今年MACKから復刊され、大きな話題となった深瀬昌久の『鴉』。深瀬昌久アーカイブスのトモ・コスガと、同時代的に深瀬昌久の活動を見てきた写真史家・金子隆一の二人が、長い間語られてこなかった本作について解き明かす。前編では復刊のキーとなった深瀬昌久アーカイブスについて、『鴉』とはどのような作品だったのかについて語る。
*2017年9月に原宿・VACANTにて行われたトークイベント「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」から抜粋して掲載しています。
企画・写真=twelvebooks
協力=深瀬昌久アーカイブス、MACK
構成=小林祐美子
金子隆一(以下“金子”):『鴉』は蒼穹舎という、1980年代に大田通貴さんが始めた出版社が一番最初に出した写真集でした。その後一度アメリカで復刻が出て、2008年には1,000部という限られた部数でラット・ホール・ギャラリーより復刊されたのち、幻の写真集と呼べる最右翼に位置するものでした。加えて深瀬さんが1992年に不慮の事故によって写真家として再起不能になり、その後お亡くなりになったことによって、しばらく深瀬昌久という写真家の活動自体が表に出てこない状況が続いていた。その中でトモ・コスガさんが深瀬昌久アーカイブスを立ち上げたことによって、深瀬昌久がもう一度アプローチできる存在として、近年浮かび上がってきています。その結果のひとつとして、この復刻された『鴉』がある。そこでまず、深瀬昌久アーカイブスの始まりと現状についてお話しいただけますでしょうか。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
トモ・コスガ(以下“コスガ”):我々が深瀬昌久アーカイブスという名前で本格的に活動を始めたのは2014年からです。深瀬が事故に遭った1992年から2012年にかけては、深瀬昌久アーカイブスの前身団体として深瀬昌久エステートという組織がありましたが、対外的な出版や展示の活動は少なかった。ですから、それらはまず我々の目標の大前提となりましたし、日本だけでなく世界中に広めていくことも大事ですし、ゆくゆくは次世代に深瀬作品が語り継がれていくことを目指しています。今回MACKからの『鴉』復刊はその第一歩だと思っています。
『鴉』は86年に蒼穹舎より刊行されてから世界中で評価をいただいていますが、その一方では長く絶版が続き、本格的な展示もない時期が長らく続いていたことから、その中身について議論される機会はほとんどありませんでした。ですから今回のように再版されることを機に、深瀬の作品をいま一度考えて頂いたり、議論していただけたら嬉しいです。
我々の活動としては主に3つ。「作品のデータベース化」を完成させ、「展覧会や出版の企画立案」をし、最終的には「美術館への収蔵」をすること。それらをどれだけスピードを伴って積極的に進めていけるかを重要視しています。というのも、我々の手元にプリントやネガが受け渡された2014年の段階で、既に大方のネガや資料が風化している状況でした。とりわけネガは湿度や温度などの保管状態が適切でない環境に長らく置かれていたのか、加水分解を始めているものも多く見られ、酷いものでは絵が消えかかっていたり、あるいはカビが生えていたり。そうしたものが何万点もあることを知った時点で、我々の活動に残された猶予が実際にはあまりないことが分かったんです。
今年、南仏アルル国際写真祭で開催された深瀬の回顧展「THE INCURABLE EGOIST」より『鴉』展示風景
海外にも広く伝えていこうと、2015年に南フランスのアルル国際写真祭において、テートモダンのキュレーター、サイモン・ベーカー氏がキュレーションした「Another Language」という展示に深瀬作品も出展させて頂きました。
そして今年の7月には南仏・アルル国際写真祭でようやく深瀬の大規模な回顧展が実現し、深瀬自身が生前に手がけたヴィンテージプリントを中心に約290点を展示しました。本展では5つの部屋を使わせてもらい、13のシリーズ群を『遊戯』『家族』『孤独』『私景』という4つの大テーマに区分して展示しました。深瀬が自ら手がけた展示としては最後となった92年の「私景’92」(ニコンサロン銀座にて開催)以降は公開されることのなかった『ベロベロ」や『遊戯』なども一部公開することができ、多くの方にフレッシュに堪能していただけたのではないかと思います。
2015年、Diesel Art Galleryで開催された深瀬の展覧会「救いようのないエゴイスト」会場風景 photo by Wataru Kitao
金子:2015年に渋谷・DIESEL ART GALLERYで行われた深瀬昌久の展示「救いようのないエゴイスト」はとてもインパクトがありました。二十数年間ぶりに深瀬昌久のプリントを見る機会が作られたことと、もう一つは、私も含め深瀬昌久を同時代的に知っている人ではない人の視点で作られた展覧会だったという点です。非常に新鮮な、深瀬昌久の新しい評価を作っていくきっかけになった展示だったと思います。
コスガ:ありがとうございます。本展のタイトルに起用した「救いようのないエゴイスト」は、当時の深瀬の妻が1973年に『カメラ毎日創刊20年記念別冊 写真家100人 顔と作品』に寄稿した原稿のタイトルです。当時、深瀬は妻をよく撮影していたのですが、彼女はそんな深瀬について「彼の写した私は、まごうことない彼自身でしかなかった」と記しており、故に彼は「救いようのないエゴイスト」であると結論づけています。これは深瀬を象徴する言葉であると判断し、展示タイトルとして採用しました。この展示では『屠』『烏:夢遊飛行』『家族』『私景』『ブクブク』『猫』といったシリーズ群を展示させていただきました。
この展示を開催すると、観て頂いた方々からこんな質問を頂いたんです。「どうして『鴉』の作品が写真集に収録されたものではなく、しかもなぜカラー写真なんだ?こんなのは見たことがない」と。これには理由があります。本作は『カメラ毎日』1983年10月号に載った『烏:夢遊飛行』という作品で、私が2000年頃に初めて出会った深瀬の作品なんです。当時、美術系の大学に通っていた私は学校の図書館で写真関連の本を読みあさっているうち、深瀬の写真集にたどり着きました。しかし当時既に『鴉』には高値がつけられていて学生の私には高嶺の花になっていた。それでも諦められなかったので昔の写真雑誌を探し始めたら、本作のようなカラー作品もあれば、フォト・モンタージュを多用した実験的な作品など、実に魅力的なのに雑誌掲載で留まってしまった深瀬の作品にたくさん出会うことができたんです。
深瀬昌久『烏:夢遊飛行, 1983年』より © Masahisa Fukase Archives
金子:あまり知られていないことですが、『鴉』は実は最初から、カラーとモノクロの両方で発表されていました。その後、ニコンサロンでの4度にわたる展示、写真集の編集といういくつかのステップを経て徐々に変化していった作品です。深瀬昌久といえば誰もが『鴉』という時代にあって、『鴉』がカラーで展示されたことはインパクトがあった理由のひとつだったと思います。
コスガ:私は個人的に当時の雑誌を買い集めて深瀬昌久のスクラップブックを作ることをこれまで15年近く続けてきたのですが、その初期衝動を与えてくれた本作を人々に見せることができれば、本人不在のなかでも次の世代に深瀬の作品を伝えていくことが叶うのではないかと。だから、誰もが知るモノクロの『鴉』ではなくカラーのそれを展示しようと決めました。
また、深瀬が手がけたプリントにおいて『鴉』はとりわけ、技巧の面においても手間暇のかかった素晴らしいものでしたから、本人亡きいま再現するのは大変難しく、その点において万が一にも作品の魅力を汚したくなかったことも理由のひとつでした。しかし深瀬の場合、カラー写真は雑誌寄稿のために用いるのが主でした。当時、カラー写真の寄稿はポジフィルムを出版社に渡す手法でしたから、カラーのプリントというのはほぼ存在しないんです。かつポジフィルムは退色劣化が激しい。それをどう残すかというのは目下急務といえます。
コスガ:『鴉』は、1976年4月から妻との離別をきっかけに出た北海道への旅の途上で出会った人やものを写した作品です。これを展示にしようとなった際、深瀬はそのタイトルを「遁北記」(とんぽくき)にしようと考えていたらしいのですが、当時「カメラ毎日」編集者を務めた山岸章二さんが「それでは薬の頓服(とんぷく)みたいだ、写真にはカラスが多いから烏でいいんじゃないか」と提案したそうです。旅ガラスという言葉もあるし、と納得した深瀬は「烏」というタイトルを採用しました。その後82年までが本格的に撮った時期で、86年に写真集として出版されました。
金子:雑誌の連載時は「烏」で写真集は「鴉」。タイトルが違っていたというのも面白い。文字が違うということは、つまり意味が違うということです。
コスガ:まさにその通りです。「鴉」という漢字が写真集に使われていることは皆さんご承知の通りですが、一方で雑誌と展示では「烏」と題されていました。それについて深瀬は『カメラ毎日』にこう記しています。“烏”という字は象形文字で、カラスは真っ黒で目が見えないから「鳥」の目の位置に当たる一本の線を抜いて「烏」とした。一方の「鴉」は形声で、「牙」(ガ)の音がカラスのカーという鳴き声を表す文字であると。1976年の一回目の展示でどちらにするかを相当悩んだそうですが、形声より象形を選んで「烏」にしたと書いています。つまり当初は、カラスの形態にフォーカスを当てていたということでしょうね。
金子:動物のカラスが必ず写っているわけではなく、お年寄りの女性のヌードであったり、女学生の毛がわっと風でなびいている写真だったり、カラスが持っている不吉な、マイナス的なイメージを象徴して「烏」といっていたんだととらえられます。
コスガ:英題にしても、なぜ日本人には馴染みのある「CROW」ではなく「RAVEN」としたのか?という疑問が浮かび、言葉の意味を調べました。「CROW」は体が小さく都会に住みやすいハシブトカラスやハシボソカラスのことで、日本では古来から「八咫烏」信仰に見られるような吉兆を示す鳥ですが、対する「RAVEN」は大型のワタリガラスを指し、これは不吉の兆しを持つ鳥として海外のさまざまな神話に登場します。さらにエドガー・アラン・ポーによる有名な詩『大鴉』の原題が「RAVEN」なんですね。
金子:ちょうど70年代に翻訳が出て、幻想文学が好きな人はみんな読んでいました。
コスガ:ある嵐の夜に、恋人を亡くした男性のもとに言葉をしゃべる鴉が突然現れる。男性が鴉に「お前は何者なんだ」「自分の失った恋人をお前は返してくれるのか」などと問うのですが、鴉は「Never more(二度とない)」とだけ返すという残酷な詩です。恋人を失う過程で鴉が出てくるという構造は、当時の深瀬の状況、そして深瀬の二冊目の写真集『洋子』にも繋がりが見いだせます。深瀬と当時の妻は1963年に出会って翌年には結婚をしますが、度重なる衝突を経て深瀬は二度の家出をしたのち、ある日ふらっと舞い戻る。しかしそれは妻を一年間撮るためであり、76年には離婚をしてしまいます。この写真群が78年に写真集『洋子』として出版されました。『鴉』はその次に出版されています。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
金子:『洋子』は朝日ソノラマ写真選書というシリーズの中の一冊として出版されました。編集したのは当時朝日ソノラマにいた長谷川明さんで、今回復刻になった『鴉』が蒼穹舎から出た際に編集した人でもあります。この二冊を同じ人が編集しているということは注目しておくべきことです。朝日ソノラマ写真選書は名作写真集を復刻するというコンセプトで始まったシリーズで、初めてオリジナルを作ったのが深瀬昌久の『洋子』と、森山大道の『続・ニッポン劇場写真帖』、そして荒木経惟の『我が愛陽子』の3冊でした。長谷川明が圧倒的に評価していた3人であり、本来写真集になるべきなのにまだなっていない作品、という意識だったようです。この3冊が刊行された1978年は、「山岸天皇」とまで言われた山岸章二が『カメラ毎日』をやめた年でもあります。『遊戯』ではない深瀬像、『狩人』ではない森山像、『センチメンタルな旅』ではない荒木像が作られ始めたといってよいと思います。
コスガ:時系列から分かることとして興味深いのは、『洋子』が出版される前、深瀬は妻の故郷である金沢を訪れ、木々から飛び立つ数多のカラスを撮影していたことです。その時の写真は『鴉』に収録されるだけでなく、実は『洋子』のラストに配置されているんですね。まるで『大鴉』に登場した鴉が男の前から飛び去るシーンを実際に描いたかのようにも見える、実に象徴的な編集ともいえます。つまり深瀬の『鴉』を考えるうえで前作『洋子』は欠かせない作品なんです。
「鴉, 金沢, 1978」。妻の故郷・金沢を訪れた際に撮影されたうちの一枚。写真集の『洋子』と『鴉』の両方に収録されており、とりわけ『洋子』では最後の一枚として印象的な使われ方をしている。
金子:後に『鴉』の中に収められる印象的な写真が、このときすでに撮られているんですよね。長谷川明も『鴉』を作らないと『洋子』が成立しないと思っていたのかもしれません。
【後編に続く】
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