畏れ
長かった猛暑も夏休みが終盤を迎えた頃には収まってきて、夜は鈴虫が鳴き出した。毎年のことながら年々激しさが増す残暑に辟易としつつ、過ごしやすい秋が来ることにほっとし、少しの寂しさが湧き上がる。毎年夏だけ帰国するヨーロッパ在住の友人家族と過ごす時間が終わること、夏だけに感じる、生のエネルギーの強さが今年も終わってしまうことが寂しくて相反する気持ちを抱えつつ新学期がはじまった。
娘の学校が始まったことで自分の生活も通常モードに戻り、やっと仕事に集中できるので溜まった仕事を午前中片付けていたら、始業式で授業もなくあっという間に娘が帰ってきた。
久しぶりの学校はどうだった?と聞くと、楽しかったよ、みんな元気だったけど、ひとりだけ来なかったよ、と言う。その子は体調が悪いのかな?と聞いたら心がもやもやしてるんだって。ということ。夏休み明けは学校に行きたくない気持ちになる子もいるだろうね、○○(娘の名前)は大丈夫?学校楽しかった?と聞くと、うんとうなずいたので問題ないだろうとその日は思っていた。
翌日夕飯の支度をしていると、きょうは甘えたい気分なんだ、と抱きついてきたのでしばらくハグし、その後は普通にしていたが夜ベッドに入ると「死にたくない、死ぬのが怖い」と言い出した。眠るまえにそのように言うのは4、5歳の頃からよくあったので、また言い出したなと思い、しばらくなだめるとその日はすぐ眠った。
ところが翌日夕飯の支度時にまた同じように死ぬのが怖い、と言い出し、なだめたがおさまらない。自分が死ぬことだけではなく、先に両親が死んでひとりになるのも怖い、生まれ変わってもいまの記憶がなくなっているだろうし、いつかいまの生活がなくなってしまうことがものすごくいやだと言う。
テレビを見て気分転換させようとしたが、たまたまつけたテレビのアニメのなかに宇宙のシーンがあってそれが怖いとますます泣き止まず、いくらなだめてもさらに激しく泣くばかりでこちらも見ていて胸が痛んだ。とりあえずご飯できたから食べようと落ち着かせたが、食欲もないようで箸が進まない。いつも食事はしっかり食べるのでそんなことは初めてで驚いた。
世の中の仕組みがわかってしまったのだなあ、、それは辛いよね、と思いつつ、とにかく安心させる言葉をいろいろとかけてみたが納得しない。自分も娘ぐらいの年齢のときは、家族のなかで一番年上の祖父が亡くなることが怖くて、夜布団のなかで祖父が死なないように祈ったことを思い出した。
そういった気づきや感情の芽生えは、成長の過程でよくあることなのだろうが、子どもが死の恐怖に対面していると思うと居た堪れない。
夏休み中は入れ替わり立ち替わりに友人家族が自宅に滞在して賑やかだったのに、急に平常モードに戻ったせいで寂しくなったのかもしれない。それだけ夏休みが楽しかった反動なのだろう。
死ぬのが怖い、家族でずっと一緒にいたい、この生活が終わることが怖い、という気持ちは始業式のあともしばらく続いているようで、夜になるとつらいと訴えていたが週末に小旅行へ行くことを楽しみにしているようだ。
楽しい時間になれば怖いことを忘れると思うから、早く土曜日になるといいな、と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
そうだね、と相槌をうってから、でも自分もそうだよな、と省みる。普段の生活でなるべく向き合わないようにしているが、いずれやってくる両親の死を迎えることの恐怖心、自分が老いていくことなどの不安や、そもそもの自分の存在意義などに対する根源的な畏れなどから逃れたいために作品に昇華しているし、単に予定を詰め込んで忙しさを課し続けているところもある。
娘をハグし、背中をトントンたたき、大丈夫だよと何度も言いながら、自分自身をなだめるような気持ちにもなった。
そして昨日、学校から戻るとついに「きょうは死ぬこと考えなかったよ、楽しいことを考えた」と笑った娘は夕飯もたくさん食べ、落ち込んだ様子はなくなり、やっと彼女の日常が戻ってきたようだ。
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