次元のものだとしても、ヌード写真から<別次元の生と死>はーーまるで不感症のようにーーまったく見えてこない。ヌード写真から、<生と死>が、まるでポルノグラフィに於ける扇情性のように、強い実感を伴って主観の中に湧いてくる。というのは、いつの頃からか始まったロマンチックな幻想だと思う。
僕がヌード写真から感じるのは、むしろ宗教性である。宗教は勿論、生と死を巡る合理化の形だが、そういう観念的なことでも、ましてや宗教画のトレーシングであるとか、宗教舞踊のシミュラクラであるとかいう即物的な類似の話でもない。ヌード写真は、写経や経典を、光と闇という「別の線」で描いたものであると僕は感じている。
そしてそれは、しかるべき音楽と合わせることで、いきなり立体的になる。アメリカ人作曲家モートン・フェルドマンが最晩年(1986年)に書いた『コプトの光』は、それだけ聴くと、20世紀現代音楽のひとつの拠点であるニューヨークという強いローカリティが、皮肉のように浮き彫りにされる。「コプト」はエジプトのキリスト教徒のことだが、響きが召喚するイメージはアメリカの大都市の音楽である。しかし、こうして野村佐紀子の『春の運命』と合わせる(音楽がBGMだとか、写真がラベルだとかいう関係ではなく、完全に平等に)と、両者がヒンドゥー教的な図像と音像に変容し、溶け込むことがはっきりする。それは、端的に捻れであって、変容が捻れから生じるという原理も同時に感じることができる。
タイトル | 『春の運命』 |
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出版社 | Akio Nagasawa Publishing |
出版年 | 2020年11月 |
価格 | 6,600円 |
URL | https://www.akionagasawa.com/jp/shop/books/akionagasawa/fate-in-spring/ |
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家・文筆家・大学講師。音楽家としては作曲、アレンジ、バンドリーダー、プロデュースをこなすサキソフォン奏者、シンガー、キーボーディスト、ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり音楽、映画、モード、格闘技などの文化批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々出演多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。著書に『次の東京オリンピックが来てしまう前に』『東京大学のアルバート・アイラー』『服は何故音楽を必要とするのか?』など。