20世紀初頭のパリの街に溶け込む男
今日も男は、パリの路地を歩いていく。黒っぽい服装に、やはり黒のハット、さほど大きくはないけれどずっしりと重いカバン。誰かと話しているのを見たことはないし、石畳をゆっくりと踏みながら進んでいくその足音も、聞こえたことはない。もの静かなその男の、水をたたえたような大きな目の周りにはくっきりと皺が刻まれ、背中は少し曲がっている。男はあらかじめ悲しみを背負って生まれてきた人みたいに見える。誰もその男から悲しみを取り除くことはできないみたいに。
古めかしいカメラの入ったバッグを提げて、パリの町を進んでいく男の姿を、あるいは地下鉄の階段を下りていく後ろ姿を、20世紀初めのパリの人々は覚えているだろうか?人生の折り返し地点を過ぎてから写真を始め、30年間あまりにわたって、失われていくパリを克明に記録し続けた男――ウジェーヌ・アジェ。鬼籍に入るまでほとんど名を知られることなく過ぎた彼の人生は、まだ明らかになっていない点も多いのだが、それでもいくつかの断片的な事実を並べるだけでも、おぼろげな輪郭を与えてくれる。彼が写真に出会うまでの40年間の道のりを、まずはたどっていく。
ジャン=ウジェーヌ=オーギュスト・アジェが生まれたのは、1857年2月12日。フランス南西部ジロンド県、ドルドーニュ川近くのリブルヌという小さな町でのことだ。父は馬車の車体整備を生業とするジャン=ウジェーヌ=アジェ、母はクララ=アドリーヌ・ウルリエ。アジェの生後すぐに一家はボルドーに移り住み、父は行商人となるのだが、幼い息子が5歳になるかならないかのときに父はパリで客死。後を追うようにして母もこの世を去ってしまう。
両親を失くしたアジェを引き取ったのは、ボルドーにいた母方の祖父母。彼らの庇護のもと、アジェは成長していく。その後の少年時代については、多くは明らかではないのだが、しっかりとした教育を受けて神学校に入ったものの、学業半ばにして退学。商船の乗組員となった時期があるようだ。大きな船に揺られ、若きアジェは北アフリカや、遠く南米大陸などへも航海したという。
Eugène Atget (French, 1857 - 1927) Rue de la Corderie, negative 1911; print 1920 - 1929, Albumen silver print 22.5 × 17.9 cm (8 7/8 × 7 1/16 in.), 84.XM.1034.4 The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
地方回りの劇団で役者を夢見た青年時代
遠い海外で見聞を広めながらも、基本的にはボルドーの片田舎で暮らしてきたアジェだったが、1878年、21歳となってパリへ出ることを決意する。その胸にあったのは、役者になりたいという若者らしい想いだ。そうして国立高等音楽・舞踏学校(コンセルヴァトワール)を受験するのだが、一度目の挑戦は失敗。直後に、当時はまだ義務だった徴兵制度に応じて兵役につき、翌年の再受験で合格している。以降2年ほど、兵役の傍ら演劇の勉強にも励んだが、24歳のときには両立がいよいよ困難となって学校を退学。さらにこの年、育ての親である祖父母が亡くなり、アジェは全くの天涯孤独の身となってしまった。
目の前に未来へ通じるドアがいくつも待っているような、そしてどのドアを開けても希望しか見つからないような、そんなまばゆいばかりの若さにあふれる時期が、果たしてアジェにもあったのだろうか……? そんな心配を覚えるほどに、前半期の彼の人生は寄る辺ないものに映る。祖父母の死の翌年、兵役を終えたアジェはパリへと戻り、かつて学んだ学校のほど近くに居を構える。後のストラスブールの劇場監督で、長きにわたって信頼関係を築くことになる演劇人、アンドレ・カルメットと出会うのもこの頃だ。そんなつながりもあってのことだろうか、アジェはついに旅回りの小さな劇団の一員となる。
25歳のこのときから、続く10年ほどの日々を、アジェは旅役者として過ごす。決して短くはない期間、演劇に身を投じたわけだが、残念ながら全くぱっとしない役者人生であったらしい。この頃のプログラムに名前が載るわけでもなく、はたまた演劇人としての肖像写真が残っている様子もない。万年端役止まりで、同じ立場の多くの役者と同じく生活は苦しかったようである。
唯一明るいニュースがあったとすれば、1886年、29歳の頃に、生涯の伴侶となるヴァランティーヌ・ドラフォスと出会ったこと。自分より10歳上の39歳、8歳になる息子もいた彼女とアジェとは恋に落ち、生活を共にするようになる。ヴァランティーヌもやはり旅回りの役者だったが、両親や親戚にも役者のいる芸能家系の出。二人はさまざまな町に滞在しながら一緒に巡業を続けるようになる。この頃のアジェの足跡をたどることができるのは、ひとえにヴァランティーヌのおかげだ ―― 彼女は順調にキャリアを積み上げていたのだ。それとは裏腹に、無名のままのアジェ。焦りや劣等感に苛まれてのことだろうか、1887年頃には役者としての道を断念。巡業の仕事を続ける妻としばし離れ、またパリの住居も手放して地方へと移っている。
その後の数年間のアジェの動向はあまりよくわかっていない。長くこだわり続けてきた演劇の道を断たれた彼は、誰も知る者のない土地で、何を思っていたのだろう?一説によると最初のカメラを手にしたのもこの頃。
とはいえそれはまだ、本当の意味での写真との出会いではなかったようだ。1890年、パリに戻ったアジェは、画家になろうと決意し、絵を描き始めるのである。ほとんど突然に見える決断ながら、ひたむきな挑戦だったが、実を結びそうにはなく、すぐにアジェは次なる生業へと移る。それが写真であった。
Eugène Atget (French, 1857 - 1927) 25, Rue des Blancs Manteaux (Café, rue des Blancs Manteaux), 1900, Albumen silver print 21.9 × 17.8 cm (8 5/8 × 7 in.), 90.XM.45.2 The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
失われゆくパリを丹念に記録する試み
「芸術家のための資料」――それが、1892年、35歳となったアジェの住まいのドアに掲げられた看板の謳い文句だ。アーティストたちのデッサンや作品制作の資料となる写真の撮影や、絵画の複写を行う商売に、彼は活路を見いだそうとしたのだ。とはいえそういった写真はまだ、19世紀を席巻した絵画的写真の影響を受けたもの。売れ行きは芳しくなかったが、アジェは、今回ばかりは志半ばで道を諦めなかった。そうして根気強く撮り続け、1897年、40歳を過ぎた頃に大きな変わり目を迎える。写真によってパリを記録する試みを始めるのだ。
教会や裁判所、さまざまな屋敷や庭園、広場といった古い建造物や店先、馬車、看板、路上の小さな店々で働く人々……。被写体となったのは、そんな古き良きパリの姿だ。20世紀を目前にしたこの街が、急激に変化しつつあったことが、その背景に存在していたのは想像に難くない。
努力はついに実を結んだ。1899年に終の住処となるモンパルナスへと移る頃とほぼ時を同じくして、パリ市歴史図書館へ約100点の写真を売却。その資料価値が認められ、いくつもの固定客がつくようになる。この時期から第一次世界大戦に至る約15年ほどが、アジェが最も精力的かつ生産的に写真を撮った時期なのだが、これは、パリが世界の首都へと転換していった時代にぴったりと符合している。
産業革命が進んで技術が目覚ましい発展を遂げ、1889年にはエッフェル塔が完成、さらに翌年にはパリ万博が開催。増える一方の交通量に対応できるよう、最初の地下鉄が開通したのも万博と同じ1900年だ。文化面でも爛熟期を迎え、ピカソやマティス、ルノワールといった多くの画家や芸術家たちが活躍する……。
いまとなってみればアジェもこの“ベル・エポック”の時代に生きた芸術家の一人ではあるのだが、彼の写真にそれら華やかなりし時代の一切を読みとることは不可能だ。彼のフレームに収まったのは、あくまで先に挙げたような失われゆく街の姿であり、街角の小さな店で働く人々だったのである。例えばこれら写真を、アンリ・ラルティーグの写真と比較することで、アジェをたとえることができるかもしれない。1894年生まれのラルティーグは、裕福な家庭に生まれ、ベル・エポックに浮かれるパリで幼少期を過ごす。ごく幼い時期にカメラに触れた彼の写真には、享楽的で華やかなその時代の影響が色濃い。翻ってアジェは、新しい時代を断固として拒否するかのように写さないのだが、その事実こそが、逆説的にアジェを語るようにみえるのだ。
“写さなかったもの”もまた、“写したもの”と同様に雄弁だ――ラルティーグとはまるで反対に、裕福さとは無縁で、孤独と失敗とが繰り返される人生を送ってきたアジェ。その眼差しは、避けようもなく光を浴びるベル・エポックの影に注がれるようになる。消極的にみえて揺るがすことのできない頑なさを持った、アジェの姿が浮かび上がってくる。
Eugène Atget (French, 1857 - 1927) [Boutique de bandagiste], 1920–1927, Gelatin silver chloride printing-out paper print 22.5 × 18.1 cm (8 7/8 × 7 1/8 in.), 90.XM.64.6 The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
すべてを一人でこなす商業カメラマン
18 ×24cmのガラス乾板を用いる大型のビューカメラ、焦点深度が大きくなる短焦点レンズ、木製の三脚。フィルムが浸透し始めていた当時からしても古めかしい機材だけを使って、アジェはパリを細かに歩き、写真のかたちで収集していく。ゆうに20キロを超える機材を一人で運び、目指す街角で三脚を立ててカメラと乾板をセットすると、体ごと暗幕のなかに収めてピントを合わせてシャッターを切る。アジェのそんな姿は、いつしか街の一部となっていったのだろうか。精力的にパリを撮り始めて以来、彼が乾板にとどめた像は5万点あまりにもなる。
写真の買い手は図書館、博物館、美術館、学校といった公共機関がほとんど。最初に彼の写真を購入したパリ市歴史図書館がアジェのいちばんの上顧客で、1914年までに売却したパリとパリ郊外の写真の数は5552点を数える。この写真を調べると、偏りはあるもののパリ市内の20区すべてを、見事なまでに隈なく撮影して回っていることがわかる。加えて、後年行われた子細な調査によって、写真にストイックに向き合い続けたアジェの姿が、少しずつ明らかになってきた。
撮影を行うのは、パリの日の短い季節を除いた3月から10月までの時期。夜明けと同時に起きだすと、モンパルナスのアパートを出て、その日の撮影場所へと向かう。運べる機材や写真乾板の量は限られているため、一日のうちに撮影できるのは6〜9点(あるいは一度家に戻って再び出かけた日もあったかもしれないが)。
撮影を終えた乾板は、早ければその日のうち、遅くとも数日以内に現像してナンバリングする。気候のいい夏には特に集中してプリントを行い、また索引帳を作った。それは撮りためた写真をテーマとサブテーマで分類し、セット購入しやすいようさまざまな順序で並べてファイリング、さらにそれぞれのプリントにはネガの番号や日付が入れるという几帳面なものだった。そうして冬へと向かう季節がやって来ると顧客のもとに参じて営業をかけ、数枚のプリントによる組み写真として、あるいはセットのアルバムとして売る。一年中を通じて取引きのあったパリ市歴史図書館などは例外だが、多くの商談は1月から6月の間に行ったという。
役者を引退後に再びパリで一緒に過ごすようになった妻、ヴァランティーヌが暗室作業などを手伝うことはあったようだが、写真の売却によって生活が安定した後も、基本的にはすべての仕事をアジェはただ一人でこなした。同時代の芸術家や写真家との交流は一切なし。写真家というより生真面目な個人商店の経営者という方がふさわしい仕事ぶりであった。
被写体の傾向、また撮影方法に細かな変化があったり、また重い胃潰瘍を患って撮影枚数がかなり減った1908年のような年があったりはしたものの、実直にパリを記録していくという大筋からはまるでぶれることなく、アジェは写真を撮り続ける。
しかし世紀の転換点を過ぎたパリには、その次の時代の変化が訪れようとしていた。第一次世界大戦だ。1914年、アジェ57歳のときに勃発したこの戦争によって、緊縮下にあるパリの街を撮影することは難しくなる。加えて老境に至り、気力を失いかけてもいた――1918年に戦争は終結するが、アジェがもとのような旺盛な撮影の時期へと戻ることはなかった。
戦争によって街が荒れ果ててしまったこと、そして妻の連れ子としてかわいがってきた(アジェと妻の間には子どもはない)一人息子が、戦線で命を落としたことも、当然ながら影響しただろう。
最晩年といえるこの後の期間に撮られた写真は、さほど多くはない。とはいえ68歳の頃に初めて撮ったパリ南郊外のソー庭園のシリーズや、それまでほとんど写すことのなかったショーウィンドーの写真など、それまでの記録写真とはどこか違う、目を奪われる写真がいくつも見つかるのも事実だ。それら写真の中に見える、荒れ果てたソー庭園や、ショーウィンドーの中で空虚な微笑みを向けるマネキンに、何か底はかとない悲しみ、哀れみが見えてこないだろうか。
それはおそらく、アジェが人生を通じて背負ってきた悲しみそのものだ。禁欲的なまでに自分を律し、写真には写し込むことのなかった感情が、技術と精神とが充実したこの老境に至って、発揮された証しなのかもしれない。
Eugène Atget (French, 1857 - 1927) [Salon de Coiffure (Hairdresser's Shop)], 1926, Gelatin silver chloride printing-out paper print 18.1 × 22.9 cm (7 1/8 × 9 in.), 90.XM.64.21 The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
死後の評価を左右する理解者との出会い
毎日のようには撮影へ出かけることのなくなった晩年のアジェ。血縁者のいない自らの人生の終焉を間近に感じていたのか、あるいは自分の写真の記録的な価値を改めて認識したのか、この頃に写真の売りかたを大きく変えている。プリントだけではなく、原板も含めて売却するようになるのだ。
人となりについての記録や、自身の発言などが極端に少ないアジェだが、1920年に、時の教育・芸術省へネガを売り込んだ際にしたためた手紙は、彼の自分の写真に対する考えを、きわめて正確に語っている。
「私は過去20年以上にわたり、自分の意志と勤勉を捧げて、パリのすべての古い通りを写真に撮り続けてきました。18 ×24センチのガラス乾板による、16~19世紀の美しい建築に関する芸術的資料です。古い館、歴史的あるいは興味深い家々、優雅なファサード、ドアノッカー、古い噴水、木や鉄製の階段、パリすべての教会のインテリア(全景と芸術的に美しいディテール)などを含みます。例えばノートルダム大聖堂、サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会、サン・セヴラン教会、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会、サンテティエンヌ・デュ・モン教会、サン・ロック教会、サン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会などの写真です。
この芸術的かつ資料価値もある膨大なコレクションは、すでに完成しています。すべての古きパリが、私の手の中にあるといって差し支えないのです。
70歳近い高齢となり、相続人も後継者もいない身ですので、これらの写真が、価値を理解できない人々の手に渡り、誰にも利用されることなく、最後には紛失しかねないことを思うと心配ですし、心苦しくもあります。」
手紙に込めた思いは通じ、教育・芸術省へ2,600点のネガを売却。さらに翌年にはパリ市史跡委員会へ2,500点のネガを売却して、アジェは金銭的、心理的な安定を得る。先に挙げた晩年の写真の充実感の理由のひとつは、この辺りにもあるのだろう。
ところでアジェがソー庭園を撮り始めた1925年には、もうひとつ肝要な出来事があった。後にアジェを世界に送りだすこととなる写真家、ベレニス・アボットとの出会いだ。オハイオ生まれだが長じてパリへとわたり、マン・レイに師事していたアボットは、師が数点持っていたアジェの写真を見て感銘を受ける。ごく身近な被写体の中に表れる真実が、彼女の心を強く打ったのだ。
間を置かずして彼女は、アジェを彼のアパートに訪ねた。初めのうちは無口で、何冊かのアルバムを黙って差し出すばかりだったアジェだが、アボットがまだ少ない稼ぎから数枚の写真を購入し、その後も度々訪れるうちに、次第に打ち解けるようになる。ヴァランティーヌを加えた3人でテーブルを囲み、昔話に花を咲かせることもあったという。
誰かの影響を受けることも、誰かに影響を与えることもなく、愚直なまでのストイックさだけを頼りに、一人で写真を撮り続けてきたアジェ。アボットやマン・レイの人脈によって、その写真は評価され、個人的に買い入れる者も現れ始める。
真っ当に自分の写真を見てくれる人々を得て、一人の「写真家」になりかからんとしていた彼だが、残念ながらその出会いは遅すぎたようだ――1926年、40年間連れ添った妻ヴァランティーヌが79歳で亡くなると、アジェには失意の日々が訪れた。演劇に挫折し、絵画を志すも再び挫折、いくつもの難局を経てきた彼を、陰に日向に支えてきてくれた彼女の存在なしで、創作に向かうのはどんなかたちであれ難しかった。
1927年、独立してパリにスタジオを開いていたアボットのもとを、それまで見たこともない一張羅をまとったアジェが訪れる。どうしてもポートレイトを撮りたいという若き友人の願いに、アジェは最後の気力を振り絞って応えたのだった。長く写真で生業を立てながらも、講演などを頼まれれば“元役者”だと名乗ったというアジェにとって、アボットのカメラの前に立つことは、一世一代の大舞台だったのかもしれない。
刺激を受けたかのようにしばらくの間、撮影を再開したアジェだったが、病に倒れ、暑い盛りの8月4日にこの世を去る。妻の死から1年と少しが過ぎたばかり、70年の人生だった。
Eugène Atget (French, 1857 - 1927) Fête du Trône, 1923, Albumen silver print 17.8 × 22.5 cm (7 × 8 7/8 in.), 90.XM.64.185 The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
死後に明らかになった「写真家」の実力
アジェの死後、遺言状によって彼の写真の管理人となっていた長年の友人、アンドレ・カルメットは、約2,000点のネガをパリ市史跡委員会へと譲渡する。家族を除けばアジェの最初の熱烈なファンであり、いまや最大の理解者ともなっていたアボットは、残りの貴重なネガやプリントが散らばってしまうことを恐れて力を尽くす。そうして同じくアジェの写真に心酔していたニューヨークの美術関係者、ジュリアン・レヴィに資金援助を受けて、残りのネガ約1,000点と、プリント5,000点を手に入れるのだ。
アジェが「心苦しい」と書き記した、写真がバラバラになってしまう事態は、それまでのように彼の写真に“資料的価値”を見いだす公的機関などではなく、写真自身の持つ、もっと大きな力に惚れ込んだ者たちによって救われたのである。
その後、1928年にはパリでマン・レイ所有と思われるアジェの写真数点を展示。翌年にはアボット所有の写真がシュトゥットガルトの展覧会でお披露目される。さらにその翌年には、アジェ初の写真集となる『アジェ、パリの写真家(Atget Photographe de Paris)』がパリ、ニューヨーク、ライプツィヒで出版され、ニューヨークで展示も行ったが、残念なことに評価されぬまま終わる。
しかしアボットは諦めなかった―― 自らとレヴィのコレクションをしかるべき美術館へ収めようと、いくつもの候補と協議を重ねて、1968年ニューヨーク近代美術館へ売却するのだ。こうしてアジェの作品とその人生とが徹底的に研究され、その業績が次第に脚光を浴びることとなる。
とはいえ、写真界では全くといっていいほど評価を受けぬまま生涯を閉じたアジェの人生には、まだまだ埋めることのできない余白がある。そのため、彼の写真のとらえかたにも諸説あるのだが、「古き良きパリ」に固執した人としてだけ見なすと、この人の本質の部分は、こぼれ落ちてしまうだろう。
こんなエピソードがある。アボットとアジェの邂逅のきっかけをつくったマン・レイは、アジェの写真の数点にシュルレアリスムを感じることを特に気に入っていたという。そこで、アジェの死の数年前、雑誌『シュルレアリスト革命』に、アジェの写真を掲載する許可を、本人から得たのだが、自分の写真が曲解されることを恐れたアジェは、掲載するならば匿名とするよう、マン・レイに要求したのだ。
「それは記録(document)であって、ほかの何ものでもない」
アジェは短くも明快な言葉で、そう語ったという。
あくまで市井の一人の視点から、緻密な記録を集積することで、自分の属する世界を紡ごうとした人。それを粘り強い労働者ならではの実行力でやり遂げた人。それが本来のアジェなのだ。その制作過程に、自己表現の願望はまるで存在しないが、長い時間と労力を注いだことで、「記録」も「自己表現」も超えた力を、アジェの写真は獲得したのだ。
「写真家」になることを、生涯のうちに全く求めることのなかったアジェ。その彼がいまや揺るぎない評価を得たことに、写真の、そして芸術の持つ皮肉とも不可思議ともいえる深みが横たわっている。
ウジェーヌ・アジェ|Jean-Eugene Atget
1857年フランス、ボルドー生まれ。幼い頃に両親を失い、学校を中退後、商船に乗り込むが、やがてパリに戻って役者を目指す。その後、画家を経て、40歳を過ぎてから生活のために写真を始める。亡くなるまでの約30年に、変わりゆくパリの街や建築、意匠など約8000枚におよぶ写真を撮影。その多くを市立図書館が購買。没後に公表され、都市写真の模範作品として称賛され、近代写真の父と呼ばれる。1927年逝去。
阿久根佐和子|Sawako Akune
文筆家。鹿児島県生まれ。東京大学文学部卒業(英語英米文学)。雑誌への執筆のほか、翻訳、書籍構成なども手がける。2011年、東京・浅草にオルタナティブ・スペース「GINGRICH(ギングリッチ)」をオープンした。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。