IMAが主宰する「STEP OUT!」とは、日本人の若手写真家を発掘し、世界へ羽ばたくサポートをすることを目的とした多様なプログラム。これまでにポートフォリオレヴューの開催や雑誌『IMA』、グループ展を通して作品紹介などを行なってきた。新たにスタートしたIMA ONLINE版の新連載では、毎回ひとりの若手作家をフィーチャーし、書き手にキュレーターの若山満大を迎え、常に変化してやまない新たな写真表現を掘り下げる。第2回目は、写真家、黑田菜月。黑田は写真を媒介として、人と人、それぞれの記憶と言葉を結びつけるような作品を制作している。出来事を写真に写すこと以上に、接点として機能する写真表現を追求する黑田の、そのまなざしをひもとく。
テキスト=若山満大
画像が氾濫する時代。どんな映像も見る者に衝撃を与えられない、不感症のような時代。こんな時代に写真家は一体何を撮ればいいのか?——という絶望の声はしばしば耳にする。昨今、写真のポテンシャルはだいぶ低めに見積もられている。写真にできることはもうやり尽くされた。そう思っている人もきっと多いのだろう。気持ちはわかる。
しかし、ごくたまに「写真にはまだこんなことができるんだ」と気づかせてくれるアーティストがいる。黑田菜月は、その一人だ。彼女は実にユニークな写真の使い方をする。ユニークな仕方で写真を考えていると言った方が適切かもしれない。落ち着いて、衒いなく、誠実に、写真それ自体と向き合って信頼していくこと。それ自体が表現になることを彼女の作品は示している。
《部屋の写真》(2021)は、黑田が介護現場で働く人々にインタビューを行った映像作品である。ここで黑田は介護者に写真を手渡す。その写真には、介護者自身がかつて介護した人の部屋が写っている。介護者たちは写真を見ながら当時のことを語っていく。写真が介護者から言葉を引き出し、発話させる。映像の鑑賞者は、介護者が経験した現実を心象として再現し、写真の上に重ねていく。介護者によって生きられた現実と鑑賞者が想像する「現実」は、おそらく完全には一致しない。しかし、それでも介護者と鑑賞者の間には、ある種のコミュニケーションが成立している。
黑田が表現する「写真」とは、ある主観と別の主観が接する場である。美しくインパクトがある1枚でもなければ、何かのプロセスの記録でもない。人と人の間で機能する、働きとしての写真に彼女は注目する。
《動物園で見つめる先に、》(2022)では、動物園が人・動物・動物のオブジェの視線がすれ違う空間として表現されている。この1枚1枚の写真の中にも、やはり複数の主観/現実が、溶け合わず、侵し合わず、しかし接し合っている。
写真は見るものだし、見るためのものだ。撮る者の現実であり、見る者の現実である。しかし、黑田はその見方を一旦保留にする。写真は複数の現実が接し合う場であるという視点から撮れば、写真にはまだこんなに興味深いものが写るのだ。
黑田菜月|Kuroda Natsuki
1988年、神奈川生まれ。2011年、中央大学卒業。2013年、第8回写真「1_WALL」にてグランプリを受賞。これまでの主な展覧会に、「けはいをひめてる」(ガーディアン・ガーデン/東京、2014年)、「私の腕を掴む人」(ニコンサロン/東京、2017年)、「αMプロジェクト2020–2021『約束の凝集』vol. 3 黑田菜月|写真が始まる」(gallery αM/東京、2021年)、「仙台写真月間 『動物園で見つめる先に』」(SARP/仙台、2022年)などがある。
https://www.kurodanatsuki.com/
若山満大|Mitsuhiro Wakayama
1990年、岐阜県養老町生まれ。東京ステーションギャラリー学芸員。愛知県美術館、アーツ前橋などを経て現職。最近の著作に『Photography? End? 7つのヴィジョンと7つの写真的経験』(magic hour edition)、「非常時の家族 — 戦中日本の慰問写真帖について」(『FOUR-D note’s』掲載)、『やわらかい露営の夢を結ばせて —戦中日本の慰問写真に関する断章』(『パンのパン03』所収)など。主な企画展に「写真的曖昧」「甲斐荘楠音の全貌」「鉄道と美術の150年」などがある。