80年代にアメリカへ渡り、帰国後は1989年から東京都写真美術館の学芸員としてジェンダーの視点から写真と社会、そして現代美術と社会の関わりを一貫して問い続けた笠原美智子。『ジェンダー写真論 1991-2017』には、ジェンダー、フェミニズム、エイズ危機など、時代を横断しながらさまざまな問題に、写真表現や現代美術を通して語ってきた笠原の論考が収められている。1991年に、日本で初めてフェミニズムの視点から「私という未知へ向かって 現代女性のセルフ・ポートレイト」展を企画した著者が、そこからの30年を振り返りながら、これまでと現在を語る。
インタビュー=兼平彦太郎
構成=IMA
写真=浜田啓子
―『ジェンダー写真論 1991-2017』では、笠原さんのこれまでの論考が、「世界篇 民族とセクシャリティ」「日本篇 戦後と高度経済成長とジェンダー」のくくりで章立てされていて、とてもわかりやすくまとめられています。
章立てをしたのも、章のタイトルをつけたのも、すべて版元である里山社の清田麻衣子さんが手がけられました。私が新しく書いたのは、前書きくらい。去年の夏に、本を作りたいと東京都写真美術館の広報宛に連絡が来たので、2002年に出版した『写真、時代に抗するもの』以降の原稿を一式渡しました。そうしたら1998年に出版した『ヌードのポリティクス 女性写真家の仕事』に収められた論考も含めて、こういう本が作りたいって章立てを作ってきたの。多少のやり取りはありましたが、ほとんど清田さんが構成しています。
―日本で社会学を学び、1980年代にアメリカに渡った当時、アメリカではどのようにジェンダーの問題が扱われていましたか?その中で笠原さんがそういった運動に参加されたり、そこで出会ったアーティストから受けた影響などはありましたか?
運動に参加したことはないですね。その頃はジェンダーという言葉はまだ無かったのでフェミニズムだったのですけれども、私自身はフェミニズムに対して半分意識的で、半分意識的ではありませんでした。私自身は三姉妹で、母、父、祖母という6人家族中5人が女性で、女性が働いていても当たり前と言う環境で育ちました。明治学院大学社会学部に入って卒業しましたが、その時に選択肢として就職はありませんでした。当時は就職氷河期と言われていた時代で、女性は24歳までに売れないと価値がないと言われていた時代でもありました。
アメリカに行って、日本で感じる居心地の悪さというのは感じなかったのは確かです。まずシラキュース大学のニューハウススクールという、どちらかと言うと実践的な学校に入ったのですが、一年目の時は、読み書きは出来ても聞き取れなくて、苦労しました。一年目の二学期にフォトジャーナリズムというクラスを取って、写真だったら言葉も必要ないしもっと楽かな、と思って受講したんです。写真を学び始めた時期というのが、1983年にナン・ゴールディンがデビューした頃で、またシンディー・シャーマンやジョー・スペンスといった女性アーティストたちが当たり前に評価されていた頃でした。その少し後にはエイズ問題が出始めた頃で、向こうではフェミニズムやジェンダーというテーマを扱うことは当たり前でした。
―では、本書にも一部書いてありましたが、当時アメリカでは、そのナン・ゴールディンやシンディー・シャーマンといった女性のアーティストというのは、男性が一般的とされた時代に、カウンターアーティストとして現れたという扱いだったのでしょうか?
そういう時期ではあったと思いますね。私がアメリカに行ったのは1983年からの4年間で、70年代以降のフェミニズムやゲイ&レズビアンムーブメントの動きが具体的に成果を出していました。シカゴ・コロンビア大学院ではモダニズムの写真史を教えてくれる先生や、生粋のフェミニストでポストモダニズムの思想を持った先生に学びました。そういう人たちが大学院の先生としていたことが、やはり大きかったと思います。イリノイ大学でも教授陣の三分の一は女性でした。学生もだいたい半分以上は女性だったし、アメリカの大学院なので、学部からすぐに大学院に入る人というよりは、半分以上は社会人を経験して戻って来た人たちでした。ナン・ゴールディンを非常に批判的に評価する人と、好意的に評価した人たちと、両方がいましたね。
『ジェンダー写真論 1991-2017』笠原美智子(2018年、里山社)
―帰国後、東京都写真美術館で初めて手がけたのが「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展(1991年)ですが、この展示を企画したのは、やはり帰ってきた時にアメリカと日本のおかれていた状況にギャップを感じたからですか?
違和感もありましたが、自分が一番惹かれている作家を紹介したかったことが大きいです。1989年に東京都写真美術館の準備室に入った動機に、女性のセルフポートレイト展を企画したかったというのがまずありました。日本の写真について全く知らないまま帰国したので、その時点では日本の写真との比較はほとんどしていませんでした。
―ご自分が紹介したい作家を紹介したということですが、その中でも特に、これまでのキュレーターとしての活動に影響を与えた写真家はいらっしゃいますか?
どの作家がというよりも、セルフポートレイトの女性作家たちに象徴されるムーブメントそのものに影響を受けました。大学の先生から受けた影響がずっと繋がっているのですが、授業で学んだ作家たちと、美術館に入っていきなり一緒に仕事し始めますよね。91年の女性のセルフポートレイト展に出展してもらったほとんどすべての作家に、すごく支えられました。だって全く経験もない32歳の、まだ建物も建築中の美術館キュレーターがいきなり手紙で出品依頼を送って、レスポンスしてくれた作家が50名もいたんです。作家が作家を紹介してくれて、またその作家が他の作家を紹介して、どんどん繋がっていきました。
―当時のアーティストは、カウンターカルチャー的にジェンダーに関する表現や接し方を作品に意図的に取り込んでいたこともあると思いますが、今はそれをためらわないというか、ストレートにやっているアーティストもいると思います。
それはいくつかのレベルの答えがあるのですが、80年代、90年代には、例えばアメリカのアーティストが、自分自身はフェミニストだと意思表明して、作品を発表していた人もいるし、フェミニストだと名乗らずにそういう作品を制作していた人もいる。フェミニズムを意図せず、結果的にそういう作品になった人もいる。だからいろんなレベルがあるんです。日本の場合、ウーマン・リブのイメージがマスコミに歪められたとことがあって、ヒステリックで権利ばかりを主張する怖い女性っていうイメージがありますよね。そのため未だに女性のアーティストたちはフェミニストと名乗りたがらない。写真家やアーティスト以外でも未だにそういう傾向がありますよね。ここ2、3年は、「#metoo」ムーブメントの影響で、そういう傾向が少し緩和されつつあるかもしれないけど、やっぱりまだまだですね。フェミニズムを意識している作家はもちろんいますが、日本の場合はフェミニズムもジェンダーもちゃんと学校で学んでないわけだし、まずそこから変えていく必要がありますよね。
―日本では90年代後半からガーリーフォトのムーブメントがありましたが、一旦そのブームが落ち着いて、また違う価値観が出てきたと思います。
まず90年代以降の世界的なキーワードに、多様化があります。だから、もうムーブメントとか流行りとかはない。マスコミに乗じてあたかもムーブメントがあるかのように持ち上げて、男性たちに消費されるような消費のされ方だったから、傷ついた作家もたくさんいました。長島有里枝さんは、アメリカに行って学んで、自分自身の世界を構築していきましたが、傷付いたままの作家もたくさんいると思います。あの頃はちょうどジェンダーを扱っていた頃だったから、新聞社にインタヴューを頼まれたこともありますが、いま判断するのは無理だと私は一切お断りしていたんですね。10年、20年と長い目で見ないと分かりませんっていうのが私の答えだったんです。でも残念なのは、当時一番届けなければいけなかった20代の彼女たちに、私が企画した展覧会「ジェンダー―記憶の淵から」展(1996年)や、「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」展(1998年)は届いていなかったこと。一美術館、一展覧会だけでは届かないんですよね。
―当時、美術館で「ラヴズ・ボディ」展を見た時に、もっとフラットにみんながジェンダーやセクシャリティの話や、エイズ問題をはじめとする社会が抱える課題について話し合ったりしなくてはならないと感じました。もう20年も前ですが、あまり変化がないようにも思います。
女性の意識は変わっている。でも、社会のシステムが変わってない。一番上にいる男性たちは全く変わってない。本当に、私のこの本でびっくりのけぞってる人たちが沢山いるんですよ。
―いまはもうジェンダーと言って、女性か男性かだけの話ではないですよね。子供がいる人、子供を持たないことを選択した人、結婚した人、結婚しないことを選択した人とか、もっと複合的というかそれぞれの立場がひとくくりではなく、細分化されていると思うのですが、そうした中でアーティストや彼ら彼女らの表現に今後どのようなことを期待しますか?
さきほど女性の意識の変化と話しましたが、考える主体が自分になったということでもあるんです。家族じゃなくて社会じゃなくて、考えて、判断することの主体が個人になったんですね。その中でいろんな立場の人がいる。結婚している人もしてない人も、それを自分自身で選択する。一番シンプルなフェミニズムってこういうことです。その主体化した一人、その人たちに向けて、日本のいまここにいるだけでは知れない価値観や、想像力がおよばないようなこと、考え方とか、美とか、こうすればもっと簡単なのに、楽なのにとか、もっと違うやり方があるのに、とか半歩先のことを見せてくれるような作家がアーティストって言われるものだと思います。外国の作家でも日本の作家でも、そういう考え方の元となる展覧会を見たいですね。
タイトル | 『ジェンダー写真論 1991-2017』 |
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出版社 | |
価格 | 2,700円+tax |
発行年 | 2018年 |
仕様 | 四六判並製本 |
URL |
笠原美智子|Michiko Kasahara
石橋財団ブリヂストン美術館副館長。1957年長野県生まれ。1983 年明治学院大学社会学部社会学科卒業。1987 年シカゴ・コロンビア大学大学院修士課程修了(写真専攻)。東京都写真美術館、東京都現代美術館にて学芸員を務め、日本で初めてのフェミニズムの視点からの企画展「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展(1991 年)を皮切りに、ジェンダーの視点からの企画展示を多数企画。著書に『ヌードのポリティクス 女性写真家の仕事』(筑摩書房、1998 年)、『写真、時代に抗するもの』(青弓社、2002 年)ほか。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。