筆者はスマートフォンを所持せず、ポイントカードのポイントも使わない。という主義で生きているのだが、スマホに対して病的な悪意があるわけではない。あれがいかに便利で(というか、もはやスマホに特別高い利便性を瑞々しく感じているユーザーはさほどいないと思うが)、シンプルに「いいなあ。スマホ持ってて」と思う点はいくらもある。その最大のものが動/静止画用の、つまりカメラ機能である。ある意味、それによって筆者は、それまで熱狂していた動画や静止画の撮影を、やめてしまった節さえ否定できない。
筆者はあと数ヶ月で還暦を迎える音楽家で、つまり、この世にアセテート盤以降の、ビニール盤レコードが一般的になってから生まれ、19歳で「CD」が生まれ(同時に「ウォークマン」も生まれ)、「CD」があらゆるトライ&エラーを終え幾星霜、現在の「イヤホン各社性能上げ比べ」の世界を生きているのだが、何せ筆者をして“世界が変わった”とまで思わせしめた画期的な新製品が「CD」である。
まだエンドユーザーたる市民が、解像度だのイコライジングの機能だの、ノイズキャンセリングだの、エフェクトあれやこれや等々、つまりスペックについて、数値に還元できるレベルで理解し、選択する。という時代ではなく、新しいギアに魔法が悠々と宿っていた時代の産物である「CD」は、「あらゆるノイズが生じない、真空状態での再生」「50年代のジャズのレコードをCDで聴くと、ドラムスがスティックからブラッシュに持ち替える、ごくごく小さな“カキャ”という音まで聴こえる」、果ては「聴くだけで頭痛が取れる」「聴くだけで聴覚器官の一部が解放され、耳がよくなる」と、まるで新興宗教のグッズのようなもてはやされる熱狂の中、という、ニューギアの黄金時代を生きた筆者も、特にジャズのスタジオ録音盤など「録音スタジオにいるようだ」と真剣に思ったほどである。(一番フレッシュで、舞い上がるような非現実感があったのは、最初のプレイだったが)
前述、撮影行為に耽溺していた筆者は、肩で担ぐぐらいの大きさだった時代の8ミリヴィデオから、デジタルカメラ、デジタルヴィデオと称される旧世代ギアのほとんどを買い漁った(その熱量は、自らの性行為を録画するためという、最もプリミティヴな源泉から発せられていたのは言うまでもないが)。
その結果、「いやあもうスマホの動画と静止画は別格」と、<誰もがスペック判断を数値にまで簡単に落とし込め、知れる時代>に、敢えてまだ魔法を求めている。というのが最も自意識の説明として的確だろうと思う。スマホで撮影された写真を見ているだけで、目が良くなる気がする。本稿とは直接的な関係はないが、人類は、革新的なニューギアを前に、目や耳が、良くなったり悪くなったりすると思いたがる生き物なのであろう。
さて、水谷吉法の作家性、並びに本作の性質、は、テクノロジーと芸術の相互発達史を鑑みるに、自明に近い必然性を持つ。つまり、水谷は、“Tumble世代”という、やや懐かしい単語で括られる写真家で、その「写真」の物質性は、SNSの中で共有、交換、投稿を円環する、いわゆるアレであって、本作は「それを敢えて『写真集』という古いメディアに落とし込むと」という実験の結果で、これは巻末の解説の孫引きだが、現代人であればーースマホを所有しない筆者のような<現代人>であろうとーー解説を読む前から理解できる。
水谷の写真は、広告写真や手書きイラストレーションの解像度が極端に上がった、最初期の「スーパーリアリズム」を連想させるが、これはもう、万人がスマホを持ち、機能をフルに使いながらアマチュアとプロの彼岸を超えたSNS写真家と化している現在、当然のクオリティなのである。
<敢えての写真集>である本作は、タイトル通り、色彩をテーマにしているが、強い単色に異物のように散りばめられた異色の面白さ、のバリエーションをAIがSNSの宇宙から選択したようなものだ。そのセンス、ユーモア、クオリティ、離散してしまわないよう、同一性を保った範囲でのヴァリエーションは文句の付け所がなく、ずっと見ていられる。それはスマホの画面のように。
筆者の世代はフューチュアリズムこそが芸術の意義だと考える悪癖があるが、水谷の写真は、良い意味で未来的ではなく、寄る辺ないほど現代感がある。しかし、これに音楽をペアリングし、最も大きく、かつ安定した効果を生み出すにはどうしたら良いだろうか?
疑問形で段落を終わらせたのはいささか大袈裟に過ぎた。実際は、手渡された実物を数ページめくって回答は出たのである。これはヴェイパーウエイヴだ。
ヴェイパーウエイヴは音楽の用語で、逐語訳すれば「蒸気波」となるが、70年代後半から80年代いっぱいに制作された、「心地よい音楽」、それはフュージョン、AOR、シティ、等々の、プラスティックでアーバンなライフサイズミュージックの再評価のことで、特に海外のDJが、我が国のエイティーズR&B、シティ、フュージョン等々、生活BGMとアーティスト性の間に立つあらゆる「心地よい音楽」を元ネタとして買い漁る姿は、アジアの富裕層が、本鮪に見せていたトレジャーハンターのような欲望を思わせるほどである。
前半、音楽機材の、再生用の話ばかりしたが、制作用のギアも、凄まじい勢いで進歩している。そしてそれは、筆者のような現代人が魔術として崇めている現在性、すなわちスマホ写真と加工技術に酷似している。
それによって、どんな音楽を作ろうと、そのルーツはヴェイパーウエイヴに近ずいてゆくのだ。ギアの発展に、20世紀の反省を生かした公害排出ゼロを係数に加えれば、「新しい機材の、新しい機能を使った音楽」「ネット空間に発表され、半ば共有される音楽」は「気持ちの良い=生活空間に置きっぱなしにできる」音楽になるしかないのである。
新音楽制作工房の工房員であると同時に、創世記よりも遥かにヴェイパーウエイヴ寄りにサウンドを移行している、我が国の現役ドラムンベースDJの中でも優秀な1人であるHizuruの『Quintuplet Beat』は、一聴するだに「いえー」「気持ちいいね」という、蒸気波をあなたに発生させ、本作とのペアリングはもうバッチリ。である。
しかしそこには「なんかノリが新しいね」「未来的だけど懐かしい」といった感覚も去来しているであろう。タイトルにある“Quintuplet”とは“五連符”つまり、5個をひとまとまりにした音符=「1拍を5等分した音符」のことであり、我々はかなりの長きにわたって、音楽の中の時間を4(と、若干の3)等分にして来たけれども、5等分は数学的に見ても、こうしてグルーヴフィールから聴き取っても自然で最高な気分なのに、諸般の事情により、実行されなかったことで、即ち、音楽制作のギアの中に、長らく装備されなかったものだ。そしてそれさえも今は、スマホのカメラ機能に搭載される解像度やあらゆる機能と同じように、汎用機種に実装されているのである。五連は四連よりも時間内の解像度が高いことは言うまでもないだろう。
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家・文筆家・大学講師。音楽家としては作曲、アレンジ、バンドリーダー、プロデュースをこなすサキソフォン奏者、シンガー、キーボーディスト、ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり音楽、映画、モード、格闘技などの文化批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々出演多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。著書に『次の東京オリンピックが来てしまう前に』『東京大学のアルバート・アイラー』『服は何故音楽を必要とするのか?』など。