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Risaku Suzuki × Yuri Mitsuda

対談 鈴木理策×光田由里
純粋な知覚を呼び込むために

25 June 2020

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対談 鈴木理策×光田由里「純粋な知覚を呼び込むために」 | 鈴木理策×光田由里

写真集『知覚の感光版』は、セザンヌやモネなど、写真の誕生と同時代に生きた画家たちが訪れた場所を、鈴木理策が訪れて撮りためた58点が収録されている。純粋に見ることが追求され、鈴木が以前から取り組んでいたテーマが結実した一冊となっている。自然風景の中で植物は呼吸し、水はたゆたい、光は揺らぎ、絶えずそこに世界が存在しているという真理。写真を通して改めてそれを知覚し、見ることへの喜びに出会う本書の制作の裏側が、写真と絵画双方で造詣の深い光田由里との対話によって浮かび上がる。

構成・文=IMA

光田由里(以下、光田):今回の作品もですが、鈴木さんの写真は撮影者の身体性を感じさせるところが大きな要素ですよね。いまのような時期にこの作品集が出たのも、タイミングのよいギフトなのかもしれません。

鈴木理策(以下、鈴木):出かけられないときに見るには、気分がいい写真集ではありますよね。

光田:きらめく光のうつろいを伝え、気持ちのよい風が吹いているような作品があります。写真集の表紙は、キャンバス生地の裏側が使われているそうですが、「知覚の感光板(La plaque sensible)」とプレートが刻印されていて、セザンヌの言葉であるタイトルを納得させる造本だなと思いました。写真集での写真の並べ方は、どのように決められていますか?


鈴木:今回は撮影地ごとに分けてから、それぞれのブロックの中での移動と、ブロック同士のつながりを考えて全体を構成しました。撮った順番を基準にして並べ、抜いたり入れ替えたりしていきます。写真は、見た瞬間に目につくところがあるので、それを覚えておいて、並べ替えるときのポイントにしています。本の構造と写真の相性がいいのは、ページをめくると新しいイメージが現れてきて、前のイメージが残像のように残るからですね。一枚ずつ丁寧に見て欲しい気持ちもありますが、ページをめくるリズムや間合いが、編集するときの大きな要素になります。いつも順番は自分でほぼ決めてデザイナーさんに渡します。どの写真を見開きにして見せるかというあたりは、今回はデザイナーの須山悠里さんに託しました。

光田:見開きになるかならないかは、見え方として大きな違いがありますよね。

鈴木:見開きのページでは、それまでの流れから一拍置いて見せることができます。例えば海の写真の見開きでは、寄りと引きの2枚を並べることで、視線の動きを表すことが可能です。一方で、同じ場所の写真でも、ページをめくった先にクローズアップした写真があると、近づいていく感覚を出すことができます。撮影では、その場所で最初に目につくものや、視線の動きを覚えておいて、カメラでたどり直すということをやっているので、撮った写真には身体的なリズムが残っています。作品集として構成する時には、撮影のときの連続的な視線の動きにはこだわらず、本としての流れを生むための作業をしています。

光田:道を登っていたり、反射する光を浴びる身体の感覚を通して、ふと動く視線と身体感覚のリズムが作品を見ている人にとても自然に伝わってきます。それが意図的に表現された効果だとは、驚きました。自分の生々しい視線の動きをカメラでたどりなおす撮影、という鈴木さんの編み出した手法は、映画的なものを感じさせます。見る人の没入を誘う臨場感があって、何かを探しながら旅をしている雰囲気が感じられる写真集です。

鈴木:2年前の夏にスイスで個展をしたときに、車を借りてスイスからフランスに行きました。その夏にアメリカに、9月にフランスのエクサンプロヴァンスに行って、その3回の旅行で撮影しました。

光田:この画家がこの絵を描いたこの場所に行きたい、と事前に場所を調査して行かれたのですか?

鈴木:大体の場所だけ、かなりざっくり調べて行きました。最初のうちは印象派を追っていたのでセザンヌやモネが出てきますが、エドワード・ホッパーのアメリカの風景も入っています。被写体があらかじめ持たされている意味をなぞるのではなく、その土地を見たこと自体が写真になればいいと思っています。

知覚の感光版


光田:画家が描いた場所を特定するための作品ではないんですね。

鈴木:そうですね。友人を訪ねてアメリカのケープコッドに行った時に睡蓮の池を撮ったのですが、モネが描いたジヴェルニーの庭だと思ってしまう人もいます。写真は見る前から「撮られた目的があるはず」と期待されてしまうのですが、そのことにはさほど興味がなく、むしろ裏切りたいと思っています。

知覚の感光版


光田:モネがモチーフにしたエトルタの断崖そのものを撮る一方で、すぐにモネの絵が連想される睡蓮はアメリカで撮影するとは、なかなか複雑な構造ですね。写真は見る前から目的を期待されてしまうという今の話を聞いて、ご自身の体感や知覚を注視しながらも、この仕事の入り口はやはり絵なのかなという気もしてきました。絵画と写真、そのどちらも作品の入り口にして、入るのも出るのも自由な、循環している感じです。ここで鈴木さんの念頭にあるのは、もともと写真の影響を強く受けた画家たちでしたね。絵と写真が螺旋をなして縒り合される構造の中に、『知覚の感光板』の「視覚」像があるのかなと感じました。

鈴木:基本的に写真と「見ること」は違う。でも僕自身は写真が好きで、写真に対する喜びがあるので、その写真を見て起こる感覚があることを知ってもらいたいとも思っています。自分の経験に近くなればなるほど、見ている状態と、写真になった状態とは違ってきます。中々難しいのですが、それが写真だということを改めて意識させられる作品にしたいですね。

光田:写真集の中で鈴木さんは、「カメラという機械による知覚は身体を持たないため、行動のために像を映し出さないという純粋さを持っている」と書かれていますよね。ここでの「知覚」は、視覚だけではなく、その場にいる写真家が体感している光や温度、匂いや流れのことで、身体を持たず瞬間しか撮ることのできないカメラに、その「知覚」を刻みつけようとしているように感じます。

鈴木:そうだとすると、うまくいっているのかもしれません。撮影の時、風や光を感じたりしたら、あまりカメラで見ないようにしています。冗談のようですが、カメラで見てしまうと、写真で出来ることをいろいろと考えてしまって、風景に意味を与えることになってしまうので、自分の意図は遠ざけます。自分の存在が消えれば消えるほど、ただ写真が写って、出来上がった写真が見る人の感覚を呼び起こすのだろうと思っています。

光田:見ないようにする、自分を消すなんて、撮影はそんな自動的なものでしょうか? 鈴木さんは、簡単には撮れない大きいカメラを持って世界中を周っていますよね?

鈴木:最初のうちは、風景の中に自分が身を置いたことが写ると思っていたのですが、撮影者の意図や存在が希薄なほど写真として強くなると気づきました。「こう撮ろう」という意識は、すごく写真に出てしまいます。撮影の時の考えと出来上がる写真の差をなくすことを目標にして撮っている人も多いですが、僕自身は風を感じたり光を眩しいと思ったりすることの隣で、カメラに機械的に記録してもらっている。個人的な体感よりも、何かしらの感覚をもたらす世界のありさまを撮りたいと考えていて、そのためにカメラに任せてしまう感じです。

光田:隣で記録してくれるカメラ。なるほど、写真への信頼があればこそできることですね。鈴木さんは動画の撮影もされていますが、静止画から見えてくる動きと、動くことを前提としている動画の動きはかなり違うのではないでしょうか?

鈴木:そうですね。写真を見る人の気持ちの中で、写真が動き出して欲しいと思っています。見ることは常に動いているからです。撮影では、風景の中で最初に目に留まるものに意識を向けますが、それはフォトジェニックかどうかという判断とは全く別で、動物的にその場所を知覚する経験に基づくものです。カメラを持たずにいるつもりで見て、最初に見えてきたところに向けてカメラをセットする。撮るために見るのではなくて、身体的な体験を後から撮っている感じです。

光田:動物的とは、ちょっと驚きです。写真を整える意図を避け、自身の体験にカメラを添わせることを「見ないようにする」とおっしゃったのですね。腑に落ちました。

鈴木:目は瞬きをしている以外は開きっぱなしですよね。本当はすべてが見えているはずなのに、何かを見たと感じるのは、そこに意識を介入させてある部分だけを引っ張り出しているからです。レンズも眼球と同じで本当はすべて写っているのですが、“いい写真”を撮ろうと考えると、撮影者の理想に沿う写り方になってしまう。僕もずっと写真をやっているので「これはこう撮ればいいよね」とすぐに判断できてしまうのですが、そうやって撮ってしまうと面白くありません。

光田:サント・ヴィクトワール山に近づいていくところのショットも、道を歩きながら、小さな石に光が当たっている様子や、近くの松の木に当たる細かい光の反射を見ているのだけれど、自分の体はその向こうにそびえる石灰岩の大きな山のことを感じていることが伝わってきて魅力的です。この感覚が鈴木さんのおっしゃる意識の持続なのかなと思えます。印象派の画家たちが、風景の全体や空や背後まで見ていない部分を意識しながら、今見て描いている場所にフォーカスして一筆一筆を描き、時間の中で絵を作り、時間を描き出すことに近いと思いました。


鈴木:実際に一枚の絵を見るときには全体を見ながら、部分を見るしかありません。そこには、当然のことながら見るための順番とか序列が起きてしまいますが、印象派の画家たちは、全体の調和や流れまでコントロールしようとしたのだと思います。

光田:なるほど。

鈴木:モネは揺らぐ光を描こうとしたというより、揺らぎという現象そのものを絵によって表そうとしたように感じます。瞬間を描き続けようとするなんて、面白い挑戦ですよね。

光田:印象派の画家が筆致を面に統合しないで並置して、レイヤーを作ったのは、点の連続を線と考えるのに似ていませんか。時間のなかで描き、動かない絵で瞬間を見せるという矛盾へ挑戦して考えた新しい方法だったと思います。この写真集を出されて、画家について見解が変わったことや感じたことはありましたか?

鈴木:写真の登場以降、画家は絵で何をするべきかを考えていたと思います。彼らがどういう目で風景を見ていたのかに興味があって撮影に行ったので、彼らがこの写真を見てどう思うのか、聞いてみたいですね。連作として描かれる場合もありますが、基本的に画家は一枚の絵にすることを目指します。写真でも、完成した一枚を目指す人もいますが、僕は違います。構図やシャッターチャンスに万全を尽くした一枚を撮らなければいけないとは、もうずいぶん前から全く思っていません。

光田:鈴木さんの写真は大きな一枚で見せるタブロー的作品だと感じることが多く、少し意外です。

鈴木:恐山をテーマにした写真展(1996年「15:10 Osorezan」銀座ニコンサロン)の頃から、シークエンスで見せる作品を作り始めました。本当は8×10で撮りたかったのですが、当時は大判カメラでスナップするように撮ることは難しく、そのアイデアがずっと自分の中にありました。8×10カメラをハンディカメラのようにして撮ったシークエンスを、いつか並べてみたいですね。

光田:そこで見せるのは、持続する時間みたいなことでしょうか?

鈴木:そうですね。写真の並びによって僕の視線の動きを見せる。と同時に、それぞれの写真には大判カメラによるディテールが表れているので、写真を見る人が実際にその風景の中にいて、僕が見ているものとは別のところに目をやるという経験が起こると面白いと思います。

光田:ひとつの写真を作り込むようなことはあまりされませんか?

鈴木:あまりないですね。でも、いまは外に出られないので静物写真もやってみたいなと思っています。画面の中の動きに興味があるので、動かないものが動かないままそこにあるのは撮りづらいですが、難しいからこそやってみたいとは思っています。

光田:確かにこれまでの鈴木さんの写真にはいろいろな動きがあって、揺らぎの要素も感じられます。静物も見てみたいです。外にいけなくなってから制作はされていますか?

鈴木:暗室作業はしています。地方で撮影していて、緊急事態宣言が出てから帰ってきたのですが、それからは撮影には出ていません。散歩しながら街のスナップは撮っています。

光田:世界中を旅していた鈴木さんがどこへもいけなくなったときに、何か違う要因、新しい作品が出てきたらとてもいいですよね。

*本対談は5月22日にスカイプ上で行った。冒頭の写真はその後6月20日にDIC川村記念美術館で撮影された一枚。

*本対談は5月22日にスカイプ上で行った。冒頭の写真はその後6月20日にDIC川村記念美術館で撮影された一枚。


タイトル

『知覚の感光版』

出版社

赤々舎

出版年

2020年4月

価格

8,000円+tax

仕様

ハードカバー/246mm×342mm/112ページ

URL

http://www.akaaka.com/suzuki-risaku.html

鈴木理策|Risaku Suzuki
1963年和歌山県生まれ、87年東京綜合写真専門学校研究科修了。98年、地理的移動と時間的推移の可視化を主題に、東京から自身の故郷への道のりと新宮の御燈祭りを撮影した写真で構成した初の写真集『KUMANO』(光琳社出版)を発表。翌年、《Osorezan》と《Izanami》のふたつからなる『PILES OF TIME』(同)を出版し、2000年に第25回木村伊兵衛写真賞を受賞。一貫して写真のメディア性に対する関心と「見ること」への問題意識を持ち、生地・熊野をはじめ、南仏のサント・ヴィクトワール山やセザンヌのアトリエ、自然の風景、ポートレイト、水面といった様々な対象を被写体としてきた。これまでの主な個展に「意識の流れ」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ほか、香川、2015)、「水鏡」(熊野古道なかへち美術館、和歌山、2016)、「Mirror Portrait」(タカ・イシイギャラリー、東京、2016)、「熊野 雪 桜」(東京都写真美術館、2007)。作品は、サンフランシスコ現代美術館、ヒューストン美術館、東京国立近代美術館、東京都写真美術館、国際交流基金などに収蔵されている。 7月21日-8月8日ニコンプラザ新宿The Galleryで写真展「海と山のあいだ-目とこころ」を開催(8月に大阪に巡回)予定。

光田由里|Yuri Mitsuda
写真と近現代美術史を専門とする美術評論家。現在はDIC川村記念美術館学芸員(2015-)を務める。京都大学文学部を卒業後、富山県立近代美術館(1985-1989)、渋谷区松濤美術館(1989-2013)を経て現職。近年の主な展覧会企画は、『描く、そして現れる―画家が彫刻をつくるとき』(DIC川村記念美術館、2019)、『美術は語られる ―評論家・中原佑介の眼―』(DIC川村記念美術館、2016)、『The New Word to Come 日本の写真と美術の実験』(ジャパン・ソサエティー、グレイ・ギャラリー、ニューヨーク、2015)、渋谷区松濤美術館時代には、『ハイレッドセンター・直接行動の軌跡』(2013-14)、『岡本信治郎 空襲25時』(2011)、『野島康三 作品と資料』(2009)、『中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森』(2008)、『大辻清司の写真 出会いとコラボレーション』(2006)、『合田佐和子 影像』(2003)、『女性の肖像 日本現代美術の顔』(1996)など。著書に日本写真協会学芸賞を受賞した『写真、芸術との界面に 写真史 一九一〇年代−七〇年代』(青弓社、2006)や、『高松次郎 言葉ともの−日本の現代美術1961-72』(水声社、2011)などがある。