「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」が東京オペラシティ アートギャラリーで12月18日(日)まで開催中の川内倫子。本展は川内にとって国内における6年ぶりの大規模個展であり、この10年の活動に焦点をあて、新作シリーズ「M/E」をはじめ、日本初公開となるシリーズ「4%」、新作を含む「An interlinking」など、写真作品と映像作品とを織り混ぜながら構成されている。ここでは川内にフィーチャーし特集を組んだ『IMA』vol.29で行ったロングインタヴューを転載。特集号の撮り下ろしのためにアイスランドを訪れたことをきっかけに「M/E」シリーズが始まったが、このインタビューはアイスランドを訪れる前に収録されており、それまでのキャリアを振り返りながら川内の制作の変遷を辿ることができる。日常の生活から宇宙まで、世界に対して真摯に想いを馳せてきた彼女が、自らの制作のすべてを語った。
インタヴュー・文=若山満大
写真=髙橋恭司
自分らしい写真と出会うまで、プロローグとしての90年代
1972年、川内倫子は滋賀県に生を受かる。4歳で滋賀を離れ、家族とともに大阪へ移った。引っ越した日、日が傾いてもみんな帰ろうとしなかった。「ねえ、帰らんへんの?」と尋ねると「今日からここに住むんやで」といわれた。そのときのショックを、川内はいまもはっきりと覚えているという。もう、帰れない。そこから始まった。
学校はまったく好きではなかった。人並みに勉強して部活動にも打ち込んだが、やはり息苦しさを感じずにはいられなかったという。そんな川内がアートと出会うのは、成安女子短期大学(現・成安造形大学)に入学した1991年のことだった。大学ではグラフィックデザインを専攻した。「作品を作って生活できたらいいなと思ったけど、難しいだろうなと半ば諦めていましたね。デザイナーになりたいわけではなかったのですが、グラフィックデザイン学科なら、どこかの会社に就職できるかなと思って。家族が経済的に苦労していましたから、早く独り立ちしたいという思いが強かったのもあります。でも、やっと好きなことが勉強できてうれしかったですよ。ずっと美術の授業だったらいいのにって思っていましたから。短大だから経験できることは限られていましたが、広く浅く、いろいろと興味があることに授業で触れられたことはよかったです」。
グラフィックデザイン、映像、竹工芸、シルクスクリーンなど、さまざまなメディアに触れる中で、写真と出会う。1993年、短大を卒業して入社したのは大阪の広告制作会社だった。カメラの使い方やライティングなど写真の基礎をアシスタント業務の中で学びながら、作品の制作を続けたという。「模索していましたね。どうやったら人に見せられる作品ができるのか。会社の暗室を自分のアトリエみたいに使わせてもらっていました。土日はだいたいそこにこもって、ずっと制作をして」。しかし、勤め始めて一年が経つ頃、バブル崩壊の余波を受けて会社の写真部は解散。フリーランスへの転向を余儀なくされた。大阪から東京に移り、レンタルスタジオに入社。公募展に出すことをモチベーションに制作を続け、日々撮りためた作品はポートフォリオとしてブックにまとめていった。
©︎ 髙橋恭司
1990年代初頭は「写真新世紀」「ひとつぼ展」「アーバナート展」といった若手写真家を対象にした公募展が相次いで新設された時期でもあった。「まだ私が学生の頃、茂木綾子さんやオノデラユキさんが写真新世紀で受賞されたのは印象的で覚えています。その当時は長島有里枝さんがPARCOのアーバナート#2でパルコ賞を獲ったり、HIROMIXさんや蜷川実花さんが活躍し始めていましたね」。同世代として、同じ女性として、彼女らの活躍を気にする一方で、ファッション誌やカルチャー誌を飾る髙橋恭司やホンマタカシの写真にも影響を受けた。雑誌をめくった時、クレジットを見なくても誰が撮ったかわかるような写真。こんなふうに自分の個性を表現したいと思ったという。川内が愛機のローライフレックスを使い始めたのは、1996年のことだった。シャッター音の小ささ、粒状性が高いブローニーフィルム、頭を垂れるので撮影していても写真を撮ってることが気づかれにくい。すべてがしっくりきた。それまでモノクロしか撮っていなかった川内がカラー写真をはじめたのは、やはり髙橋らの影響が大きかった。ニューカラーの流れを90年代の日本に接続した彼らの写真から、川内はカラープリントのテクスチャーや操作の自由度を知った。一方、色使いやトーンで個性を表現できなければ、作家として頭抜けた存在にはなれないことも理解していた。川内の代名詞的なスタイル――空気の層をまとったような淡い色彩、心地よい湿度を伴った質感はこの頃に見つけたものだ。「いいのか悪いのかわからないけど、自分らしいものができたかもしれない」と思って応募した1997年の第9回ひとつぼ展では、「うたたね」シリーズでグランプリを獲得した。しかし、思っていたほど自分を取り巻く状況は変わらなかった。一度個展を開催しても、次が続かない。「これでは作家といえないんじゃないかと悩みました。 雑誌への持ち込みを続けたり、ひとつぼ展の審査員だったアートディレクターの浅葉克己さんから依頼をいただいたりして仕事は徐々に増えていったんですが、自分が進んでいる方向には違和感がありましたね。やはり写真集を出さないとダメだなって」。川内が3冊の写真集を同時出版してセンセーショナルな活躍を見せるのは、ここからさらに4年後のことだった。
©︎ 髙橋恭司
世界はいつも曖昧で、日常はいつも新しい
2001年、川内は『うたたね』『花火』『花子』の3部作を同時に発表した。『うたたね』の撮影期間は足掛け5年。膨大なプリントを、入稿する朝まで毎日のように入れ替えながらシークエンスを構成していった。「タイトルにはいろんな意味があります。まず、一見脈絡がないんだけど、どこかでつながっているイメージの関係性をわかりやすく一言で表現したかったんです。自分が社会的にも経済的にも不安定な立場にあったことも、言葉の選択に大きく影響していると思いますね。写真も、自分自身も、宙吊りな感じ。実際、私には世界がこんなふうに見えていました。それは比喩ではなく、単に視力が悪いから。クリアじゃない世界を見ていた私にとって、このトーンはちょうどいいんです。はっきりとは認識できない、中間的なゾーンの存在を写真で示唆したいという気持ちもありましたね」。
“日常”という言葉は、『うたたね』のみならず、いまや川内作品全体を評する常套句になっている。「違うのに、とずっと思ってきました。日常にある、身近な被写体が多いから、そう言われるんでしょうけど。自分としては何を撮ったかはそんなに重要ではないんですよね。一枚の意味よりも、構成から見えてくるもののほうが大事というか。そういう意味で、抽象を撮っているという認識です」。何がどう写っているかという尺度で見れば、『うたたね』の写真は決して珍しくない「日常」の羅列に見える。しかし川内は逆に、ものを「日常」という枠から解き放とうと試みている。被写体が意味に回収されることを避けるために、川内はシークエンスを操作して、あらぬ関係性の中に写真を放り込む。そこに現れるのは見覚えのある、しかし名指しがたいものだ。ゆえに彼女が撮った「日常」は、いつも新しい。
〈花火〉2001年
もうひとつの写真集『花火』は、ひとつの被写体に集中したいという川内の、いわく「スポ根的」ストイックさの産物である。ひとつの被写体と向かい合うとはどういうことか? 花火が上がり、弾け飛ぶその刹那は、向かい合うというにはあまりに短すぎる時間だ。川内が写真に収めたいのは、花火そのものの造形的な美ではない。それを見ている人や場の空気を写真にしたかったと彼女は言う。人と人工物と自然が作り出す状況、いわば花火という環境を撮ろうとした。4年の歳月を費やしたが、撮れたという実感を得るまでには3年を要した。ある環境に没入し、自分が動いてみる。それが彼女なりの花火への向き合い方だった。その躍動や偶然性を写真に呼び込むことで、花火という環境の一回性、固有性が鮮明に現れてくる。彼女は花火を称して、決定的な瞬間であると同時に儚さの象徴であるという。現在の仕事にまで影響する彼女の無常へのまなざしは、すでに本作の中にはっきりと見ることができる。そして、儚さという概念によって花火と『花子』がリンクする。「今村花子さんというひとりの女の子を撮りました。彼女はより自然に近い振る舞いをする人というか、作為がない人でした。いわゆるマイノリティであり、社会的に弱い存在ですが、彼女は全くてらいなく生きています。私の中で彼女は、ほかの二作の被写体と同一線上にいます。あまり作品として人の顔を撮ることはないのですが、そういう意味でもほかの二作でできなかったことができましたね」。さまざまな写真の態を表現した三部作は、川内の表現の基点となった。すべて吐き出した。だから次にいけたと彼女は言う。2002年、『うたたね』『花火』の二作は第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した。
めぐる生命、大いなる循環、世界の謎
2004年、川内は4年を費やした写真集『AILA』を出版した。生き物が生まれ、死んでいくこと。そのサイクルへのまなざしを具現化した1冊。撮影のフィールドは海外にまで広がっていた。「当時『AILA』の展示を見てくれた糸井重里さんから、『川内さんは足で写真を撮る人だね』と言われたとギャラリー担当者から聞いたのが印象に残っています。確かに、その通りかもしれません。ボタンひとつで写真が撮れてしまうこととか、簡単にシャッターを切ってしまうことに、ずっと後ろめたさのようなものを感じてきました。その負い目をなるべく感じないように、身体を動かしてきたんだと思います。いまは当時ほど罪悪感みたいなものは感じなくなりましたけど、以前よりも遠くへ撮影に行くことが増えました。それって結局一緒なのかな(笑)。体を動かすからこそ、つながっていくことがあるんです。やる気が起きない中で始めたプリント作業も、だんだんと頭がスッキリしてきたり。撮影のときも動いているうちに体と周囲がリンクしてくる。体を動かすことは、私にとって制作のキーなんです」。
『AILA』の制作とほぼ同じ時期、祖父が亡くなり、甥っ子が生まれた。ここで川内は初めて家族の入れ替わりを経験することになった。「こんな身近なところに命のサイクルがあったんだと気づいたときは、頭を殴られたような気がしました。世の中の人はみんなこれを経験しているんだと思うと、大変だなって。痛烈に実感したというか。人類って、こうやって成り立っているんだって気づかされました。自然界の循環をテーマに『AILA』を撮ったんですが、自分の家族の中でも、それは起こるんだって。当然のことなんですけど、その気づきがかたちになったのが『Cui Cui』なんだと思います」。
不安定で不鮮明な世界、そこで日々繰り返される生態系の循環。2011年に発表した写真集『Illuminance』は、『うたたね』からの10年間、川内が見つめてきた主題をすべて集約した一冊だといえる。作家活動のメルクマールとなったこの写真集は、世界5カ国で出版され、彼女の国際的な評価を確かなものにした。ここから彼女は新しいモチーフへと関心を移し、制作を次のフェーズへと進めていく。
2013年に発表された『あめつち』は、川内が阿蘇の山を夢で見たことに始まる。その夢と全く同じ景色が、ある日テレビに映し出された。このデジャヴをきっかけに、数年前から関心があった阿蘇の野焼きへのアプローチが始まった。「『花火』のときのように、ひとつの被写体、ひとつの場所と向かい合いたいという思いがありました。わざわざ4×5を担いで阿蘇まで行ったのは、やはり簡単に作れてはダメな気がしたから。普段使っているローライも速写できないという意味で、撮るのが難しいカメラです。そうやって自分に何かを課すことで、罪悪感を払拭しようとしたんじゃないかな。目の前の物事に対して、自分の持っている何かを捧げているような、そんな感じがないとなんだか後ろめたい」。阿蘇の野焼き、銀鏡神楽(しろみかぐら)、エルサレムの嘆きの壁。共通するのは「捧げる」行為だという。野焼きは死の表象であり、同時に再生の表象でもある。冬至の日に奉納される神楽もまた、一年で最も長く闇に包まれる日を基点として、再生を言祝(ことほ)ぐ行事である。そこには循環という構造がある。それは『AILA』以前から川内が追いかけてきたテーマだ。「循環という構造に惹かれるのは、今生が終点ではないと思えるからです。それはある種の信仰に近いものなんでしょうけど。死んだらおしまいって思うの、なんだか寂しいじゃないですか。それに生まれてきた理由とか、後生の予兆みたいなものとか、循環が起こっていないと説明がつきそうもないことっていろいろあるし。もちろん信じる信じないは人それぞれ自由だと思いますが、私はそう考えた方が腑に落ちるんですよね。野焼きのような、人類史の中で長く継承されてきた行為に、循環の構造が見られることは重要だと思います。自分の意志とは関係なく細胞が入れ替わり、日々生かされていること、その大きな謎の答えが隠れているような気がして。別に確信があるわけじゃないんです。でも、そこに自分という存在にまつわる秘密があると思っています」。しかし、野焼きにせよ神楽にせよ、撮影の前に循環というテーマが先立っていたわけではない。無意識に惹かれていった先に野焼きがあり、神楽があり、それらを知っていくうちに、循環という大きな流れに遭遇した。自分が追いかけていたテーマが、被写体の先に思いがけず見えた瞬間。それはまるで答え合わせのようだったと彼女はいう。
そしてもうひとつ、彼女に強い衝撃を与えたのが嘆きの壁だった。敬虔なユダヤ教徒たちは毎日この壁に祈りを捧げる。言うまでもなくエルサレムは、信仰をめぐる人類の諍(いさか)い、その困難と混沌を象徴する場所である。壁の向こうに思いを馳せても、壁は「ある」。解消できないものが確かに存在している。しかし、なおもって人は祈ることでそれを超越しようとする。壁に向かって祈るという行為、その光景の強度に川内は惹かれたという。ここにおいて彼女の視線は、2000年の時をまたぎ、国境を超えて、人類学的なスケールへと展開する。
「千年という長いレンジで世界を眺めることは、それまでできていなかったことのひとつでした。その時間の重さを感じたいと思ったんです。天地(あめつち)、つまり自然に対する畏れみたいなものをちゃんと持っておきたかった。三つの被写体の先に、私たちのいる世界が象徴化されて見えてくる気がしたんです」
宇宙から自分自身を見下ろして
2016年、川内は出産を経験した。特筆すべきライフイベントではあるものの、それが作家性に影響を与えたことはなかったという。すでに生死のサイクルへとまなざしを向けていた彼女にとっては、決して劇的な出来事ではなかった。ただ、子育てをする以上、否応なく制作の時間は限られていく。海外出張も、家族そろって行くのが恒例となった。その点から言えば、新しい生命の誕生は、彼女の生活に確かな影響を与えた。そして、確実に老いに向かって歩む彼女自身を浮き彫りにした。「いつ自分の体が動かなくなるのか。そう考えると怖いですよね。年を取れば、少なくともいまのようには撮れなくなるわけで。足が動かなくなったとき、自分の精神がどういう状態にあるのか、正直いまの自分には想像もつきません。いずれ訪れるそのときに、いまとは違った面白い景色が目の前に広がっていると信じたいですが」。そう話す川内の行動範囲と意識は、しかしさらに広く、遠くへと拡張されている。2017年に発表した『Halo』ではイギリス・中国・日本を結びながら、『あめつち』よりも一層高い次元から世界を俯瞰しようと試みた。2010年、川内はイギリスのブライトンを訪れた際、マーマレーションという現象に出会った。おびただしい数の鳥による群舞。黒く大きな塊がうねるように空を旋回する。小さな鳥たちを包む全体があり、大きな群れを動かす個体がある。生態系と生命の関係を象徴するようだった。「同じ被写体をずっと追いかけるのが倫子のいいところだよね、とマーティン・パーに言われました。ブライトンでのコミッションワークが終わってからも、毎年イギリスに再訪して鳥を撮影し続けていましたから」。
〈Halo〉2017年
超常的なビジュアルを伴って現れる神秘性への関心は、川内の足をさらに中国へと向かわせた。2012年、彼女は河北省山岳地帯にある核桃園村の伝統的行事「打樹花(だーすーふぁ)」を取材した。マイナス20度の屋外で、蓑をかぶった男たちが1600度の溶鉄を柄杓ですくい、石の壁に打ち付けている。真っ赤な溶鉄が宵闇の中で弾け飛び、無数の火花の軌跡が放物線を描きながら地面に消えていく。ある種の暴力性と美しさ、それゆえの祝祭性がある。「Halo」とは、暈(かさ)という大気光学現象、または銀河系を包むように存在する球状の領域を指す言葉である。大気中の氷晶が光を屈折させることで、太陽や月の周りに光の輪(暈)ができる。宇宙から地上へと降り注ぐ光の軌跡が、神秘的な造形を伴って可視化される。この写真集で示された川内の視野は余りにも広い。地球の表面を舐めるように移動する自分を俯瞰的視座から想像する時、宇宙というスケールが感じられると彼女はいう。その視点は地球から渦巻銀河へと飛躍した。
©︎ 髙橋恭司
「世界の謎に触れたいと思っています。少なからず、人はそれぞれの方法でそこにアプローチしていますよね。自分は写真という媒体を使ってそれにどこまで近づけるのか、挑戦しているつもりです」。世界と自分を貫くものを彼女は探している。それは卑近な生活の場から、宇宙の端っこまで、例外なく説明できる普遍的な理とも言い換えられる。世界が、私たちの理解を超えて、開く瞬間に立ち会うために彼女は写真を撮るのだろう。ローライフレックスを構える彼女は、世界に対して頭を垂れ、その現れを恭しく掌(てのひら)で受け止めている。
©︎ 髙橋恭司
川内倫子|Rinko Kawauchi
1972年、滋賀県生まれ。2002年に『うたたね』『花火』で第27回木村伊兵衛写真賞受賞。2009年に第25回ICPインフィニティ・アワード芸術部門を受賞するなど、国際的にも高い評価を受け、国内外で数多くの展覧会を行う。主な著作に『Illuminance』(2011年)、『あめつち』(2013年)、『Halo』(2017年)など。近刊に写真集『Des oiseaux』『Illuminance: The Tenth Anniversary Edition』『やまなみ』『橙が実るまで』(田尻久子との共著)がある。2022年10月8日より東京オペラシティ アートギャラリーで個展「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」を開催(2023年1月に滋賀県立美術館に巡回)。
タイトル | |
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会期 | 2022年10月8日(土)~12月18日(日) |
会場 | 東京オペラシティ アートギャラリー(東京都) |
時間 | 11:00~19:00(最終入場は閉館30分前まで) |
休館日 | 月曜(祝日の場合は翌平日) |
料金 | 【一般】1,200円【大・高生】800円【中学生以下】無料*障害者手帳をお持ちの方および付添1名は無料/割引の併用および入場料の払い戻しは不可 |
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