東京都写真美術館にて開催されている個展「志賀理江子 ヒューマン・スプリング」を控えた1月末、東北の地を自身のフィールドとしながら制作を続ける志賀理江子のスタジオを訪れ、新作となる作品が提示する問い、制作プロセス、そしてその射程を紐解く。
インタヴュー・文=酒井瑛作
写真=阿部健
まだ雪が残る1月末、宮城県にある志賀理江子のスタジオを訪れた。もともとパチンコ店だった建物を改装したというその場所は、彼女にとって作業場であり、大規模な作品を制作するための実験場となっている。いまはまさに個展「志賀理江子 ヒューマン・スプリング」の開催を目前に、準備に取り組んでいる真っ最中だ。作品のタイトルにもあるように「春」が重要なテーマとなっている今作は、自然と人間との関わりから生まれた問い、そして、根本まで遡るかのような写真という存在への問いを抱えている。東北の地に暮らし、代表作「螺旋海岸」から続く問題と向き合い続ける彼女に、新作について話を聞いた。
跳ねる身体とイメージ
―2012年に発表した「螺旋海岸」のすぐ後、当初から次の展覧会は春に開催するということは決まっていたそうですね。当時から6年ほどたち、新作「ヒューマン・スプリング」に至るまで志賀さんの問題意識がどのように変化していったか、その経緯をうかがえればと思います。
「螺旋海岸」は、私の中では大きな出来事だったのですが、「春」の問題に関しては制作途中に気づき始めました。でも、とても複雑な内容だったので「螺旋海岸」の中には含められなかった。しかしとにかく「螺旋海岸」後は、春についてずっと考えていたんです。
―「螺旋海岸」に入れることも、一時は考えたんですか?
要素としては。ただ、その時はコミュニティや個人や土地の記憶などの部分が主なテーマだったので、春という主軸でやってみたかったということはあります。
―春に関心を持つきっかけは何だったのでしょう?
かなり前の話になりますが、春に躁になる方と出会い、彼の身体に何が起こっているのか、ということを猛烈に知りたいと思ったことがきっかけです。「躁うつ」という言葉がありますが、病名に絡め取られない、そういう次元じゃない問題があるような気がして。例えば、震災後にうつになってしまった人は、なぜ自分で死ぬという決断に至ってしまったのか、ということと、なぜ春に躁になるのか、ということとは深くつながりつつも、全く違う根源があると思ったのです。そこの問題に近づくことは簡単なことではなかったので、だから、撮影に至るまで時間をかけました。自分自身でも知らないことをリサーチしていったり、いろんな人に会いに行ったりだとか。
―どのようなリサーチをしていったんですか?
魔術的なレベルの話から、精神医学的、臨床哲学的な話、医療の現場など、可能な限り話を聞きに行く、本を読むなどしていました。文学作品にも、それらの問題を扱ったものはたくさんあります。例えば、『沈黙の春』は環境汚染の話です。
人間の春・春泥
―今回の作品のタイトルは、「人間」「春」と、大きな意味合いを含む言葉を使っていますよね。タイトルは、リサーチの過程で決まっていったのでしょうか?
もともと個人的な関心から始まったことだったけれども、制作のプロセスを踏む中で、個人のレベルには落ち着かないなと思って。そういうこともあって「人間」“の”「春」ということになりました。「人間」“と”「春」ではなくね。それを英語で読むことによって、「ヒューマン」には「不完全な」といった語源があったり、「スプリング」には「跳ねる」という意味もあったり、そういうことが言えるのではないかと。
―「スプリング」には、春だけではない意味合いもあるんですね。
「跳ねる」ということはとても重要で、本で読み、知ったことですが、躁状態の時間とは流れ行く時間軸に対して垂直に跳ねているような身体でもある、という記述があり、それは写真とのつながりを考えるときに、とても重要でした。
―垂直に跳ねる、ですか?
はい。木村敏、という精神科医の著書には、躁状態において意識が解体されるような症状の発作について書いてあり、それは「癲癇(かんしゃく)」と言うのですが、その時間の表現を彼は、「永遠の現在」と呼んでいるんです。「永遠の現在」ということは、過去と未来がない、ということですよね。常に現在だけを生きている。で、そのことに関しては、写真がまさしくそうなんじゃないかと。
―なるほど。そこで志賀さんの写真と繋がってくる。
写真を撮り始めた最初の頃から、写真は必ずしも過去の一瞬の時間を切り取ったものではなく、過去や現在、未来ともまったく違う、ここの世界とは違う空間のことだと思っていたので、そこと深くリンクしました。なので、やはり「スプリング」という言葉を使うのがいいかなと。
芽吹きの春、代謝する春
人間の春・食物連鎖
―1枚、1枚、作品の背景にはストーリーがあると思います。志賀さんにとって印象深いものはありますか?
「人間の春・食物連鎖」(上)という作品があるのですが、日本の古代には殯(もがり)と呼ばれ、遺体を墓に埋めずに自然に返すという古代の慰霊の方法があります。人気のない動物が寄ってきそうなところに遺体を置いて、土に埋めず、だんだんと腐っていっても放置して、白骨化するまで待つ。そもそも東北って、今日もそうですが、冬は雪で覆われて、なにも見えなくなるんですよ。本当にその期間が長く続き、ある日、突然春が来る。ものすごく暖かくなるし、「やったー!」という感じなんです。でも、何もかもが光り輝くような生命の息吹がはじける意味ではなく、つまりは、有機物や、遺体が腐り始めることでもある。微生物が集まり、動物が食べ、腐って、発酵し、この世に戻り始める意味での悪臭がする。なぜ春なのかというところでは、生命体のエネルギーが代謝し始める季節だということに気づけたのが、この作品を作ってからでした。
―「春」という言葉を最初に聞いて、芽吹きのような生命の始まりを印象として受け取っていたので、それを志賀さんがやるのかと意外でした。でも、そうではないんですね。
でも、どっちもですね。春になると躁になる人を楽しそうとは思わなかったけれども、これが人間の本当の姿なんじゃないかと思えるくらいにすべての感情が身体から出ている感じがあって。それは、恐ろしくもあるわけで。
人間の春・カタトニア
―そういった両面をとらえながらイメージを作っていくうえで、意識していたことはありますか?
このスタジオのバックヤードで撮った「人間の春・カタトニア」(上)は、画面上で全部のバランスが崩れたイメージで作っていて。それは意識してやっていたのですが、それでも、写真の中で過剰なものが写るっていうことには限界があるんです。例えば、死体とか過激な写真ってものすごくたくさんあると思うけど、その状態まで持っていくのってなかなかできないんです。あと、自分が過剰な行為をすることが潜在的にできないこともあって。どこかで躊躇してるから。思いっきり何か目の前のものにぶちまけて、自分の暴力性を出して、ということを、やってもやっても、画面上には一切出てこない……という繰り返しの果てに、こういうものになっていきました。
―バランスを崩していくんですね。
イメージを作っていくというところでは「自由」の問題でもあるし、「悪」の問題でもあると思うのですが、倫理観みたいなものを取り払うのがすごく難しい。あと、それを取り払った後に、時には何者かをこの手で直接殺したら、こんな気持ちになるのかもしれないと、落ちてしまったり。
人間の春・ファントム
―気持ち的に落ちてしまうと。
落ちます。でも、最初は訳わかんないくらいに高揚するんですよ。でも、どれだけそういう気持ちになったとしても、表層のレベルではまったくそういうふうに見えてこない。世の中で目にする、写真も過激になっていますが、それって実はものすごいレベルのことが現実で起こっているからということでもあって。見る人が実は苦しく感じるイメージがどれだけあふれているか、などを考えました。「ヒューマン・スプリング」の中では、ソファーの上に横たわる女性の写真(「人間の春・ファントム(上)」)がその命綱を手繰り寄せるように、バランスを戻しています。
―なぜか安心感がありますね。
ありますよね。彼女の写真だけ、ほかとは違って深くピントが合ってるんです。私の中では宗教画的ですらあり、写り込んだすべてに意味がおのずとあるように感じています。
―撮る側のバランスを維持することは、難しくありませんでしたか?
今回はチームで動けたので、助けはすごくありました。私を入れて常時4人のチームでしたが、皆でやれば大丈夫。だから私の作品は、一人で作った作品ではないですね。制作時は、過酷な状況が多いのですが、みんなインディビジュアルに動ける人だから、予測不可能なことも迎え入れられました。春を失わないために
―「春」とともに「ヒューマン=(人間らしさ)」も重要だと思うのですが、人間と自然の関係性はどのようにとらえていますか?
人間らしさはいろんな人にさまざまな形であるとして、私の意識としてあるのは、人間が春を失わないかということですね。例えば、春という季節に自然の反応としての躁状態を排除するような社会になりかけていますよね。人間らしい部分が認められづらくなっていると。それはつまり、イコール自分たちの人間らしさや存在の意味を失うのではないのかということです。
―そのような社会の中で、写真の役割は、自分の存在や生を確かめるためのものになるのでしょうか?
写真の役割を一言でいえたらいいですが、この点において写真はものすごく恐ろしいメディアなんです。フラットなんですよね。例えば、凶悪なものも愛にあふれたものも均一に写すという。それゆえに写真は、愛にあふれていてかつ超残酷なもので。だから、いかようにも使えてしまうっていうところです。
―写真を伝えるうえで、志賀さんは演出面でも非常に特徴がありますよね。
「螺旋海岸」の展示では「喪」に服するようなイメージがありましたが、今回の展覧会ではどんな方向性になりそうでしょうか?「螺旋海岸」の時は写真の裏が見えるように、と思っていましたが、今回は一度にすべてを把握できない写真の大きさであることがひとつ。それだけ大きいということは、自分の身体を意識せざるを得なくなる。そして、一度に全部を把握できないということは、やっぱり春の複雑さにつながる気持ちもあって。あとは、見るということがどういう体験なのか、を問う展示でもある必要があると思っています。会場の中には写真しかないという状況にして、壁にはベンチがあり、見る人が寄りかかって座れるようにする予定です。
―今回のテーマって、ものすごく大きいと思うんです。そういった中で、作品を見る人に伝えたいことはありますか?
伝えたいことがあるから作品を作ることとは、少し違う気がしています。春の問題は、自分の身体の中に生じた個人的なことから「人間とは?」という問いを探していくことでもありました。一度見たものや体験したものをそのままにしておけないということがあるじゃないですか。作品を作るのは、そういうことに対する行動ですね。では、なぜ発表するのか、ということに関しては、作品が社会に出ていくことで、自分でも思ってもみなかったリアクションが返ってくるのが大切だからです。そのことが作品の中の問題をさらに深めていくだろうし、見てもらう人との関係になるわけだから、そういうつながり方というのは諦めたくないんですよね。つまり、一方的に伝えたいことを叫ぶというよりは……問題をシェアするにはどうしたらいいかという、試行錯誤だと思います。
―メッセージを伝えるよりも、問題をシェアする。
社会のいろいろなことが複雑になっているので、他者とどう共有し、語れるかは、私にとって死活問題です。そんな中で、撮影行為とか作品とか、一見しただけではわからないものが中心にドンとあることが、簡単な言葉だけでやりとりするような次元ではないということを共有できると思うんです。そのわからなさを共有することは意外と大事な気がしているというか。そうしないと、展覧会をやりました、で終わってしまうんです。
―「わからなさ」から語りが生まれるかもしれませんね。
個展でできることは、プログラム含めて全体的にどんな時間を作れるかを考えられることです。作品は訳のわからないようなものとしてあって、その周りでどういう話が持たれるか、そこで価値が決まると思うから、そういう場を大事にしたいと思います。なかなか複雑なテーマでもあるので、これで終わりというわけでもなく、始まりとしての「ヒューマン・スプリング」という感じもします。
タイトル | |
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会期 | 2019年3月5日(火)~5月6日(月・振休) |
会場 | 東京都写真美術館(東京都) |
時間 | 10:00~18:00(木金曜は20:00まで) |
休廊日 | 月曜(ただし4月29日、5月6日は開館) |
料金 | 【一般】700円【学生】600円【中高生・65歳以上】500円 |
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志賀理江子|Lieko Shiga
1980年、愛知県生まれ。2000年東京工芸大学写真学科中退後に渡英し、2004年にロンドンのChelsea College of Art and Design卒業。2008年よ り宮城県在住。2011年東日本大震災で被災しながらも制作を続け、2012年に 「螺旋海岸」展(せんだいメディアテーク)を開催。そのほかの展覧会に、15年「In the Wake」展(ボストン美術館)、「New Photography 2015」展(ニューヨーク近代美術館)、17年「ブラインド・デート」展(猪熊弦一郎現代美術館)など多数。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。