沖縄県立博物館・美術館で開催中の「石川真生展:醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」では、石川の初期から最新作まで総数約500点が紹介される。一貫して人間にまなざしを向け続け、2014年からは大作「大琉球写真絵巻」に取り組む。石川の写真は人の生と真正面に向かい合い、その作品を通して見る側にまで自分たちがどう生きていくのかを問いかける。47年間のキャリアを経てなお精力的に発表を続ける石川のこれまでとこれからを、旧知の仲であるキュレーターの天野太郎が聞く。
インタビュー=天野太郎
写真=伊波リンダ
構成=IMA
―作品を初期から網羅するような展覧会は今回がはじめてですよね。これまでの石川さんの仕事を知らない人にとっても、作品を知る非常に良い機会だと思います。まずは、どういったきっかけで写真を撮りはじめられたかを聞かせていただけますか?
日本が戦争に負けた。結果、1945~1972年まで、沖縄は大和(ヤマト)から切り離されて、米軍の支配下に置かれた。大和が助かるために沖縄を米軍に人身御供として差し出したのよ。そしてその間に米軍基地だらけの島になった。私は1953年生まれ。私がまだ幼い頃から、「沖縄では米兵による事件事故がすごく多かった。学校の先生たちは、日本に復帰したら沖縄は平和憲法の下に帰って、米軍からの植民地的な仕打ちもなくなって平和になるから一日も早く復帰しましょうね。あなたたちは立派な日本人だから、その自覚を持つように」と教育されてきた。
米軍基地がすべてなくなってから日本に復帰すると思っていたのに、復帰しても基地は残されると知ったのが70年代になった頃。沖縄では激しく抵抗運動が起こった。1971年11月に、当時は1号線と呼ばれていた国道58号線で、大きなデモがあった。車道のど真ん中を民衆が連なって、基地のない沖縄で日本に復帰するんだ、とスローガンを掲げていた。私は高校三年生だったけど、その中の一人として歩いた。やがて、皆がざわめく声が聞こえたので見ると、目の前で一人の機動隊の服を着た男の人が地面に倒れていて、体から煙が出ていた。どうやらデモ隊の中から火炎瓶を投げた人がいて、それが当たったみたい。私は人が死んでいく様を見たのははじめてで、体が固まってしまった。すぐ後ろに仲間の機動隊員が並んでいたけど、彼らも一瞬固まっていた。けれど、我にかえった機動隊員がデモ行進の列になだれ込んできたの。
私はそれを見て必死に逃げた。なんでこんな殺し合いを沖縄人同士がやらなければいけないのか!?そのとき自分は運動家にはなれない、でもこの燃えたぎる沖縄を何かで表現したいと、マジ思ったのよ。当時私は写真クラブに入っていた。自分のカメラを持っていなかったし、授業をサボりたいときに暗室に逃げて時間を潰す幽霊部員だった。それでも写真で表現しようと思ったの。私は写真家になってこの島を表現する、いずれは東京に行って写真を勉強しようと決めた。ドラマチックな物語に聞こえるかもしれないけど、これ、マジな話だから。この理不尽な沖縄を私が撮るんだと決めたの。
―石川さんの写真は、ドキュメンタリー写真だと厳密に決めているわけではありませんよね。それこそ「大琉球写真絵巻」はある意味フィクションです。目の前であったことを撮影していくような写真とはスタイルが少し違うと思います。石川さんにとってはどちらも同じだとは思いますが、創作的なことをやってみようと思ったきっかけはありますか?
よく昔はドキュメンタリーを撮っていたのに、なぜ創作写真を撮るようになったのかと質問されることがあった。私はその区別がはじめから全くないよ。いまはドキュメンタリーを撮っていると思ったこともないし、創作写真を撮っているという意識を持ったこともない。私からいわせたら、自分の感情をもろに出すのではなくて、引いたところで客観的にクールに撮るのがドキュメンタリー。そういう枠に入れるのであれば、私の写真は自分の考えをもろに出しながら、被写体に対する思いも入れるので、ドキュメンタリーとはいえないよ。「日の丸を視る目」というシリーズだって、日の丸の旗を使って、日本人と、日本の国を表現してもらって撮影したけど、創作写真という言葉は私の中にはなかったなー。
「日の丸を視る目」より(1997)
「大琉球写真絵巻」も、琉球王国時代からスタートしたので、想像力をたくましくして、創作するしかなかった。しかし現在に近づくにつれて、生きている人たちが増えてきたので、その人たちに自分の思いや現実を、パフォーマンスを通じて表現してもらうようになった。私が創作をするよりその方が、ずっと真実味があるから。
「大琉球写真絵巻」より(2019)
―ドキュメンタリー写真は、ノンフィクションだと説明されがちです。創作とドキュメンタリーの間にボーダーがあるわけではないことは、とても重要な点だと改めて思いました。個人的な印象ですが石川さんは若いアーティストとコラボレーションしたり、他の表現をする人に対して興味を示されている印象があります。
若い子を育てようなんて気はないわよ。たまたま私がその人たちを知って、作品を見てリスペクトした。これはすごいと思った子しか私は褒めない。それが、吉山森花や、伊波リンダ、石川竜一だったりする。私の評価ではいまのところこの3名だけ。私は正直に、あんたすごいじゃんという。ただ、そうじゃない人には口チャック。なぜなら、将来がある子たちの芽を摘んじゃダメでしょう。ただし、プロになりたいといって私の意見を求める子もいる。そしたら、あんた才能ないからやめたほうがいいよって、はっきりいうわよ。でも私の基準だからほかの人にも聞きなさいね、ともいうわよ。
―今回の展覧会では、石川さんがほかの表現者に対して、どのような距離感を持って付き合われているのかがわかるので、そういった点も重要な見どころだと思います。いま石川さんは「大琉球写真絵巻」で頭がいっぱいですか?他に何かこれをやってみたいということがあれば教えてください。
毎年8月の終わり頃に「大琉球写真絵巻」の展示をしている。今年でパート8になる。制作に大体丸一年かかる。例えば1月から撮影をスタートして、6月に編集をはじめて、8月に展示会をやるの。それが終わったら、9月に体を休めて次の撮影に入る。世の中は切れ目なく変化があって、動いている。私が撮影を続けている人たちも動く。それを追いかけるだけでもとても大変。変化がないものを撮っているのではなく、変化がありすぎるものを撮っているの。このシリーズに関しては興味が尽きるということはないわよ。体が動く間はやるつもりだよ。
まだ表に出せないけれど、もうひとつシリーズを抱えている。なかなか撮りに行く時間がない。刻々と政治的な動きがあって、宮古にせよ、石垣にせよ、与那国にせよ、島の人たちが、陸上自衛隊のミサイル基地建設を勝手に進められて、非常に大変な目にあっている。見のがすわけにはいかない!
―琉球王国時代の本島と、いま名前が上がった宮古島、石垣島、与那国島の関係は現在にも影響しているのでしょうか?
首里王朝は人頭税などを課してずっと島の人たちを苦しめていた。元々独立していた島々を首里王朝が征服してどんどん琉球に入れていった。一昨年の10月頃に首里城が燃え、たくさんの寄付金が集まったニュースを見たときに、島々の人たちは何を思ったか、知りたいと思った。自衛隊の取材と並行してその話も聞いた。そしたら私が会った10人が10人中全く同じことをいっていた。「もちろん首里城が燃えたことに対して、大変なことになっていると思う。そう思いはするけれども、首里王朝時代の圧政や差別がいまでも形を変えて残っている。自分たちは本島と呼ばない。沖縄島と呼んでいる。大変だな、とは思うが、悲しいとは思わない」と、クールな答えが返ってきた。私は沖縄島で生まれたから、ショックだった。彼らは沖縄島、宮古島、石垣島、与那国島と呼んでいる。
自分たちは離島ではないと、すごくプライドを持っている。独立していたのに、圧政で無理やり入れられたから本島ではなく沖縄島と呼ぶ。それを知ってからは、私は私の島を沖縄島と意識的にいうようになった。
―単純に沖縄イコール本島ではないことを、特に我々大和の人間はしっかり頭に放り込んでおく必要を強く感じました。石川さんからこの展覧会に来られる方に対してのメッセージはありますか?
今回の展示のために美術館の学芸員、亀海史明さんが、我が家にあった作品を全部整理整頓して見せてくれた。作品を一堂に見せられたときに、47年間にこんなにいろいろなテーマの写真を撮ってきたんだ、と自分で感心した。私は人の人生ほどおもしろいものはないと思って、人の生活や生き様を撮ってきた。
例えば自衛隊を追いかけて撮ったものもある。それからフィリピン人ダンサーを撮ったものもある。黒人が集う外人バーで働いている人たちを撮ったものもある。それから、名護市辺野古の米軍基地、キャンプ・シュワブの沿岸部に新たな基地を造るという、いまでもとんでもなく金を注ぎ込んでいる新基地建設問題がある。その頃、私と私の母親がほとんど同じ時期に癌になった。私は人工肛門になったので自分の人工肛門を撮ったどぎつい写真も出している。母親の入院があまりにも長すぎて足が鳥の手羽先みたいに「く」の字に曲がった、しかも片方の胸を乳がんで摘出して大きなガーゼを貼っている。本当に情けない格好をしている。そんな母親を説得して撮った写真もある。説得というか、もはや強制的に撮ったものだ。母親が亡くなった。先に亡くなった父親と一緒の遺影の写真もある。それから、自分の孫たちと一緒の写真もある。辺野古と隣り合わせで米軍の基地があるけど、その浜辺で撮った「フェンスにFuck You!!」というシリーズもある。そんな15テーマを今回展示している。私は自分自身で、ここまでバラエティに富んだ写真を撮っている人はあまりいないだろうと思っている。
そして継続して撮り続けている人は、さらに少ないと思っている。しかも、私の情熱は枯れることはなくてずっと続いている。休んだのは出産や入院など限られたときだけ。あとはいつも撮っている。今回の展示のサブタイトルでもある、「醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」。人間はいいことも悪いこともしている。私も人にいっぱい悪いことをしている。結果的に悪いことをした。けれど、いいこともしている。どっちもあるのが人間だよ。でもそれもひっくるめて私は人間が好きなの。人間しか撮らない。青い海も青い空も私は撮らない。それほどいろいろな人生、物語が、政治が、この小さな島で動いている。興味は尽きない。それがこの展示に表れているので、ぜひ見て欲しいです。
あとこんな電話帳みたいな分厚い図録・写真集も出版された。表紙の写真はこれを使って。色は赤にしてね、ということ以外はデザイナーにお任せした。町口景さんのデザインをすっごく気にいったし、松本知己さんがやっている出版社が大好きだったから、決めて本当に正解だったと思う。展示に来られない人はこの本を買って欲しいな。私はいつくたばるか分からないけど、本を残せたからすっごく嬉しいです(笑)。
タイトル | |
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会期 | 2021年3月5日(金)〜 |
会場 | 沖縄県立博物館・美術館(沖縄県) |
時間 | 9:00~18:00(金土曜は20:00まで/入場は閉館の30分前まで) |
休館日 | 月曜(月曜が祝祭日の場合は開館し、翌平日が閉館)、5月23日(日)~臨時休館 |
観覧料 | 【一般】1,200円【高校・大学生】800円【中学生以下】無料【フリーパス】2,400円 |
URL |
タイトル | 『醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。』 |
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出版社 | |
発行年 | 2021年 |
価格 | 3,960円 |
仕様 | ソフトカバー/210mm×298mm/408ページ |
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石川真生|Mao Ishikawa
1953年、沖縄県大宜味村生まれ。1974年、WORKSHOP写真学校東松照明教室で写真を学ぶ。沖縄を拠点に制作活動を続け、沖縄をめぐる人物を中心に、人々に密着した作品を発表し続けている写真家。2011年、『FENCES, OKINAWA』でさがみはら写真賞を受賞。日本国内のほか、メトロポリタン美術館(アメリカ)など海外の美術館にも作品が収蔵されている。2019年、日本写真協会賞作家賞を受賞。