25 December 2020

ピーター・ヒューゴの作品を通してSDGsってものを考えてみた

25 December 2020

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ピーター・ヒューゴの作品を通してSDGsってものを考えてみた | Green Point Common, Cape Town, 2013 (from the series KIN)

Green Point Common, Cape Town, 2013(from the series KIN)

2000年初期のデビュー以来、一貫して世界が抱える社会問題と向き合ってきた写真家ピーター・ヒューゴ。人種差別、貧困、略奪、紛争、環境破壊……人間がそれぞれの土地に残酷に刻んできた歴史と現実を巧みな手法で写真に焼き付け、私たちに提示してきた。それは、国連が「SDGs」を国際目標として掲げるずっと前からのことで、私たちの目を覚まさせるに充分なインパクトのある被写体と明快なアプローチで。同じく現代社会の問題を注意深く観察し、明晰雄渾な筆致で切り取ってきた黒鳥社主宰の若林恵は、その活動を見続けてきた一人だ。SDGs、SDGsと呪文のように唱えながらも何から手をつけたらいいか答えどころか糸口さえ見つからない私たちだが、このテキストに立ち戻るべき場所のヒントが見つかるかもしれない。

若林恵=文

ナイーブすぎるとピーター・ヒューゴはいった

2015年にピーター・ヒューゴにインタビューした際に、彼を怒らせてしまったことがある。ある質問をするや、Skypeの画面越しに、みるみる顔を歪め、不機嫌になっていったのを覚えている。そのインタビューを受けて書いた原稿を読み直すと自分はこんなことを聞いたらしい。

「比較的裕福な白人であるあなたが貧しい黒人などを対象にして作品をつくっている。それを搾取とする批判もありうると思うのですが」

もちろん、それが極めて粗雑でデリカシーに欠いた質問であることはわかっていたつもりだ。ただ、ヒューゴが生まれ育った南アフリカの土地を、メディアを経由した情報でしか知らない身としては、そもそも「アフリカの白人」であるということがどういうことであるのかが、どうしてもわからない。自分はその質問のくだらなさは認識していたが、それが実際、どの程度くだらないものなのかを確認したかったのかもしれない。案の定、ヒューゴは質問をこう一蹴した。「ナイーブすぎる」。

映画『ブラッド・ダイアモンド』で、ジェニファー・コネリー扮するリベラルな人権派のジャーナリストが、”ローデシア生まれ”の傭兵であるところのレオナルド・ディカプリオに「甘っちょろい人権談義はよしてくれ。ここはアフリカだ」と一蹴されるようなシーンがたしかあったはずだ。同じように、甘っちょろい日本人のリベラル身振りはあっさりと断罪された。そのことにショックを受けたわけではない。むしろ、そうやって怒られたことにホッとするところもあった。世の中は、そんな簡単には割り切れない。ヒューゴはきっぱりとそう表明した。

War memorial, Springs, 2012

With my son, Jakob Hugo, Natures Valley, 2014

PMCF012_Theresa Makwenya, Carletonville, 2013

Shaun Oliver, Cape Town, 2011

Primrose Mines, Main Reef Road, Germiston, 2012

Danville, 2013

Daniela Beukman, Milnerton, 2013

Thabile Kadeni, Langa, 2013

「KIN」
アフリカで常に過酷な現実と向き合ってきたヒューゴが、我が子の誕生をきっかけに「家」をテーマに、自宅や自分の街、妊娠中の妻や使用人、ホームレスの人びとなどのポートレイトを撮影したシリーズ。美しさと醜さ、富と貧困、パブリックとプライベート、歴史と現実といった対立する要素の全てを写真にとらえることは、今日の南アフリカの複雑な社会の肖像を描くことと同じである。

そのときのインタビューは当時の最新作「KIN」をめぐるものだった。ヒューゴは、自身のサイトで本作についてこう解説している。

「南アフリカは分断された、統合失調症のような、傷ついた、問題のある場所です。植民地主義とアパルトヘイトの傷跡がいまだに深く残っています。人種と文化的管理者の問題は社会のあらゆる側面に浸透しており、強制的に行われた人種隔離の遺産は長い影を落としている。この社会で人はどのように生きていくのだろうか。人はどのように歴史に責任を持ち、どこまで責任を持とうとするのか。このような対立する社会の中で、どうやって家族を育てていくのか。結婚して子供ができるまでは何の問題もなかったはずが、今はもっと混乱しています。

8年ほど前、私は『家/故郷』というもの(それが何を意味するにせよ)を、私的な空間、公的な空間の双方を通して撮影し始めました。家を批判的に見つめることは、自分自身と同胞を見つめることでもあります。それは歴史の重さを感じ、その中で自分が占める空間を考えることです。『親族』との関係を考えることであり、私たちを縛り付け、互いに反発させてしまうような希薄な絆を見つめることでもあります。家とは、帰属と疎外が共存する場所です。

この帰属は私たちを解放してくれるのだろうか、それとも閉じ込めてくれるのだろうか。歴史という恐ろしい重さに縛られているのか、歴史から解放されているのか。

私はこの土地に深く複雑な感情を持っています。8年経っても、これらの問題についてなんの解決を得ることはできていません。どちらかといえば、私はさらに混乱し、自分の『家/故郷』との間にさらに大きな齟齬をきたしています。この作品はこうしたジレンマに取り組むものですが、最終的な答えは何もありません」

「KIN」は8年にわたって故郷のケープタウンを撮影し続けた作品だ。それまで、ルワンダのジェノサイド、ハイエナを連れた薬売りの一座や、勃興するナイジェリアの映画産業の内幕、ガーナのアクラの「パソコンの墓場」など、アフリカの知られざる一断面を鮮やかに切り取った「ポートレイト作品」で世界を驚かせてきた、新時代アフリカを代表する作家は、この「KIN」という作品において、本人も認める通りの大きな混乱に直面することとなる。いや、その言い方は正しくない。彼は、この作品において、アフリカが抱える混乱に真正面から向き合った。

自分のようなものが偉そうに単純化するのはおこがましいとは知りながら、アフリカで「白人」であることの困難のひとつは、植民地支配やアパルトヘイトにおいて加害の主体としての責任を負わされながらも、自分が必ずも、その体制の実行者であったわけでもないというところにあるように思える(アパルトヘイトが撤廃されたときヒューゴは18歳だった)。「人種」や「国家」が背負った加害意識を、個人として咀嚼することには困難がともなう。「人はどのように歴史に責任を持ち、どこまで責任を持とうとするのか」とヒューゴが問うとき、そこには「そもそも人は過去に起きたことの責任を持つことができるのか」という問いが、はっきりと、苛立ち混じりにこめられている。責任があるというなら責任を取るつもりはなくものない。しかし原理的に「責任を取ることが誰にもできない」のだとしたら、人はどうすべきなのか。


Abdullahi Ahmadu with Mainasara, Nigeria, 2005

Abdullahi Mohammed with Mainasara, Ogere-Remo, Nigeria, 2007

Jatto with Mainasara, Ogere-Remo, Nigeria, 2007

Motorbike rider with Amiloo, Nigeria, 2005

Abdullahi Mohammed with Mainasara, Lagos, Nigeria, 2007

Mummy Ahmadu and Mallam Mantari Lamal with Mainasara, Abuja, Nigeria, 2005

「Hyena and Other men」(2005)
牙を剥かないようにマスクや首輪に繋がれ、ペットとして飼いならされたハイエナやヒヒを連れた男たち。ナイジェリアのスラム街にたむろする彼らの多くは、銀行強盗や債権回収、ボディガード、麻薬の売人などで生計を立てていると報道されていたが、実際にヒューゴが出会った彼らは代々、遊牧民として生きるグループで、ハイエナで群衆を楽しませハーブの薬などを販売している大道芸人のような存在であったという。


CLOTHES HANGING, MURAMBI TECHNICAL COLLEGE

MEMORIAL AT A MASS GRAVE IN A LATRINE, NZEGA, GASAKA SECTOR

SURVIVOR VICTOR RUDASINGWA IN THE ARBORETUM, UNIVERSITY OF BUTARE

GRAVE IN A FOREST, MURAMBI VICINITY

KIGALI MEMORIAL CENTRE

「RWANDA: VESTIGES OF A GENOCIDE」(2004)
1994年に起こったルワンダの大量虐殺。10年後に撮影されたこのシリーズは、何千人もの人々の命を奪い、尊厳を踏みにじった想像を絶するこの凄惨な事件の後に、分断された社会がどのように再生していくかと問う。ヒューゴは残虐な事件の痕跡が「法医学的見解を示す証拠」であると同時に「個人的な苦悩の証明してくれることを願う」と語る。

これは、なにもアフリカだけに限った問いではない。

数多くの民族問題や人種間の軋轢の奥底には、こうした問題が横たわっているだろうし、例えば地球環境のような問題についても、私たちは似た困難に向き合わされている。「私たち人類の全員が加害者である」と言うのは簡単だ。そのことを反省することも個々人にはできる。けれども、そこにおいて「責任を取る」ということがあったとしたら、それは一体なにを意味するのだろう。わたしたち一人ひとりは、自分の取った行動に対して責任を負うことはできる。けれども、地球環境がほんとうにめちゃくちゃになっているのだととするなら、その破壊をもたらした行動のほとんどは、過去の人びとがもたらしたものである。わたしたち一人ひとりは、過去の「人類」が犯した過ちの「責任」をいったいどう取りうるのだろう。そもそも、個々人でしかない「わたし」たちが、「人類」という果てしなく茫洋とした概念でしかない主体の「責任」を負うことなどできるのだろうか。

ヒューゴが「KIN」という作品において問題とした「Home」(家/故郷)を、わたしたちはいま、自分自身の問題として考えるべきなのだろう。人種、差別、経済格差、貧困、資本主義経済、環境破壊、といった世界全体を苛んでいる問題は、ヒューゴが、そのキャリアのなかで、その断面を切り取ってきたものだ。そして、複雑にからまりあった複雑にして巨大な問題系は、「KIN」というキャリア史上最も親密な作品のなかで、解決の緒さえ見えない完全なる混乱として描き出されることとなる。

「地球」「人類」「環境」、あるいは「白人」「黒人」「日本人」「アジア人」、あるいは「国家」「経済」「グローバル」「市民」。そうした巨大な名詞を、わたしたちは何気なく使い、それをあたかも現実であるかのように振る舞い、そして、自分自身が負わされたと感じている「責任」をまっとうすべく、自分の生身の生活をそこに接続しようと試みる。しかし、わたしたちの現実の生活のなかに、「地球」や「人類」といったものが実体として姿を表すことは決してない。であればこそ、接続の試みはおそらく徒労が勝る。


Vinkosi Sigwegwe, Cape Town, 2002

Mkhonzemi Welcome Makma, Pietermaritzburg, 2005

Thulani Magwaza, KwaMashu 2005

Regina Kambule, Johannesburg, 2003

Steven Mohapi, Johannesburg, 2003

「Looking Aside」(2004-2005)
アルビノ(先天性白皮症)やアルビノのせいで視力を失った人びと、そして高齢者ら、ヒューゴが「限界に追いやられた人びと」と呼ぶ社会から取り残された弱者を正面から見捉えた、初期のポートレイト作品。

8年にわたって、自分のホームにおける混乱を見極めようと苦闘した結果、「家/故郷」は、ますます自分と折り合いのつかないものになっていったとヒューゴは語る。わたしたちも、おそらくその「折り合いのつかさ」と無縁ではあるまい。ヒューゴの落胆は、わたしたちの落胆でもありうる。

けれども、ヒューゴがそこで提出した写真は、決して痛ましいばかりのものではない。そこには具体的な人や景色しかない。写真には概念は映らない。それを救いと感じるのは、やはりナイーブすぎるだろうか。

ピーター・ヒューゴ|Pieter Hugo
1976年、南アフリカ生まれ。2007年、ハイエナなどと暮らす人々をナイジェリアで撮影した「The Hyena and Other Men」で一躍注目を集め、ノリウッドと呼ばれるナイジェリアの映画産業に焦点を当てた「Nollywood」(2009年)、ガーナの産業廃棄物処理場で働く人々を撮影した「Permanent Error」(2011年)など、社会的視点が含まれたポートレイトは高く評価されている。『Looking Aside』(Punctum)を2006年に発刊して以来、『Permanent Error』(2011、Prestel)『1994』(2017、Prestel)など多数の写真集を刊行。国内外で展覧会を開催しており、パリのポンピドゥセンター、ニューヨーク近代美術館、アムステルダム国立美術館を含む多くの美術機関に作品が所蔵されている。

2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。

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