ホンマタカシの現在地を掘り下げた『IMA vol.40』より、カナダ建築センターのディレクターであるジョバンナ・ボラジのエッセイを転載する。ホンマの代名詞でもある「ニュードキュメンタリー」というキーワードを軸に建築写真の側面からホンマ写真をひもとく。
テキスト=ジョアンナ・ボラジ
ホンマは自身の作品を「ニュードキュメンタリー(1)」と形容する。
彼は目の前にあるものをストレートに、そして誇張なくとらえ、彼の言葉を借りれば、自分が見たものをそのまま撮影している。そんな彼自身は、「ニュー」という多義的かつありふれた言葉に何を見出しているのだろう? 私はそのことについて考えてきた。さまざまな意味が込められているのだろうが、何よりもまず、彼は見ているものに対して直接的ではない方法で向き合おうとしている点が挙げられる。(キノコ、波、東京や人々のポートレイトと共に)(2)建築はホンマにとってライフワークとして撮影し続けているモチーフのひとつだが、ほかの写真家が建築を記録する際に採用してきた、真正面からの撮影という伝統的な手法を用いることはない。彼は間接的に、迂回するように、その中やその周辺に存在する「生」を通して、建築物の形態、そこに生じる力学、そしてその価値を写し取る。
ジェフリー・バワが設計したスリランカのホテル、ヘリタンス・アフンガッラ(旧トリトン・ホテル)で撮影されたホンマの短編映像『In a Morning』(3)において、私たちはバワ建築の空間、そして物質性を、ホテルの内外を早朝、効率よく丁寧に掃除するホテルスタッフの動きを通して見出してゆく。実際の音もそのまま収録されており、私たちは(約4分20秒の映像の中盤と最後に映し出されるビーチを目にするよりずっと前に)施設と海の近さを理解することができ、また、ホテルが建つ熱帯の自然環境を感じることができる。地面に落ちた花を拾う人々を見れば、その場の匂いを想像する。美しく磨かれたセメントの床を裸足で滑るように歩く従業員たちを見れば、床の冷たさを感じる。多くの柱の土台にバワが黒を選んだことで、私たちは柱に使われたさまざまな色の美しさに気づく……。そこにあるのはバワの建築だが、単独で成り立っているわけではない。私たちは、こう考えるかもしれない。これは波、犬、鳥、木々や花々、そして労働についての映像であり、バワの建築は背景としてそこにあっただけ、あるいはそのほかの事象をつなぎ留める場として機能しているのではないか、と。
《High Court Portico, Chandigarh, India》©︎ Takashi Homma
同様に、CCA(カナダ建築センター)からのコミッションを受けて、ル・コルビュジエによるチャンディーガルの高等裁判所をホンマが撮影した《High Court Portico, Chandigarh, India》(4)において、私たちはその建物全体を見ることはない。その代わり、建物のごく一部を見ることで、その機能やそれが体現する権力を感じることができる。カラフルな壁面と、フォーマルな黒い衣服に身を包んだ裁判官や弁護士たちの姿は対照的だが、休憩中の彼らは建物の外で同僚とおしゃべりをし、笑い合い、自分の髭をいじったりしている。映像は政府機関の主要建築物を、高圧的な存在としてありがちな描写を行うのではなく、それとは全く異なる、とても人間的な側面を映し出す。私たちは、荒々しいコンクリートが剥き出しの空虚な建築物を見せられるのではなく、その建築の内外が実際どのように使われているのか知ることができる。さらに、その場で実際に聞こえてくる環境音ではなく、インドのポップソングを取り入れることで、建築や衣装、執り行われる儀式の高尚さと、その空間を舞台にそれぞれの役を演じる人々の人間臭さの対比が強く意識される。
ホンマのいう「ニュー」は、より人間的な新しいものの見方を示しているのではないかと私は考える。それに彼は、自分が見ているものをそのままに撮影することで、同じようにそれを見るよう私たちを促す。
写真集としても刊行された過去のシリーズ〈Tokyo and My Daughter〉でも、その手法は顕著だ。建築物、街の風景(東京)と娘(実際は友人の娘)をとらえた個々の写真は、その街の生と、そして何よりもそこに住む子どもの生を想起させるイメージの連続に組み込まれている。私たちは、そこに写るものが彼女の人生の背景であり文脈であると想像し、その街が彼女にどのような影響を与えるのか、そして彼女の成長に合わせて街がどのように発展してゆくか、その関係性について想いを巡らせる。多くの場所は彼女の暮らしと関係がないかもしれないが、私たちは彼女が育つ街の空気感を理解することができ、近隣の風景との関係性の中にいる彼女を見なければ、この街の細やかな構造を理解することもできなかっただろう。これまで映像作品や写真集として発表されてきた多くのシリーズにおいて、ホンマが最も重視しているのは、そこに息づく生であり、そこに立ち現れる瞬間を建築がどのように受け止めているか、ということだろう。
ホンマのInstagramアカウントでは、#mymother(〈Tokyo and My Daughter〉の娘とは異なり、本当に彼の母親かもしれない)というハッシュタグを用いた一連の投稿によって、図らずも東京という街が——今度は主に室内から——描き出されている。ここでも、建築や内装は主題にはならず、そこにいる母親を見るホンマの視線を通して、空間の親密さをも見出すことができるのだ。
多くの場合、ホンマは自分の写真や映像がどう拡散されていくかにこだわらないようで、写真集、雑誌、プリントからInstagramの投稿まで、さまざまな媒体を利用している。また、彼は特定の写真技法に固執し続けたり、写真の制作や流通における技術的進化にとらわれるようなこともない。「ニュー」であることとはつまり、ホンマは自分のイメージがいつか見られるであろうことにしか興味がないこと、加えて「プリントではなくデータだけを手配すること、そして撮影すらしない写真家になること」(5)に起因しているのかもしれない。
撮影しない写真家の存在が成り立てば、彼が見ているそのものを、私たちもそのまま見ることができるだろう。これこそ、ニュードキュメンタリーというものなのかもしれない。
(1) 「フォトジャーナリズムはドキュメンタリー写真の一種ですが、私が取り入れるドキュメンタリーの手法はそれとは異なります。私の手法について、個人的あるいは親密なドキュメンタリーと形容した人がいましたが、ニュードキュメンタリーという表現の方がしっくりきます」。2023年、CCAにて開催の展覧会「The Lives of Documents—Photography as Project」に合わせて制作されたインタビュー動画「ニュー・ドキュメンタリー:ホンマタカシ、ステファノ・グラジアーニとバス・プリンセンによるインタビュー」より。ステファノ・グラジアーニとバス・プリンセンによるインタビュー。CCA、2022年12月。
https://www.cca.qc.ca/en/articles/90101/new-documentary
(2) ホンマタカシ『In a Moving』(カーサ・ブルータス、2014年)
https://www.youtube.com/watch?v=ybWa-nH3iXo
(3)「ニュー・ドキュメンタリー:ホンマタカシ、ステファノ・グラジアーニとバス・プリンセンによるインタビュー」
(4)
ホンマタカシ『High Court Portico, Chandigarh, India』、2013年、デジタルヴィデオ、7分10秒、CCAのコミッションを受けて制作。@Takashi Homma
https://www.cca.qc.ca/en/articles/75609/to-see-what-the-architect-saw
(5)
ホンマタカシ「写真家ホンマタカシが語るバッハ、パンク、そして準備なしの撮影について」ソフィー・グラッドストーンによるインタビュー(Wallpaper.com、2022年7月27日)
https://www.wallpaper.com/art/takashi-homma-through-the-lens-profile
ジョバンナ・ボラジ|Giovanna Borasi
環境、政治、社会問題が都市論や建築環境に与える影響を考慮しながら、建築の実践と評価のオルタナティブな方法を探求している。ミラノ工科大学で建築を学び、『Lotus International』(1998〜2005)と『Lotus Navigator』(2000〜2004)では編集者、『Abitare』(2011〜2013)では副編集長を務めた。2014年からCCA(カナダ建築センター)に所属し、2020年に同館のチーフキュレーターに就任した。