3 February 2022

川内倫子の日々 vol.13

浅葉さんのこと

3 February 2022

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川内倫子の日々 vol.13「浅葉さんのこと」 | 川内倫子の日々 vol.13

浅葉さんのこと

自分が写真家として活動する最初のきっかけとなったのは、1997年にリクルート主催のコンペに応募したことだった。一次審査でポートフォリオを提出し、二次審査は選ばれた数名でグループ展を開催。会場でプレゼンテーションを審査員のまえで発表してグランプリを決める、という流れだった。

当時、携帯電話があまり普及していなかったので、一人暮らしのアパートに帰宅して留守番電話をチェックするのが常だったのだが、ポートフォリオを提出してからしばらくしたある日、自宅の留守番電話に「浅葉克己と申します。また電話します。」と録音されていて驚いた。

友達の誰かがいたずらで有名なアートディレクターの名前を語ったのかな、とその日は思って受け流した。ところが翌日も翌々日も同じ内容の留守電が入っていたのでこれは本物かも、と思い、雑誌の付録についていた広告業界の関係者の電話帳で浅葉克己デザイン室の電話番号を調べて電話してみた。もしかしてお電話いただきましたでしょうか、と聞くと「作品ファイル見たよ、いい写真だね。一緒に仕事しよう」と言われ、また驚いた。浅葉さんがコンペの審査員のひとりであったことを知ってはいたが、その時点でまだ一次審査が通った知らせも受けていなかったからだ。

そのあとすぐにその知らせは届き、浅葉さんの事務所に打ち合わせに行くことになった。依頼による撮影の仕事と、作家としてのキャリアが同時にスタートしたのだった。

初仕事は大手製薬会社の雑誌広告だった。滋養強壮剤としてロングセラーとなっている商品のイメージを、新たな角度からシリーズで広告化するという。様々な地方で行われる「力強さ」を感じるお祭りを取材し、その決定的瞬間を一枚に捉える、という趣旨であった。広告代理店の担当者の方とのはじめての打ち合わせの際、浅葉さんから紹介されたからお願いするけど大丈夫?と心配された。スタジオ勤めをしたことがあるとはいえ、経験の少ない自分に、撮り直しのきかない大手企業の仕事、、心配するよね、もちろん、、自分も不安。と内心思ったが口には出さずに頑張ります、とだけ言ったように覚えている。

そして撮影当日、神輿を担いだ大勢の男の人たちがぶつかり合う場面を狙うことになった。夜遅くにそのクライマックスを迎えるのだが、そこが一番盛り上がるのでよく見渡せるお宅の屋根を借りてその上から撮影することになった。フイルムで撮影するには感度が足りず、現像時に増感するにしても光量が足りなかったので、ストロボとHMIの大型ライトを準備した。アシスタントとして同じスタジオに勤めていた友人がふたりついてくれ、浅葉さんと広告制作会社の方々、クライアントさんに見守られながら、なんとか撮影を終えた。難しい条件下の撮影で、もちろん失敗はできないから緊張したが、撮り終わったあとは祭りの興奮も手伝って心地よい充実感があった。

その後も途切れなく浅葉さんから仕事をいただいた。浅葉さんは撮影現場ではいつもイッセイミヤケさんの綺麗な色の服を着て、静かに見守ってくれた。そして出来上がったものをいつもほめてくれた。一枚だけ選ぶときは迷わずにさっと選ばれて、これしかないね、これでいこうよ!と、制作現場の空気をいつもきりっと引き締めながら牽引されるリーダーシップを見せてもらえた。今振り返ると色々な勉強をさせてもらえて、貴重な体験だった。

そして気がつけばフリーランスで生活できるようになっていた。とはいえ浅葉さん以外の仕事は少なく、コンペでグランプリをいただいたおかげで一度個展は開催できたが、その後作家活動をどのように展開していけばいいかもわからず、焦りのようなものがだんだん出てきた。自分は写真家という肩書きを名乗ってもいいのだろうか、まずは代表作になるようなものをつくらなくては、と思いながら試行錯誤の日々だったが、その一方で、浅葉さんの仕事の現場でたくさんの方々を紹介していただき、そのたびに「天才写真家の倫子だよ、すごい写真撮るんだよ」と言ってくださった。ありがたいことだが、自分は自信がなかったので恥ずかしい気持ちが先に立ち、だんだんプレッシャーのように感じるようになった。

浅葉さんは「倫子は依頼の仕事も作品も、どちらもできるから頑張ってやっていこう」といつも励ましてくれていたのに、自分はそう思えないようになっていった。若かったのだ。

そんな折、レギュラーとしての大きな仕事をいただいた。当初はなんとか頑張ろうと思っていたが、打ち合わせを重ねるにつれ、コンセプトがどんどん変更になり、最終的にロケ撮影がスタジオ撮影に変わった。それはよくあることだし、仕方のないことだったが、その時自分なかで溜め込んでいたものがパチンと弾けてしまったようだった。眠れないまま翌日浅葉さんの事務所に行き、本当にすみません、うまく撮影できる自信がなくなってしまったのでほかの方にお願いしてもらいたいです、と泣きながら頭を下げた。恩を仇で返すようなことをしてしまい、自分でもどうしていいのかわからなかったが、そのときはそうすることしかできなかった。浅葉さんはわたしを責めなかったが、当然ながらだんだん撮影の依頼は減っていった。

その後収入は減ったが、更地に戻ったような感じで作品を作ろうと思った。いつか浅葉さんにまた作品を見てもらうことしか自分にできることはないなと思うと、それはいいプレッシャーのような気がした。

その後しばらくして木村伊兵衛賞を受賞した際、受賞式で浅葉さんに恩人代表としてスピーチをいただいたり、数年に一度くらいお会いする機会はあったのだが、ここしばらくはその機会もなくなっていた。また会いたいなと思っていたところ、同じく浅葉さんにお世話になったご縁で仲良くなった友人たちが、自分も会いたいから一緒に事務所に行こうよ、と日時をセッティングしてくれたので、年明けの挨拶も兼ねて日曜日の昼下がりに会いに行った。

イタリア人建築家による金色の壁が特徴的な建物の、浅葉デザイン室のまえに久しぶりに立った時、毎週のように通っていた20年以上前の記憶が鮮やかに蘇った。少し緊張してなかに入ると変わらない空気に包まれ、自分はすっかりあの頃に戻ったようだった。

浅葉さんと奥さんが笑顔で出迎えてくれて、ここ最近の自分の出版物を見てもらったりしながら、それぞれの思い出話や近況報告などですぐに時間は過ぎた。そのあいだずっと浅葉さんの父性のようなものに包まれている感じがして、それは以前と変わらずに大きなものだった。フリーランスになりたてだった自分は、この目に見えない大きなものに守られていたのだと気づき、巣に戻ったような気持ちになった。

つぎは一緒にご飯しましょうね、と言い合いながらお別れし、20年前とは随分変わった表参道の街並みを眺めた。

家に帰って夕飯を食べながら夫にきょうの出来事を報告した。時間が経ったけど、あのときのお礼をいましっかり伝えられてほっとした、と言ったとき、自分のなかに残っていた一部分、20代のがちがちに固まっていた若いあの人が溶けていくような感じがした。まだあの頃の自分がそのままいたんだな、と思いながら涙がこぼれて止まらなかった。

先に食事が終わって遊んでいた娘がそれに気づき、どうしたの、大丈夫?と頭を撫でてくれた。その小さな手の感触が、ますますその部分を溶かしていくようだった。

川内倫子の日々 vol.13

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