Interview
Taro Karibe

LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS展 作家インタヴュー vol.4
リアリティはどこに宿るのか?ドキュメンタリーからグリッチへ変化を遂げながら問う

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苅部太郎インタヴュー 01

苅部太郎は、災害地や紛争地に向かい、報道写真の撮影を行ってきた。しかし、同時にパーソナルワークを制作していく中で「ジャーナリズムの手法の限界」を感じたという。今年の「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」に参加し、新作を撮り下ろした苅部はグリッチという手法を用いテレビ画面を写した新境地に挑んだ。アートとジャーナリズムの境界線が溶けつつある現代写真において、双方を経験してきた彼が感じたニュースでは伝えられない葛藤や一貫して持ち続けてきた問題意識について聞いた。

インタヴュー・構成=酒井瑛作
写真=ダスティン・ティエリー

―もともと報道写真を撮影されていると伺いました。どういった経緯でジャーナリストを志すようになったのでしょうか?

高校生のときは画家になりたかったのですが、0から1を生み出すことができなくて、向いてないと思ったんです。その点、写真はシャッターを押すだけなので簡単だなと。それで、芸大へ進もうと考えました。ただ、細かい色の違いの判定が難しい色覚異常だったこともあって諦めました。

写真の道が閉ざされた当時、ネットを見ていたら、偶然、戦争動画を集めたサイトに行き着いて、無修正の処刑の映像を見てしまったんです。そこでショックを受けて。カメラマンにはなれないけれど、世界で同時に起きていることと何らかの形で向き合わないといけないと思いました。そこからジャーナリズムへの思いが芽生え始めました。最終的には、どういう進路があるかわからなかったので、2番目に興味があった心理学の道に進むことになりました。

―大学時代は心理学を学びながら、ジャーナリズムについても学んでいたのですか?

そうです。ただ、社会問題の理論を学びながらも、そこにリアリティをあまり感じられなくて。自分がいま生きているという感覚が希薄だったんです。何かを自分で決めている実感が希薄で、死も自分ごととして経験することがなかった。リアルに生きていることや世界で起きていることを理解しようと思い、休学してNGOの職員として南アフリカへ行きました。

―南アフリカに行ってみて、リアリティへの感覚に変化はありましたか?

ありましたね。あるとき、夜行バスに乗っていたら、崖から転落してしまったんです。高速道路の対向車線を走る大型のコンテナ車と正面衝突して、その時、最前列に座っていたのですが、そこにしかシートベルトがなくて、たまたま締めていたから放り出されずに済んだ。自分はすごく幸運なことに無傷でした。そのちょっとの差から自分が生きているとか、世界で起きていることとかが、リアルに感じられて。

―それ以上の生の実感はないかもしれないですね。

それで、命からがらバスから出てきた時に見た星空がめちゃくちゃ綺麗だったんですよ。周りに何もない道路だったので、プラネタリムのような星空で、生きててよかったって感動したんです。同時に、死にたくないとも思って。死ぬ前にやりたいことをやろうと考え方が変わって写真を撮ろうと思ったんです。

―そこからフォトジャーナリズムへの道へと進んでいったのでしょうか?

いきなりフォトジャーナリストにはなれないと思っていたので、修行という意味も込めて銀行で働きました。3年から5年の間で金融経済という視点から世界を見てみようと。そこから徐々に世界に対するアングルが定まってきたので、会社を辞めて、フリーランスのフォトグラファーとして仕事を始めました。

―仕事と並行して制作していた作品のシリーズも、基本的にはジャーナリズムの視点から作られていたのでしょうか?

そうでもなくて。大きく分けて2種類の写真の活動があります。ひとつは、フォトジャーリズムで仕事として災害地などのニュース写真を撮ること。もうひとつは、抽象的に思っていることを表現すること。自分の外部で起きていることを説明する写真と、自分の内部で起きていることを説明する写真です。

―とはいえ、過去の作品を見ると、一貫してジャーナリズム的なドキュメンタリーの手法を取っているように見えます。

そうですね。実はそこに葛藤を感じていて。ミャンマー西部からバングラデシュに流入したロヒンギャ難民の人々をポラロイドで撮影した「Letters to You」という作品があるのですが、その時点でジャーナリズムやドキュメンタリーといった手法は自分にはもう合わないかもしれないと感じました。もちろん、それらの手法は社会にとって重要ですが、自分がより表現したいのは自分の内部で起きている何かだと。

「Letters to You」

「Letters to You」

「Letters to You」

「Letters to You」

「Letters to You」


―その「限界」について詳しく教えていただけますか。

「Letters to You」を発表したときに、自分の経歴を見て社会活動家という解釈をされてしまって「これは社会正義を謳った作品である」という一元的な見方が予想より多かったんです。当然写っているのが難民で、行方不明の家族に関る切実な話ですし、作品に触れた人それぞれが自由に解釈してもらって良いのですが、そのときは何か無視できないようなズレが生じてしまい、ほかの大切なことがうまく伝えられなかった。

それに、2016年に起きた熊本地震を通信社の仕事で撮りに行って、目撃したことをそのまま世界に伝えられることにやりがいを感じていたのですが、そういう写真はすぐに流れて別の話題に移ってしまうし、すごく具体的な範囲の話しかできない。個人的には、もう少し次元の高い、抽象度のある話を考えるのが好きなんです。解釈の普遍性の部分で乖離を感じていましたね。

ージャーナリズムの場合は、具体性や文脈を帯びるほど、写真としては強度を増す部分があると思うのですが、そういった点と表現との間でコンフリクトが生じていたんですね。「Letters to You」ではどんなテーマを扱っていたのでしょうか?

大前提として苦しんでいる人たちを伝えることもあるのですが、写真を見た人のリアリティの認識についても研究してみたかったんです。自分の知らない人がいて、その人のことをリアルに存在していると感じるには、どういった要素が必要なのか。自分と他者との違いに興味がありました。

―「認識」そのものにフォーカスを当てようとした。作品を辿っていくと、グリッチを扱った「INCIDENTS」が転換点になっているように思えます。具体から抽象へと移行していますよね。

いままでは内部にあったものを外部に投影しようとしていたのですが、グリッチに関しては、具体性に頼らず、内部をピュアにそのまま出す方法に切り替えた、ということだと思います。

「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」アムステルダムでの展示風景(撮影:大谷臣史)

「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」アムステルダムでの展示風景(撮影:大谷臣史)

―「BEYOND 2020」展での新作でも、テレビの画面に生まれるグリッチを撮影したということですが、現場で撮ることとの違いはありましたか?

被写体や扱っている出来事に対する責任度はもちろん違いますが、目の前にいる難民を撮ることも、テレビの画面を撮ることも、主題に対する誠実度という意味では自分の中で違いはあまりないかもしれません。このシリーズの撮影は体力的にしんどくて。デジタルテレビを物理的に接触不良にするのですが、何百回に1回、しかも、一瞬しかグリッチは出ないんですよ。それを丸々10日間ほど続けました。結果、撮れたのは12枚くらい。

―かなり大変そうですね……画面を撮るということは、苅部さんにとってリアリティのあることでしたか? 撮影の感覚は変わりませんか?

テレビ番組が流れてくる中で、チャンネルを変えながらやっていたので、どんなものが次に出てくるのか、自分ではコントロールできないし、わからないんです。何かが起こるのをずっと待っているようなストリートスナップに近い感覚でした。予想していないものの出現に驚かされたという意味でリアリティはありました。

「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」アムステルダムでのトークイベントの様子

「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」アムステルダムでのトークイベントの様子


―改めて聞きますが、南アフリカ時代からロヒンギャを経て現在に至る中で、苅部さんにとって「リアリティ」への捉え方に変化はありましたか?

変化はあまりありません。例えば、南アフリカでの事故自体はドラマチックな出来事でしたが、そのときのことを思い出してリアルに起きたことだと感じるのは、ガラスが肌にポツポツと当たる感覚とか、煙が自分の髪を揺らすとか、そういう細かい出来事。ニュースでは伝えられない、些細なことや無駄なこととされる情報にリアリティが宿るんです。ロヒンギャの作品でも言及したかったのはそういうところ。グリッチも本来はエラーとして排除されるものですよね。

―そうですね。方法論は変化しながらも、個人の切実な実感を得ようとすることは変わらない。写真を見る人にとってはどうでしょう?何か反応はありましたか?

グリッチのシリーズは、どの写真も具体的な像は見えませんが、もともと何らかのテレビ番組の映像が流れていて、それを回転させたり大きくトリンミングしたりしてもとの文脈と意味を消しています。ある写真を見た友人からは「お城に見える」といわれました。自分にはそうは見えないし共感もできないけど、友人にとっては、それがリアルですし、人間社会自体そうなっていますよね。見る人が見たいものを投影するロールシャッハ・テストに近いような見方です。

―別の形でのリアリティが立ち現れている。見る人にとっては、一人一人が個別の方法で参加できる入り口になっているようですね。

自分は何かわからないことを理解するために作品を制作していますが、一人では限界があります。だから、理解を深めるために鑑賞者にも手伝ってもらう……そういうと勝手に聞こえますが、解けない難問があって、おそらく社会にいる多くの人も同じような疑問に直面しているからこそ「リアリティとはなんだろう?」といった問いを、みんなで一緒に考えたいんです。

苅部太郎|Taro Karibe
1988年、愛知県生まれ。南山大学人文学部心理人間学科卒業。在学中に英国留学・南アフリカ共和国で国際NGOの感染症コントロール計画で研修。卒業後、金融機関勤務。2015年に写真家として独立。「自他を仕切る境界の曖昧性」、「世界の偶有性」を軸に写真作品を制作している。作品は国際的に高く評価され、ニューヨークタイムズやワシントンポストをはじめ国内外のさまざまな雑誌に作品が掲載されている。
https://www.tarokaribe.com/