抜け殻と感受性
オペラシティでの展示が始まって1カ月が経とうとしているのに、忙しさは変わらず、なかなか通常のモードに戻れない。
展示のプロモーションにいろいろな媒体でインタビューなどを受けさせていただいている、というのと、巡回展の滋賀県立美術館での展示準備などに加え、今月久しぶりにヨーロッパへ行くための準備などに時間をとられて気がつけばもうひと月。
展示の準備は結局映像の作業がずっと終わらず、初日の朝まで編集をやり直したりしてなんとか間に合ってほっとした。
しばらく千葉の自宅と東京を行ったり来たりの生活で、搬入作業の合間にも帰ってから映像の編集を手直しする日が続いたからか、翌朝目が覚めてもしばらく身体が動かず、起き上がってからもしばらくなにをする気にもならなかった。まさに抜け殻のようで、展示が終わってからこんなふうになるのは初めてだなあ、年齢のせいかな、しかしこの感じは知っている感覚でもある、、、とベッドのなかで布団にくるまりながら自己分析をしてみた。
身体が動けないのは明らかに年齢のせいであるだろう、でも展示が終わって抜け殻のような気持ちになるのは、いままでにあまりなかったこと。でも自分のなかにあったものを吐き出して身体も痛くてぽっかり空いた感じはなんだか知っている気がする、、、と考えてから、思い出したのが出産直後のことだった。
無事出産を終え、分娩室を出てから個室に移動になったときのこと。基本的には母子同室の病院だったのだが、新生児は検査のために少しのあいだ離れる時間があった。そのあいだベッドで待ちながらいままで一緒にいたのに、いまはいないんだ、と寂しいような、おなかに穴が空いたような、なんともいえない気持ちになり、時間にすると2時間くらいだったのだが、とても長い時間に感じて、だんだんと「わたしの子どもを早く連れてきて!」とヒステリックな気持ちになったことを覚えている。その激しい感情は初めての母性の叫びだったのかもしれない。
そのような体験と今回がまったく同じというわけではもちろんないのだけれど、自分のなかにあったものが物体として別々に存在するという点では似ている。もう自分とは違うものとしてあるのだった。
ただ、なんとなく寂しいような、ぽっかりした気持ちでその日はしばらくベッドから出られなかった。
先日娘がなにかのアニメを見終わり、興奮しながら駆け寄ってきて、登場人物の関係や、いかにおもしろかったか、など熱っぽく話し出した。自分は掃除中で手を動かしながら適当に相槌を打っていたのだが、よほど聞いて欲しいのか服を引っ張りだしたので作業の手を止めて娘の顔を見ると、目に涙の粒が光っていた。
映画を見て泣いたのは初めてのことだったので驚いた。彼女のなかで物語によって感情が揺れ動いたのだ。なにかを見て感じる心が育っているのだなと嬉しくもあり、少し感慨深かった。
話を聞くと親子の交流の話だったようで、自分のなかになにかを重ねて感じることができたのだろう。
オペラシティでの展示の感想をたくさんいただいているのだが、それを聞いたり読んだりするたびに、受け止める側の力について考える。
鑑賞する人の体調や状況によって、同じものを見てもその日によって感じ方は違うだろうが、作品を見ることは想像力や読解力が必要だ。それぞれの感想を述べて下さった方々の感受性の高さにも感嘆する。
SNSでも展示に足を運んでいただいた方々がそれぞれに感想を書いたりしてくれているのだが、自分の制作意図を汲み取って解釈してくださる方もいるし、自分が想像もしなかったような反応もあったりして、面白いなと思う。いずれにせよ、作品を通して会ったことのない人たちと交流できることに喜びを感じる。
娘の感受性も成長するにつれ、さらに強まっていくのだろうか。
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