彼女
滋賀県立美術館の展示も無事はじまり、普段の自分のペースがだんだんと戻ってきたようだ。
振り返るとちょうど一年くらいまえから本格的にオペラシティの展示の準備が始まり、日に日にその作業量が増えていき、忙しさは加速していった。展示初日にそのピークを迎えたものの、その後は取材や滋賀美の準備などに追われ、常になにかを抱えているような状態が続いていた。
2月に入ってからは張り詰めていたものが和らぎ、自分の日常に帰ってきた気持ちになる。
夕飯になにか旬のもので作ったことのない料理をつくってみよう、ヨガのあとに足を延ばしていつもは行かないパン屋さんに寄り道しようか、など、気持ち的に余裕がないとできないことをしてみようと行動するとき、日常に戻ってきた感じがするのだ。
ずっと行けなかった健康診断も済ませ、映画館にも久しぶりに行くことができた。
ただ、くたびれているのか、スナップ写真を撮ることが少なくなった。少し休むことができたら、それもまた自分の日々の一部として戻ってくるだろう。
そんな2月が過ぎ去ろうとした月末、東京の友人の自宅に泊まった。
彼女は長年勤めた会社を辞め、去年ワインバーをオープンしたばかりだ。
前職は飲食系ではなかったため、会社を辞めてからしばらくいくつかのお店で修行をしたりパソコン教室に通ったりして、知識を増やしていった話も時々聞いていた。その傍ら、子どもを支援するボランティア活動も並行して行っていて、頭を垂れる思いになる。
東京で仕事があるときは、時々彼女の店に寄ってそのまま近くの彼女の自宅に泊まることがある。翌日午前中に予定がないときは、そのまま部屋でPCを開いてデスクワークをしたりする。長い付き合いの彼女と一緒にいることは家族と一緒にいるように、お互いに気を使いすぎずに居心地がいいのだ。
東京の事務所でひとり作業するよりも捗る気がするのは、合間に彼女とたわいもないおしゃべりをすることで脳がうまくリフレッシュできるせいかもしれない。
自宅にいると家事や育児が気になるし、東京の事務所にいると仕事のことであたまがいっぱいになるから、彼女の自宅が自分にとってちょうどよく自分自身がリセットできる場所みたいなのだ。
それは自分と同年代でまったく新しいことを始めた彼女の放つ空気に触れることで、自分も心地いい緊張感と勇気をもらえるからということもあるのだろう。
そんな彼女を間近で見ていると、以前同じように飲食業に憧れた自分を思い出す。
30代半ばの頃、初めて自分の仕事に疲れたことがあった。20歳で写真を始めてからずっと、そんなふうに思ったことはなくて戸惑った。写真をやめたいとは思わなかったが、依頼の仕事を引き受けることに葛藤もあった時期だった。それで経済的な活動はほかの仕事をするのがいいのでは、それなら好きな料理を勉強して飲食店で働くという選択肢もあるのではないか、と思ったのだった。当時は写真以外のなにか、自分の人生で試してみたいことはないのかという思いもあったのだと思う。このまま進んでいっていいのだろうかと。
結局、飲食業に進みたいという気持ちに蓋をして、外国に住んで英語を勉強してみよう、というミッションを自分に課してそれを実行した。ほかの仕事をするにしても、そういった経験が先に必要な気がしたのだった。
結局1年くらいニューヨークでの生活を経験して、自分のなかで新しいことをしたい欲は収まった。依頼の仕事をあまりしなかった分、メンタル的にもチャージできたようで、また元の仕事へ戻り、飲食業への道は開かれなかった。
いま少しくたびれている自分も、少し時間が経てばまた活動的になるのかもしれない。
お店が定休日だった友人と、彼女の家の近くにある中華のお店に夕飯を食べに行くことにした。以前友人がお母さんと行って美味しかったそうで、もう一度行きたかったとのこと。じゃあお母さんも誘おうよ、ということで、すぐ近くに住んでいるお母さんも一緒に3人で食事した。こんなお店が近所にあるなんて羨ましいと何度も言いながら、一品ずつ丁寧に作られた料理の数々を、下ごしらえの巧さだとか素材の選び方だとか、肉の処理の仕方がいかに素晴らしくて美味しいか、などとそれぞれに話しながら食べた。
食後にお茶を飲みながら、このレベルの料理をつくるには、自分では到底かなわないし追いつけないなあと思い、やはり自分は自分の仕事の道でこれからも精進していくしかないと思った。
帰り道、3人で一列になって自転車を漕いだ。友人に借りた自転車は電動式で、一漕ぎするごとにぐっと加速して軽くなる。初めて乗ったから、その独特な感覚が面白くて何度もふっと軽く進む感じを味わった。
しばらく走ると、自分の人生をもっと楽しみながら進んでいけるような気持ちになるような錯覚もあり、だんだんと愉快な気持ちになった。
そして友人とそのお母さんと一緒に自転車を漕ぐ、というシュチュエーションは小学生の頃を思い出させた。あの頃の自分が重なって、いまも自分のなかにいる、小さなあの子が喜んでいるのがわかる。
日々のいろいろから解放されて、自分を構成する粒子が夜道に散らばって遠くまで溶けていくようだった。
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