The Great Master’s View

vol.1 アンセル・アダムス「愛国心をモノクロの大自然に託したアメリカの英雄」
阿久根佐和子(IMA 2012 Autumn Vol.1より転載)

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The Great Master’s View vol.1

(左)Grand Canyon from Yavapai Point, Bright Angel Canyon, Grand Canyon National Park, Arizona, 1942 by Ansel Adams © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages
(右)Canyon de Chelly National Monument, Arizona, 1942 by Ansel Adams © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages

いかにしてアメリカを代表する写真家になりしか

「大自然の記念碑的美しさに魅入られたアダムスは、彼自身、環境論者たちには記念碑のごとくにみなされ、写真家たちには我が国の代表として崇められている。彼の深い洞察と不屈の精神によって、アメリカの大部分が、未来のアメリカの民へと残されていくだろう」

1980年、時の大統領ジミー・カーターは、78歳の写真家、アンセル・アダムスへの大統領自由勲章授与に際して、そんな賛辞を贈った。大統領自由勲章は、アメリカで人々に与えられる最高の勲章のひとつ。公民権運動にも心血を注いだ俳優チャールトン・ヘストン、夢の世界を紡いだウォルト・ディズニー、不屈のプロボクサー、モハメド・アリ、世界一の投資家ウォーレン・バフェット……。錚々たる顔ぶれに授与されたこの勲章をアダムスが受けているのは、彼がアメリカンヒーローの一人となった証にほかならない。

それほどに、アメリカにおけるアダムスの人気は絶大だ。『TIME』誌の表紙を飾り、映画が撮られ、存命中はもとより、死後もメディアにしばしば登場する。2010年に、カリフォルニア州のある男性がガレージセールで45ドルで購入していたガラスネガ65枚が、アダムスの手になるものであり、価値2億ドルだとの鑑定を受けて大きな物議を醸した――遺族や関係者は即座に鑑定結果に不満を示したが、いずれにせよ、アダムスの名声あってこその出来事である。

主に1920年代から50年代にかけて、アメリカの風景を何万枚ものネガに収め、数百点の美しいモノクロプリントに仕上げたアンセル・アダムス。その大部分が、彼の生まれ育ったカリフォルニア州のヨセミテ渓谷と、それを抱くハイ・シエラ(シエラネバダ山脈)の雄大な自然を写すものだ。

モノクロの画面のなかに屹立する岩壁、はるか遠くの空に上る月とそれが照らす大地、霧を巻き上げながらごうごうと音をたてて落ちる滝、樹氷を戴いて静かにそこに立つ木々……。ディテールに至るまで克明に計算された光がまわり、粒だつようなその風景は、黒と白の2色のみで構成されていることを忘れさせる、果てしない豊かさをたたえる。アダムスほどに、アメリカ人のアメリカ観に影響を与えた写真家を見つけることはできない。

“アメリカらしい自然”を写真に収めた、偉大なる写真家だったとアダムスを形容するのはたやすい。しかし“アメリカらしい自然〟とは何だったのか? なぜここまでの名声と支持を手に入れることができたのか? 彼の人生をなぞりながら振り返っていきたい。


学校をドロップアウトし、ピアノに熱中した少年時代

アンセル・アダムスがサンフランシスコに生まれるのは1902年2月20日。父チャールズ・アダムスと母オリーブの間に、母40歳のときに生まれた一人っ子だった。米墨戦争後の結果、カリフォルニアがメキシコからアメリカへと割譲されて、アメリカ合衆国の31番目の州となった1850年から半世紀あまり。ゴールドラッシュの熱狂は過ぎ去ったとはいえ、そこはフロンティアたちの土地だ。

その一方で、いまやこの街を思い描くときに欠かすことのできないゴールデンゲートブリッジが完成する1937年までにはまだ時間の猶予がある。幼い頃のアダムスが、この辺りの渓谷や、尾根、ビーチをよく一人で歩き回っていたという記述からすると、手つかずの自然も多く残されていたことだろう。さまざまな種類の人々と風景とが入り混じる街で、好奇心を募らせながらアダムス少年は育つ。

ところが4歳になる1906年には、人生でおそらく初めての大きな変化が彼を見舞う。いまでもアメリカの甚大な自然災害に数えられるサンフランシスコ地震の際に、地面に叩きつけられて鼻を骨折。さらにはこの地震で打撃を受けたアメリカに起きた1907年の大恐慌の巻き添えを食って、アダムス一家の経済が逼迫していくのだ。アンセルが生まれた当時の一家は、父方の財産によって比較的裕福であったが、この恐慌以降、一家の経済を立て直そうとする父のあらゆるあがきが実ることはなかった。手にしていたはずの地位と資産を失っていくことを信じられず、自分たちの境涯を嘆くばかりの母と同居の叔母、次第に天文学にのめり込んでいく父。ゴールデンゲート海峡を望む大きな家に暮らす、どこかビクトリア調の4人家族はゆるやかに零落していく。

大ケガや一家のそのような事情を背景に、アダムスは、どんな学校にも馴染めない子どもとして成長していく。好奇心をもて余し、授業中にじっと座っていることができず、ともすれば奇声をあげる。学校がいやでたまらず、登校拒否気味になってしまう。

明らかに学校は彼の居場所ではない、そんな判断だっただろうか、我慢づよく一人息子に愛を注いできた父は、息子が12歳のときについに学校に通う労苦から解き放つ。そうしてかわりに、この年、パナマ運河の開通を記念してサンフランシスコで開催されていた、パナマ太平洋国際博覧会の年間フリーパスを息子に渡すのだ。アダムスは、この万博に文字通り毎日通い、そこに展開する各国の展覧会や最新の科学技術に心を奪われる。

さらにこれと前後して、アダムス少年はピアノにも熱中しはじめていた。個人教師をつけ、ピアニストこそが自分の目指すべき道と、練習に励むようになる。

Mount McKinley Range, Clouds, Denali National Park, 1948 by Ansel Adams  © Ansel Adams Publishing Rights Trust

Mount McKinley Range, Clouds, Denali National Park, 1948 by Ansel Adams © Ansel Adams Publishing Rights Trust

その彼が、初めての写真を撮るのは1916年、14歳の夏だ。家族旅行で初めてヨセミテ渓谷を訪れた彼は、両親に与えられたボックスカメラ〈コダックNo.1ブローニー〉で周囲を写真に収めていく。写真撮影はすでに大衆化しており、14歳の子どもが写真を撮ること自体は、さほど珍しいことではなかった――アダムスの場合、その後生涯カメラを手放さなかったことにおいて特異だが、このときはまだ誰もそれを知る由はない。

2日間の旅を終えてサンフランシスコに戻ってからも、アダムスは身の周りの、特に自然を撮り続ける。この頃のアダムスは、ふたつの熱に浮かされていたようにもみえる――ピアノとヨセミテ。コンサートピアニストとしての鍛錬を重ねる傍らで、アダムスは毎夏ヨセミテ渓谷へと戻り、より深い場所へと分け入っていく。1920年前後の数年間はヨセミテ渓谷にあるシエラクラブ本部のル・コンテ記念館の夏の管理人も務めた。シエラクラブは、作家でアメリカの自然保護活動の父ともいわれるジョン・ミューアが創設した自然保護団体だ(アダムスは1934年から71年まで、長くクラブの役員を務めてもいる)。

学校が与える世界で息をひそめて過ごしていたアダムスが、自然に身を置く日々を通じてようやく朗らかに輝きはじめる。シエラクラブはハイ・シエラへの長期のハイキングや登山をしばしば行っていた。メンバーたちと山を歩き、目に映る自然をさまざまな構図で写真に撮って勉強したり、お喋りしたり、夜にはキャンプファイヤーを囲んだり……。自然の魅力が、次第にアダムスをピアノから写真へと向かわせていく。

「家族は反対してたよ、写真は人間の魂を表現できないと言っていた」。後年アダムスがそう振り返る映像が残るが、家族の言葉がアダムスを引き止めることはなかったようだ。サンフランシスコの家では身に余るほどの高価なピアノを買ってもいたが、1927年頃から訪れるいくつかの出会いによって、1930年、28歳のときには、彼は写真家として立つことを決意することになる。

ひとつめの出会いはアルバート・ベンダーとのもの。サンフランシスコのアーティストたちのパトロンだったベンダーは、アダムスの写真を気に入って写真集をつくるよう薦め、資金も調達してくれた。こうして初めての写真集、『Parmelian Prints of the High Sierras』が完成する。アダムス生涯の代表作のひとつ、〈モノリス ハーフドーム〉が撮られたのもこのときだ。後にさらに研ぎ澄まされていくアダムスの写真の原点を、この写真にははっきりと窺うことができる。眼前にそそり立つ巨岩(モノリス)と、はるか眼下の雪原。写真のなかで、雪の積もった明るい斜面も、影に入った岩のいちばん暗い部分も、つぶれず、子細にそれぞれの存在を主張している。アダムスは、この一枚を撮るとき、普段使っていた黄ではなく赤のフィルターを用いている――これによって地平線や岩肌はよりくっきりと際立ち、空はより深くなる。適切な構図やレンズ、露光やフィルターを使って、自分の感じたものを、プリントに表現したいとこのときに初めて感じた、とのちにアダムスは回想している。

1928年には7年越しの恋を実らせてヴァージニアと結婚。直接にアダムスを写真へと向かわせる原動力とはいえないかもしれないが、ヨセミテにある写真館の娘で、この地に生まれ育ったヴァージニアは、根っからのハイカーでもあった。アダムスと一緒に数多くのトレイルに出かけ、彼と同じように自然の壮大さを愛するパートナー。その存在は、アダムスが自分とカメラとを自然の前に投げ出そうとしたときに、心強い後ろ楯となったに違いない。

さらに決定的だったのが、写真家ポール・ストランドとの出会いだ。1930年、場所はニューメキシコ州タオスのアーティスト・サロン。当時アメリカの写真界ですでに有名だったストランドは、アダムスの12歳年上。先輩が気前よく見せてくれた、最近撮影したばかりのネガに、アダムスは衝撃を受ける。「そのネガに展開されていた、繊細なるトーンのバラエティ! 素晴らしい写真に何ができるのか、私は理解した」

ヨセミテへと入りはじめて間もない1923年のアダムスに、こんな言葉が残る。「肌を刺す風が吹き、長い羽毛のような雲が空を流れる、陽射しの焼けつくような朝だった。銀色の光に照らされ、草の葉先と砂粒とはキラキラと輝く。光る風の中ではカサコソと何かが砕けるかすかな音が聞こえ、ガラスのような空気を貫いて光が矢のように走る。長い尾根道を踏みしめて登っていたわたしは、不意に、極度に張りつめた意識に刺し貫かれて“光”の存在を自覚した。わたしが立ち止まるや、全身を強烈に走るものがあった。草のディテール、風に運ばれる砂、森のそよぎ、稜線高く流れる雲の動き……。どれひとつをとっても、そのときほどに隅々まで見たことはないと思った」

自分を打ちのめした“光”という存在。それをプリントの上に再現することが可能なのかもしれない。そうアダムスは思っただろうか。感動を感動のままに差し出す方法を、彼は模索しはじめる。

ところでその点で、よく同じテーブルで論じられがちなエドワード・ウェストンとアダムスにははっきりとした違いが見られることを付け加えておきたい。1886年生まれのウェストンは、アダムスと同時代に、やはりアメリカ西海岸の風景を数多くモノクロで撮った。事実二人はたいへんに仲のいい友人でもあった――ベンダーの紹介で知り合い、のちには、スティーグリッツにも影響を受けて、ストレートフォトグラフィーの実践を目指すf/64を、数人の写真家とともに結成している。根強く主流を占めていた絵画的手法にアンチを掲げた彼らの活動は、1932年からのごく短期間だけのものだったが、世界へ与えたインパクトは決して小さくはない。しかし、かといってこの二人を同じカテゴリーに放り込んでしまうのも、すこし早計なことだ。彼らが写真というメディアを通じて目指したもの、言い換えるなら何に“ストレート”であったかは、異なるように見えるからだ。

1週間の間、被写体たるピーマンに向かい合い、ピーマンよりピーマンらしい何か(”a pepper, but more than a pepper”)をフィルムに収めようとしたウェストンは、フォルムに惹かれ続けた写真家である。物のフォルムの最大限の可能性に挑んだ彼の撮る写真は常にグラフィカルであったし、風景写真もまたその延長線上にある。

対してアダムスの興味は、被写体そのものと光とに留まり続けた。アダムスが唱え、写真技法を学ぶときにいまも出てくる「プレビジュアリゼーション(前もって完成像を想定しておくこと)」も「ゾーンシステム(グレーを11段階の諧調にわけて、それぞれに最適な露出と現像処理を決定する技法。フレッド・アーチャーと1941年に考案)」も、言ってしまえば、どうすれば光を“自分の見た”風景に忠実なかたちで、モノクロプリントに定着させるかを模索する過程で出てきたものだ。フォルムや構図への興味は、あくまで副次的なものといえるだろう。

Frozen Lake and Cliffs, Sequoia National Park, California, 1932 by Ansel Adams  © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages

Frozen Lake and Cliffs, Sequoia National Park, California, 1932 by Ansel Adams © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages


写真家としての頂点、そして社会の貢献へ

さて、アダムスにとっての30年代が写真家として生きることを決意し、キャリアの階段を駆け上がる期間だとするならば、40年代は彼のもっとも有名な写真が何点も撮られた、ひとつの頂であった。

いうまでもないことだが、当時はアメリカを第二次世界大戦の暗い高揚が覆う頃。アダムスはこの戦争に際して入隊を志願しているのだが、年齢制限のために拒否されてしまう。友人たちが国のために何かをしているときに自分は何もしていないと、当時アダムスは友人たちへの手紙で、自らの苦悩を吐露している。

カルティエ・ブレッソンがこの頃、アダムスの写真を指してこんなことを言ったとされる。「世界がばらばらになってしまうかといういまこの瞬間、この重大な局面にあって、風景写真を撮るとは!」。 周囲のそういう穿った見方とアダムスの苦悩、どちらが先であったのは定かではないが、戦時中のアダムスは、政府のためにあらゆる仕事をした。ドキュメンタリー写真で知られるドロシア・ラングとともにサンフランシスコの戦時情報局のために写真を撮ったし、ヨセミテで休暇中の兵士たちのツアーガイドもやった。軍用機工場などでも写真を教えている。

それらはしかし、盲目的な愛国心というものでもなかった。1944年に発表の写真集『Born Free and Equal(自由と平等の下に生まれて) 』は、戦争への懐疑をはっきりと表明するものだ――被写体はLAから北に200マイルほどの荒涼とした土地にある、マンザナール・ベース・キャンプとそこにいる人々。戦争に際して11万人もの日系人がカリフォルニアから強制退去させられ、多くの人々が捕虜収容所に閉じ込められた。その行いは間違っていると、アダムスは写真を通じてアメリカに抗ったのである。

 

Snow Hummocks at Valley View, Yosemite National Park, California, 1949 by Ansel Adams  © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages

Snow Hummocks at Valley View, Yosemite National Park, California, 1949 by Ansel Adams © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages

自国への深い愛、それゆえの憂慮。この世界大戦辺りを境に、自然を捉えるアダムスの写真には、より壮大な意図が現れるようになる。雲を突き破りながらそびえる山々、果てしなく続く砂丘、太陽に照らされる石。画面のなかにおける地平線の位置が下がり、その上部で巨大な空が無限の広がりをみせる作品も多くなる。それらの写真のなかにあるアメリカは、強く、美しく、一点の迷いも汚れもないものだ。現実を圧倒する強い感情が、そこに現れる。画面のすべてにピントがあたり、適正な量の光を受けてシャープに際立つ。多くの現実は、こんな風には見えない。それでいて、これがずっと見たかったのだと即座に納得させるほどの引力を備えている。個人的な自然への敬愛から始まったアダムスの写真は、より多くの人々を、より深いところでつかむ高みにまで達したといえるだろう。

否応なくアダムスの名声は高まっていった。これと前後して彼は、社会的な仕事にも身を投じていく。ニューヨーク近代美術館に写真部門を設立するのを助けたのが1940年。46年にはサンフランシスコのカリフォルニア芸術学校(現サンフランシスコ・アート・インスティテュート)に写真学科を創設するのに尽力し、52年には雑誌『アパチャー』を創刊。30年代から教えはじめた写真学のワークショップや講演、執筆活動も旺盛に行う……。子細にわたって写真のテクニックを解説した、未だに読み継がれる『アンセル・アダムスの写真術』シリーズ――『The Camera(カメラとレンズ)』『The Ngative(ネガティブ)」、『The Print(プリント)』の三部作が著されたのもこの頃だ。

くわえて彼は、ヨセミテをはじめとするアメリカの自然が観光化されていくことに危機感を抱き、生態の保全にも心を砕いた。ビッグ・サー、アラスカの自然保護、アカマツの原生林、ラッコの保護……。あらゆる環境活動に名を連ね、自分の名前が利用できる局面があれば、惜しみなく利用した。 勲章や褒章が次々にもたらされる。十分な名声を得たのち、60〜80年代初めにかけてのアダムスの人生は、これら社会活動や、写真の地位を向上させることに費やされる。その一方で、若い頃に撮ったネガのプリントも続けていた。80代を前にしても1日に12〜14時間は働き、旅も続け、休日をとることはほとんどなかったという。

誰の目にも“バイタリティの塊”と見えたアダムスだが、1984年4月22日、心臓の病によって、82年の生涯を閉じる。翌1985年には、ハイ・シエラの真ん中あたりに彼にちなんだ「アンセル・アダムス山」と命名され、その功績を永遠に留めることともなった。生前最も愛した場所であるその山に、アダムスは家族によって散骨され、いまもそこに眠る。

Cascade, Glacier National Park, Montana, 1942  © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages

Cascade, Glacier National Park, Montana, 1942 © Ansel Adams Publishing Rights Trust/CORBIS/amanaimages


同時代の名写真家たちとアダムスの決定的な違い

『American Photographs』(1938)でアメリカ南部の生活を撮ったウォーカー・エヴァンス、1955年から56年にかけてアメリカ全土を旅して人々の姿を『The Americans』(1958)にまとめたロバート・フランク、鋭い視点で国の暗部をえぐり出したドロシア・ラングやマーガレット・バーク=ホワイト……。アダムスと同時代にアメリカを撮った名作も写真家も枚挙にいとまがない。

それらの多くが、フロンティアによる国としてスタートし、幾たびかの戦争を経て、急速に変化していく社会の流れをしっかりと掬いとっていたことを考えるとき、アンセル・アダムスは結局のところ、その流れの影響からは遠い、孤高の存在であり居続けたように思えてならない。

どちらがより“アメリカらしかった”ということではない。“アメリカらしさ”を一本の大きな木にたとえるとしたら、地上がどんな天候に見舞われようともびくともしない、大地にしっかりと張られた根っこのような部分を、アダムスが受け持ったのだとは考えられはしないか。

歴史の短いこの国にあって、悠久の時間を感じられるもの、人々が本当の意味で拠り所にできるものは、自然だけだ。ハイ・シエラとヨセミテに親しみ、大自然を心から信頼しきっていた者にだけできる、情熱的かつ献身的なやり方で、アダムスは屈強で気が遠くなるほどに美しい“アメリカの根っこ”を作り上げた。

アダムスと同じ1902年生まれのアメリカ人作家に、ジョン・スタインベックがいることは、興味深い偶然である。1939年に出版された彼の代表作『怒りの葡萄』は、アメリカンドリームを夢見て、アメリカ中西部のオクラホマ州からカリフォルニアを目指した一家の苦難の道中を描くものだった。本は出版後即座にベストセラーとなり、翌年にはヘンリー・フォンダ主演で映画化もされてこちらも大ヒットとなる。スタインベックに後年、ノーベル文学賞をもたらすことにもなるこの作品に、やはりカリフォルニアの山々は欠かせない要素だ。成功を夢見て西へ向かう人々の前に立ちはだかる、急峻な岩壁。スタインベックの生まれもまた、サリナスというサンフランシスコ近郊の小さな町である――スタインベックの人生を詳らかにすることはここでは避けるが、アダムスとスタインベックの心には、よく似た北カリフォルニアの自然の風景があったように思えてならない。誰にもまして、その懐に抱かれて育った彼ら自身にとって、カリフォルニアを縦に走る山脈とそれがもたらす自然とは、アメリカの象徴だったのではないか。美しさとその裏腹の厳しさを持ったその姿を心に刻んだ二人の作家が、共に時代を超えた世界的名声を得るあたりに、“アメリカの根っこ”の底知れない力を感じずにはいられない。


繁栄と戦争の時代を生き抜いたタフなアメリカンヒーロー

晩年のアダムスのトレードマークは、カウボーイハットともじゃもじゃのあごひげだった。多くの写真でその顔には、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。あの荘厳な自然の写真からは想像もつかない、いかにも陽気な“西海岸のおじいちゃん”らしいその人の顔を、気をつけて見ると、少しだけ、鼻が曲がっているのが分かる。目尻には幾重もの皺。くるんとした丸い目は、幼い頃から変わっていない。4歳のときに受けた古傷も、ピアノと写真との間で揺れ動いた日々も、そのあとのすべての逡巡も引き受けて、20世紀を走り抜いたアンセル・アダムス。屈託を抱えたヒーローは、強いのだ。彼の見いだした世界は、だからいつまでも私たちを魅了し続ける。

アンセル・アダムス|Ansel Adams
1902年、アメリカ・サンフランシスコ生まれ。12歳で学校を辞めた後、17歳で自然保護団体シエラクラブに入会。周辺の山を中心とした自然をモノクロでドラマチックにとらえた写真を撮る。写真技術にまつわる著書でも知られるほか、写真家グループf64を立ち上げたり、雑誌『アパチャー』を創刊するなどアメリカ写真界向上のためにも奔走した。1980年に大統領自由勲章を受賞。1984年死去。

阿久根佐和子|Sawako Akune
文筆家。鹿児島県生まれ。東京大学文学部卒業(英語英米文学)。雑誌への執筆のほか、翻訳、書籍構成なども手がける。2011年、東京・浅草にオルタナティブ・スペース「GINGRICH(ギングリッチ)」をオープンした。

  • IMA 2012 Autumn Vol.1

    IMA 2012 Autumn Vol.1

    特集:家族の肖像