わたしの住んでいる浅草には小さな寺が多い。家からいちばん近い駅まで歩いていく道の途中にも、5、6の寺が隣り合って連なる通りがあって、そこを選んで通ることはわたしのとてもささやかな日課だ。それぞれの寺の入り口には掲示板があるのだけれど、どの寺も、折々の標語というのか教えというのか、堂々たる墨字で書いた短いことばをそこに貼り出している、それが妙に興味深いのだ。毎週だか毎月だかのタイミングで張り替えられるそのことばは、あまりに説教臭いとなんだか笑えるし(寺からすれば甚だ失礼な通行人だ)、ぐさりと自分の弱い部分を突き刺されることもある。先日、こんなことばに出会ったときは、思わず数秒立ち止まった。
死を忘れることは
生を忘れることだ
誰のことばだろうかと調べたもののわからずじまいだったけれど、浄土真宗の寺だから、親鸞や法然のことばだろうか。そもそも死を通してこそ生は感じられるのだというのはしばしば言われることでもあって、「メメント・モリ(死を思え)」も「カーペ・ディ・エム(いまを生きよ)」も、指し示すところは同じだ。
都市に住み、日々の食事は外食かスーパーで買う食材で作るもので、遠くの友人とも何の苦もなく連絡がとれる。そういう世界にあって死はうんと遠くなったけれど、実は変わらずすぐそばにあるのだし、だからこそ、そのことを思い出される何かに出会うと胸を衝かれるのだろう。おそろしくコントラストの強い、夢と現実の狭間にあるような写真で知られるマリオ・ジャコメッリの写真も、そういう場所にいる。20世紀のイタリアの小さな町で生涯を送った写真家ジャコメッリ。自分の生まれた土地を撮るときも、ホスピスで死を待つ老人たちを撮るときも、そして雪の上で楽しげに戯れる若者たちを撮るときでさえ彼の写真にはいくつもの死の影が漂う。逃れがたく、悲壮で、孤独で、代えがたく恐ろしい死の向こうにこそ、彼は「生」の崇高さを確認していたのだろうか。
イタリアの貧しき家庭に生まれる“僥倖”
マリオ・ジャコメッリが生まれたのは1925年8月1日、イタリアの北東部アドリア海に面した小さな町、マルケ州セニガッリア。セニガッリアは紀元前4世紀に創建され、アドリア海岸で最初のローマの植民都市ともなった古い町だ。太陽に照らされた美しく穏やかな海と、オリーブの植わった丘陵、どこまでも続いてゆく畑。いまでこそ、のんびりとしたバケーションを過ごしにヨーロッパの近隣諸国から人々のやってくる町ではあるが、ジャコメッリが生まれた、二つの世界大戦に挟まれた、イタリア共和国成立以前のこの土地に、そのようなのんきな空気は漂っていない。父アルフレード、母リベラ、二人の妹の5人家族。もともと裕福な一家ではなかったがマリオが9歳のとき、貧困はさらに悪化する――父が亡くなるのだ。家計を支えるため、母はセニッガリアのホスピスで洗濯婦として働き始め、幼いマリオは母について老人たちのホスピスで長い時間を過ごした。息子にとっては絶大な存在である父のあっけない旅立ち、死によってしかそこを離れることのできない、老人たちの孤独と悲しみ。それらをそばに感じながらマリオは感受性を育てていく。母は彼に進学を望むが、長男として(ところでマリオの生まれる一年前に早逝した兄の名もまたマリオなのである……。“生まれ変わり”としての人生を、弟マリオはどのようにとらえていたのだろう?)少しでも家計を助けようと、13歳で印刷工の見習いとなった。稼ぎはすべて家に入れ、空いた時間は絵や詩作にふける。決して内向的な性格ではなかったようだが、一人きりになり、創作を通じて大きな世界と向き合う時間はジャコメッリにとってはすでにこの頃から欠かせないものとなっていたようだ。貧困と人生の艱難こそが自分にとっての僥倖であったと、のちにジャコメッリはそう語っている。充足ではなく欠乏のなかにこそ、創造の源は見いだされる。それはこの後も続く、彼の根本的な姿勢となっていく。
© Simone Giacomelli
印刷所を切り盛りする若き週末写真家
ムッソリーニが権力を増し、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、翌年にはイタリアも枢軸国の一員として参戦する。セニッガリアのジャコメッリも、戦争とは無関係ではいられなかった――軍隊に入隊した彼は、マルケ州の州都でもある古都アンコーナで、港の爆撃を目撃した。さらに多くを学んできた印刷所も、爆撃によって一部を破壊されてしまう。終戦後には印刷所の再建を手伝い、さらに経験も積んだジャコメッリは、自分の印刷所を開くことを思い立つ。1950年のことだ。マルキジャーナ印刷所はこうして生まれ、彼の残りの生涯にわたって続けていくことになる。終戦によって、ファシズムの支配から逃れた戦後のイタリアでは、トラウマを克服しようとするかのように、市民や労働者の現実を描くネオレアリズモの映画や文学が台頭していた。『無防備都市』を撮ったロベルト・ロッセリーニ、『自転車泥棒』のヴィットリオ・デ・シーカ……。ジャコメッリも夢中になってさまざまな映画を見たが、自らの表現手段として、最後にはスチールのカメラを選ぶことになる。
初めてのカメラはベンチーニのコメットS。片方の手のひらに載ってしまうほど小さなそのカメラは、絞りは固定、シャッタースピードはバルブと1/50のみというシンプルな機械だ。いまや希少な127ロールフィルムを使った4×3cmの世界に、ジャコメッリはのめり込む――平日は印刷所の仕事をして、撮影は土曜日か日曜日。日曜の夜は暗室作業にあてる。母、妻(1945年にアンナ・ベルルーティと結婚する)、友人たち、そしてその時々に出会う風景。身の回りのさまざまな人や物に向けてシャッターを切り、技術書を読み込んでは、プリントを試す……。熱意たっぷりに、独学で写真を身につけていく。
ジャコメッリにとっての初期のメンターとも呼べるジュゼッペ・カヴァッリとの出会いもこの頃だ。1904年南イタリア生まれのカヴァッリは、30歳を過ぎるまで弁護士として務めた後に写真を始めた人物。セニッガリアに居を移し、自らも写真を撮ったほか、評論なども精力的に行っていた。カリスマ性のある人物として知られたカヴァッリは、すぐさまジャコメッリの熱意を見抜き、写真の構図やさまざまな技術を教えるなど、何くれとなく彼の面倒を見る。カヴァッリから受けた影響は、だからもちろん少なくないようだ。
1954年にカヴァッリが設立した写真グループ「Misa(ミーザ)」にもジャコメッリは参加するが、彼は次第にこういった写真家同士のグループからは遠ざかっていく。「写真は難しいものじゃない――言いたいことさえあればいい」そんなジャコメッリのことばが残っている。長く続けてきた詩の世界と、写真の世界との共通点を彼は見いだした。写真家のグループで喧々諤々するスタイルではなく、自分はこれを追求していけばいい。そうやって1950年代から没年の2000年まで、絶え間なく写真を撮り続けていくのだ。時を経るにつれ、被写体も撮影法もさまざまに変わっていくが、ひとつ共通していえるのは、ジャコメッリの写真が、一枚のイメージとしてよりシリーズとして何かを物語ろうとしたことだ。そういう意味では“写真家”というより“ストーリーテラー”という肩書きの方がふさわしいかもしれない。時には複数のシリーズを並行させながら、おびただしい数のシリーズを生み出していく。
© Simone Giacomelli
山間の小さな村で撮った幻想と現実のはざま
1957年の「スカンノ」は、ジャコメッリの詩的感性が強く現れたシリーズのひとつだ。イタリア中部の山間にあるその小さな村には、昔ながらの風俗や生活習慣がいまも残っており、照りつける太陽の下で真っ白に光り輝く石造りの町並みを、真っ黒な伝統衣装に身を包んだ人々が歩く。
「スカンノは、陽光にあふれ、そこここに黒い小さな人影があって、まるでおとぎの国のようだった。まさにドキュメンタリーを思わせるものすべてが消えてしまうよう、ディテールを白くとばそうとした。それによってそこに、より深い詩が見いだせると考えたのだ。スカンノやほかの写真でリアリズムを追い求めたことなど、一度もない――例え平凡なことであれ、その時々の私の心を再現することを求めているだけだ。優れたリアリズムはとても好きだし、影響すら感じるが、自分が写真を撮るときにはこれから自分がなそうとしているのがリアリズムなのか、シュールレアリスムなのか……といったことはまるで考えたりしない。私はただ、自分が感じていることを写真に収めることにだけ集中している」白い部分はより白く飛ばし、黒い部分はより黒く、深く焼く。真っ白な光の中で、あたかも人々が浮かびあがるような写真が生まれていく。シリーズでわけても有名な一枚には、幻想的な色合いがより色濃く出ている。
道の向こうからひとりぼっちで歩いてくる、両手をポケットに入れた少年。手前を、黒い民族衣装に包んだ二人の女性が通り過ぎていく。全体的にピントの合わない、ぶれた写真の中で、覆い焼きであろうか、少年の周囲だけが光を放つように明るく、かつ彼の顔にだけピントが合っており妙にくっきりと像を結ぶのだ。少年は古い町並みに突然現れた存在とでもいうように見えて、果たして現実の風景なのかどうか判断できなくなってくる……そしてそれは問題ではない、とジャコメッリは断言しているのだ。彼にとって写真とは、あるがままをあるがままに撮るものではなく、心象をあるがままに表現すべきものだった。
死を通じて生を見るホスピスという場所
白昼夢をそのまま写し取ったかのようなイメージは、その後もたびたび、ジャコメッリの写真に現れる。彼が幼少期に長い時間を過ごしたホスピス。そこにカメラを携えて戻った「死がやってきておまえの目を奪うだろう」のシリーズの中の一枚もそうだ。画面下の中央に、スカーフを巻いた老婆の頭がある。固く閉じられた目、半ば開いた口。ひとときの夢のさなかにあるのか、あるいは永遠の眠りについたところかはわからないが、いずれにせよ死が間近にあることは間違いない。彼女の顔からは真っ白な光が放たれ、その光の向こう、老婆の顔を取り囲むような位置に、人々のシルエットが浮かび上がっている。座る者、歩き去る者。ピントのぼけたそれらシルエットに動きがある分、中央の老婆の生気のなさが際立ってくる。老婆が死の間際に見る情景のような不可思議なイメージが、おそらくは多重露光と、中間のディテールを飛ばす暗室作業によって現されている。
ホスピスのシリーズは、カメラを手に入れた翌年に始めて以来、執拗といえるほどに長い時間を費やした。一年目はほとんど撮影をすることなく老人たちと付き合い、自分がホスピスに、ホスピスとそこにいる老人たちが自分の存在に慣れるのを待つ。実際に撮り始めたのは二年目からだ。1954~1956年にかけて撮ったのが「ホスピスの生活」。それからも一定の間隔を置いて訪ねており、66年~68年に再び舞い戻って編み上げたのが「死がやってきておまえの目を奪うだろう」。タイトルは、ウンベルト・エーコと並び称される20世紀イタリアの最重要作家の一人で詩人のチェーザレ・パヴェーゼの詩からとった。さらに81年から83年にかけて「私に訊かないでくれ」を生み出している。
母にくっついて長い時間を過ごしたホスピスの風景は、ジャコメッリにとってはほとんど原風景のようなものであっただろう。過ぎ去っていった時間が深い皺として刻まれた痩せ細った身体、虚ろな目とその下に浮いた黒々としたシミ、おどけたポーズをとってはいるけれど、よく見れば靴を片方しか履いていない老女……。そこに写るのは、家族からも引き離され、決していいとはいえない環境で死を待つしかない人々の”現実”だともいえる。それでいて、一連の写真から浮かび上がってくるのは、ジャコメッリが人間に、その生死に寄せる思いそのものだ。何かを確認するようにたびたびここに舞い戻ってくることも、その証だとはいえないか。このシリーズを説明した彼のことばにも、それを読み取ることができる。
「わたしが”見た”というより“現した”のは私自身の内側にあったものだ。それは死ぬことではなく、老いていくことの恐怖と、生きることに人が払わなければならない代償への怒りだ」
© Simone Giacomelli
詩が深めるイメージの世界
詩――ことばとの出会いで、世界観をぐんと広げたシリーズが多いこともまた、ジャコメッリの“ストーリーテラー”ぶりを示すといえるだろう。ここまでに挙げた二つに加え彼の最も有名なシリーズのひとつである「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」もそのよい例だ。1961年、司祭や神父の手引きでセニッガリアの神学校を訪れたジャコメッリは、週末をそこで過ごすようになる。ホスピスのときと同様、最初の年はあまり撮影はせず、その場に身を置いて人々を、彼らを取り囲む場所を観察するだけだ。
“場”へと身を浸していくマリオを想像する……じっくりと観察し、咀嚼し、目の前の風景を身体の中へと受け入れていく。ゆっくりと時間をかけて醸成されていくその風景が自分の心の奥深くに潜んでいた想念と合致して、初めて撮影は始まる。年の変わった62年の1月。降り積もった真っ白の雪の上で、若い神父たちの黒く長い法衣が踊るさまを目にしたときに、その瞬間やってきた。
手をつないで輪になって踊る者、降りしきる雪の中でマントをふわりと広げる者、毛布の上に一人を寝かせ、4人でその端を持ってぐるぐる回る者。あどけない子どものような表情だ。
二人一組となってダンスを踊る者がいれば、無邪気な笑みを浮かべて走る者も、周りの喧騒など気にするふうもなく(かといって輪から外れるわけもなく)読書にふけるものもいる。写るのはそれぞれに今を謳歌する若者の姿だ。
ここでもディテールというディテールは排し、コントラストが強調された。卓越したグラフィックセンスは、生まれ持った才能を、幼い頃から始めた絵画、そして印刷所での仕事を通じて養ってきたものでもあるだろう。あまりに白い“白”を背景にして、自由に駆け巡る“黒”の営みは現実感を失っていく。弾けんばかりの生き生きとした笑顔が浮かんでいても、どこか不安な気持ちを呼び起こすのはそのためだろう――写真の中にあるのは現実の世界はたまた空想の産物か、そのあわいはジャコメッリの写真の中で、いつも不確かなものだ。
始めは「神学校」「小さな神父たち」といったシンプルなタイトルだったこの一連の写真は、聖職者であり詩人の、ダヴィッド・マリア・トゥロルドの詩に出会って「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」というシリーズ名に落ち着く。
若い神父たちのこれからの人生は人々のために捧げられていく。人々に安らぎをもたらすことはあっても、自らは家庭的な安らぎを得ることはないだろう。彼らが選んだのは自分の顔を”撫でてくれる”存在を持つことのできない、孤独な人生なのだ……。若者たちの笑顔が刹那的なものに見え始め、笑顔と相反する孤独までも読み取るようになる。奇しくもトゥロルドによる詩は、聖職者への道を歩む若者の不安を詠ったものでもあった。詩とイメージが共鳴しあってその双方の世界を押し広げ、より大きな物語を語り始める。
© Simone Giacomelli
世界的評価にも揺れることなく
写真を始めた直後から国内の写真コンテストに応募、1955年のカステルフランコ・ヴェネト全国コンクール展で4部門の一位を獲得したのを皮切りに、数多くの受賞を重ねていったジャコメッリ。イタリア国内ではすでに知られた存在だった彼が、世界的な評価を得るのは1964年のことだ。ジャコメッリを支持してきたイタリアの批評家が、MoMA写真部門の名物ディレクター、ジョン・シャーカフスキーに「小さな神父たち」と「スカンノ」のシリーズを見せるのだ。世界から数々の才能を発掘してきたシャーカフスキーが、ジャコメッリを見逃すはずがなかった。
彼は「スカンノ」全シリーズなどを購入し、翌年開かれ、以降の写真会に大きな影響を与えた展覧会「The Photographer’s Eye」に、ジャコメッリのその写真も収められた。アンリ・カルティエ=ブレッソン、エドワード・スタイケン、ウォーカー・エバンス、リー・フリードランダー、ロバート・フランク……。それらの名前とジャコメッリの名前はついに並び彼の名声は世界的なものとなる。
海をまたぎ、そのむこうの大陸まで達した自分の写真。他国での展覧会や、美術館からの作品の買い入れも増えていく。だからといってジャコメッリは活動の場を世界に移すことも、印刷所をたたんで写真だけに打ち込むこともしなかった。
旅に出かけたいという気持ちは持っていたようではあるし、病の治癒を求める人々が集うカトリックの巡礼地を訪れた「ルルド」のシリーズなども、フランスまで遠出をした写真群ではあるが、ジャコメッリの拠点はあくまでセニッガリアにあった。初めて飛行機に乗ったのは1979年、コンテストの審査員としてビルバオに招待されたときだという。世界の風景を知らずとも、世界中の人間たちの深奥にある感情をつかみ揺さぶる術を、彼は知っていた。
© Simone Giacomelli
抽象化されていく晩年の写真群
多くの画家や詩人にも例があるように、経験を積むにつれ、ジャコメッリの写真はより高度に研ぎ澄まされ、抽象化されていく。例えばエミリー・ディキンソンの詩からタイトルを得た94年の「わたしは誰でもない!」の、壁に現れる人間の目や手、不自然に重なり合う人物のシルエットを見るときには、生きる存在がある限り、そこには必ず影がつきまとうことを思い出さずにはいられない。あるいは例えば80〜90年代にかけて撮られた「詩のために」の朽ち果てて、傷をつけられた壁を見るとき、同じようにやがて朽ち果てていく自分たちを思うことだろう。さらには60年代から生涯撮り続けた風景のシリーズに写るのは、主に農地に、人間の鋤や鍬、畑の畝や切り株と言ったものがつけた痕跡。人間が撮り続けることで、大地は傷つけられていく。一方には大地のゆるやかな”死”があるという皮肉とも宿命ともとれる事実を、ここでもまた感じずにはいられない。
「自然は私を映す鏡だ。(写真に収めて)この大地を救い出すことで、私は実は、自分自身の内なる悲しみから救い出されるのだから」
光と影、生と死。手法を変えモチーフを変えながらもジャコメッリを捉えて離すことのなかったテーマが、晩年の作品には色濃く現れていく。もともと内面にあったそういったテーマがより強く表に出てきた時期と、自分自身を被写体とした写真が増えていく時期とが重なるのは、とりもなおさず、自分の死を近くに感じるようになっていたからなのだろう。
2000年1月、体調を崩してジャコメッリは緊急手術を受ける。予後は思わしくなった。病床の父を振り返って、息子シモーネが記している。「集中治療室から出た父が、私に翌日カメラを持って来れるかと訊いた。“父さんのじゃなくて?”と聞く私に“いやお前のだ”と父。翌朝急いで訪ねると、ベッドから出て、私のカメラを手にとってピントを合わせ、それを私に返していった。“何もいじるな。ピントもだ。合わせるなら自分が近づくか遠ざかるかしてみろ”。窓のそばの壁に寄りかかると”撮れ”と父。カメラに触らずに撮ったセルフポートレイトだ」
退院し、家に戻ったジャコメッリは、身の回りに整理をつけていくように「帰還」「この記憶をあなたに語りたい」といったシリーズを仕上げ、11月25日、家族に囲まれて息を引き取る。最後の作品となったシリーズでは、荒涼とした景色の中に、冥土への案内役とでもいうように配された鳥や犬なの存在が目につく。帽子を掲げている一枚は、ジャコメッリからわたしたちへの、別れの挨拶だろうか。
21世紀に進んでいくことをいやがるようにジャコメッリは去ったが、どのように世界が変わっていこうとも、人々が人々である限り、生きて、そして死ぬことからは逃れることはできない。生涯にわたって大きな問いに向き合い続けたジャコメッリ。死の、生の意味を解き明かすことはできたのだろうか。そしてわたしたちの誰かに、それができるだろうか。
© Simone Giacomelli
All images from “Io non ho mani che mi accarezzino il volto"
マリオ・ジャコメッリ|Mario GIacomelli
1925年イタリア・マルケ州セニッガリア生まれ。印刷職工として働きながら、50年代より写真を撮り始める。長くアマチュアとして国内で作品を発表してきたが、64年MoMAで紹介されると世界にその名が知られるようになる。代表作に「ホスピス」「ルルド」「神学生たち」「スカンノ」「善き大地」など。2000年死去。日本でも2008年に展覧会が開催され人気を博した。
https://www.facebook.com/Mario-Giacomelli-1706850712877557/
阿久根佐和子|Sawako Akune
文筆家。鹿児島県生まれ。東京大学文学部卒業(英語英米文学)。雑誌への執筆のほか、翻訳、書籍構成なども手がける。2011年、東京・浅草にオルタナティブ・スペース「GINGRICH(ギングリッチ)」をオープンした。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。