これまで言語による意思疎通が難しい異国の地に滞在し、現地で出会った少女たちを被写体に撮影を行なってきた山元彩香。身振り手振りを交えた身体的感覚によるコミュニケーションを通じて制作されるポートレイト作品は、普段は覆い隠された彼女たちの無意識の姿をとらえている。東京都写真美術館での展覧会「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」や写真集『We are Made of Grass, Soil, Trees, and Flowers』では、アフリカや言語的なコミュニケーションが可能な国内で撮影された作品を発表している。10年以上同じ方法を続けてきた山元の制作の姿勢に迫った。
文=村上由鶴
写真=鈴木孝彰
―山元さんが写真を始める前に絵画を描いていたことから、写真も下絵のようなものがあってモデルに演じてもらうセットアップの方法で撮影しているのかなという印象を受けていたんですが、開幕直後に収録された動画インタヴューでは、そうではないというお話をされていましたね。写真を始めてからずっと同じ方法で制作されているんですか?
2009年から年に一度、1~3カ月程度、撮影地に滞在して制作しています。大学では絵を描いていたんですが、その頃から人間にしか興味がなくて、自分の体を描いたり女性を描いたりしていました。その後はパフォーマンスなどをしていて、その記録として写真を使ってはいたんですが、アメリカへの交換留学のときに写真学科でカメラと暗室を覚えて使うようになりました。最初はなにげなく友人を撮っていて、友人を撮影したコンタクトシートを「〇〇ちゃんだなあ」と思って続くコマを眺めていたら、突然その子には見えない、能面や宗教画のような表情が撮れていたんです。
そのとき、自分自身英語が全く話せないなかで、初めて長く海外に滞在する経験をしていました。映画のなかに放り込まれて、周りが宇宙人のような、笑っている人も本当は何を考えているのかわからない、コミュニケーションへの違和感があったので、そうした環境も反映した納得がいく一枚でもあったんです。
―目の前の人が能面や宗教画のように見える表情や何かが憑依した瞬間を、見ているはずなのに見落としてしまっていた、それが写真によって見えるようになったというところが面白いです。それをもう一度撮りたい、と思ったということでしょうか。
日本に帰国してから、まずは当時住んでいた京都や原宿などにも出かけて外国人に声をかけて撮影したこともありましたが、最初の撮影とは全然違いました。その後はフランスやイタリアにバックパッカーとして訪れて、ホステルにいる外国人の方を撮ったりしていたんですが、それも何かが違ってうまくいかなかったんです。だから、本当によくわからない、あの宇宙人と出会ったような瞬間をもう一度起こしたいと思って、エストニアの田舎に行ったんです。
―はじめに人間にしか興味がないというお話だったので、むしろ、原宿とかで出会った外国人をモデルにしても作り得たのではないかと思うのですが、やはり、土地が重要な要素だったということでしょうか。
ロシアや東欧諸国に行って感じたのは、ソ連の時代があるからか、西欧の先進諸国の人よりも自然が体のなかに残っているような感覚はありました。東欧の人たちは「ダーチャ」というサマーコテージを持っている人が多くて、夏になると電気も水も通らないところで過ごす習慣があります。あと、水場を見つけるとみんな急に裸になって飛び込むとか、自然に対して友好的で距離が近い。フランスやイタリアにもそういう地域はあるかもしれませんが、撮影の際にそれぞれの土地の人に向き合うなかで、その人の体の中にあるものが違う感覚がありました。
―実際にはどのように撮影しているんですか。
撮影にはすごく時間をかけます。ポーズをとってもらうというよりは、そのままの状態にしてもらう。長いときには1時間以上撮影していて、シャッターを押すことも伝えないので勝手に撮っているような状態になります。撮影中に「こうしてほしい」という指示はせず、その子がそうなるまで待ちます。でも私が本当にじっとしてたら、何してるんだろうって思ってしまうだろうから(笑)、なるべくリラックスするように触れることはあります。安心できる空間にしたいと思っていますし、そうしながら互いがなくなる瞬間を待っているというか。
―「そうなる」というのは、自分の思い通りにするのではなく、時間をかけて相手のある部分が表出してくるのを待つことでしょうか。
大学時代に色々な写真集を見ていて、当時はポートレイトってその人らしさや感情が写っているのがよい写真とされているような気がしていました。でも、私の場合はそうではなくて、本当のこの人なのか、ここに写っているのは誰なのか、性別などあらゆる属性を超えるような写真が撮りたいと考えています。その人の名前をより濃くするのではなく、逆に剥いでいくものに魅力を感じています。写真をはじめた頃はまだ絵も描いていたのですが、絵はどれだけやっても現実ではないんですよね。写真は現実の断片でできているけどタイトル次第で嘘もつけてしまう。つまり嘘と現実の両方が入っているところにおもしろさがあると感じたことが、絵画から写真に移行するきっかけになりました。
―さきほど、「お互いがなくなる」という言葉がありましたが、ほかのインタヴューなどでは、山元さんご自身が「空のうつわ」という言葉で、撮影のときの被写体の方の状態を表現されていました。それはどのようなことなのでしょうか。
最近は、撮影を続けるなかで、彼女たちのなかに蓄積していったものを剥いでいったときに絶対に残るもの、その残りかすみたいなもの、その人をその人たらしめる、自分でも気づいていないレベルの自分が、私の写真に写っているのかなと思えてきました。でも、撮り続けているひとりの子の写真を見ると、全部が違う人に見えることもあります。「空のうつわ」に、その時々に誰かを憑依させているというか。
―山元さんも「空っぽの状態」になるのでしょうか?
なっているのかもしれません。最初のアメリカでの体験のように、撮影地に身体を運んでいくなかで、生き物としての勘が冴えていく感覚はあります。自然のなかで育ったので、自然とのつながりを求めているのかもしれません。
―これまでの作品などのステートメントやインタヴューで「暴力」という言葉がたびたび用いられていたのを拝見しました。撮影という行為における関係の非対称性についてはどのように考えていますか。
どうしても撮る側と撮られる側って搾取的な構造は生まれてしまいますよね。それは責任として受け入れるしかない。被写体になってくださる方が撮影を受け入れてくださっていることに感謝と敬意の気持ちを持ち、できる限りその人にとっても意味のある時間になるように心がけています。撮影自体がときを経て何かよくわからない出来事として記憶されたらとか、日常から離れて自分と向き合う時間になったらいいなと思っています。
―山元さんはこれまで、言葉の通じない地へ入っていくという方法で撮影をされてきました。言語が通じないということが、言語的に相手を支配できなくなるので撮影の暴力性みたいなもの抑えるという意図があるのでしょうか。
私としてはそういう意図はなく、言葉の通じないところで、その人のことを何も知らないのにいきなり行って、仲良くはしていても撮影していると、途中でとても暴力的なことをしている気になってしまうことはあります。以前、撮影のときにどうしても服を着替えたくない子が現れて、それがなぜなのか、言葉がわからなかったのでわかる人を呼んできて、ようやく、すごく大切な神様への言葉が胸のところに書いてあるから脱ぎたくないという彼女の考えがわかりました。目の前の人に敬意を持って撮影しているつもりではあったけど、その人にとって大事なことをもっと大切にしないといけないし、そういう細部を自分に反映させていくことが絵ではなく写真というメディアをやっているってことだと感じて反省しました。そこからはインタヴューやアンケートをするようになりました。
―インタヴューやアンケートではどのような項目を聞いているのですか。
写真集『We are Made of Grass, Soil, Trees, and Flowers』のタイトルにもなっていますが、その人の成分、自分が何でできていると感じているかを聞くようにしています。ほかにもいろいろ聞いていますが、まだ質問もベストではないと感じています。時々はっとさせられる答えがあって、それに導かれて撮影していることもあるので、写真にも反映されていると思います。
―写真集には前作には含まれなかった新しい撮影地としてのアフリカと、北海道、沖縄で撮影した写真も含まれていますが、新しい土地での撮影に至るきっかけがあったのでしょうか。
10年間、毎年ロシアや東欧諸国で滞在制作をしているうちに、さまざまな理由で限界を感じていました。それに東欧に行きながらも、その文化や歴史には惹かれますが、それを主題として深めていくタイプの制作プロセスではなかったので、なぜほかのさまざまな地域にいかなかったのかと思うことがあります。さまざまな土地で制作を続ける中で人間の中にかろうじて残る“自然“のようなものは国や人種などあらゆる境界を超えて存在するというような思いもあり、どこででも、誰とでも対峙した時に、その“自然”をとらえることができたら、もっと説得力があるのかなという考えに至りました。
―東京都写真美術館での展覧会「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」や写真集『We are Made of Grass, Soil, Trees, and Flowers』、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでの展示では、アフリカで撮影された作品を中心に展開していましたが、それまでの撮影との違いはありましたか。
撮影していると、子供たちが「空のうつわ」の状態になるのが東欧の人よりもとても早かった印象があります。帰ってきてから人類学者の方に話を聞いたら、憑依することが儀式ではなくて、例えば池に行って帰ってくるときにはもうそこの精霊に憑依されることが特段珍しいことではなくて、日々起こることだと聞いて、身体、つまりうつわ自体が私たちと違うのかもしれないと思いました。
―東京都写真美術館での展覧会「記憶は地に沁み、風を越え」の展示はどのように制作されたのですか?
13年間撮影を続けてきた東欧と、アフリカ、そして日本で撮影したものからセレクトしました。「organ」という映像作品は、被写体の少女からその場で出る節をつなげて即興で鼻歌のように歌ってもらいました。一見すると、寝ている姿勢で静止画のように映っているので、鼻歌がどこからか聴こえてくる鎮魂歌のようにも聴こえます。よく見たら内臓が動いているのがわかるので、臓器の動きも感じられるという意味で、このタイトルをつけました。鼻歌については、2011年にラトビアに行ったときにロシア人の女の子と同部屋になって、言語がわからないなかでなんとかコミュニケーションをしていて、その子が毎朝必ず鼻歌を歌う子だったんです。鼻歌を聴いていると、その子の見てきた風景や記憶や、無意識の下にある空のうつわにかすかに残っているものが、私の身体のなかにも入ってきた感覚がありました。声って音になってふいに出てきているのが、放たれた瞬間消えていくんだけど、他人へと移って、ずれを含みながら循環していく。その作用がとてもおもしろいなと思っています。
―「organ」は山元さんの作品においてとても象徴的な作品ですね。今後の制作に向けて考えていることを教えて下さい。
言葉が通じても理解し合えないことは絶対にあると思うんです。それでも国内での撮影においては、言葉がわかるだけにもっともっと深く理解できるので、その上で、いままでのストレートな撮影とは違うことをやってみたいですね。例えば、究極に演じることで見えてくる自然みたいなものがあるなら、そこに挑戦してみたいです。
▼展覧会 | |
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タイトル | |
会期 | 2021年11月6日(土)〜2022年1月23日(日) |
会場 | 東京都写真美術館(東京都) |
時間 | 10:00~18:00(木金曜は20:00まで/入館は閉館の30分前まで) |
休館日 | 月曜(月曜が祝休日の場合は開館し、翌平日休館) |
料金 | 【一般】700(560)円【学生】560(440)円【中高生・65歳以上】350(280)円 |
URL |
タイトル | 「We are Made of Grass, Soil, Trees, and Flowers」 |
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会期 | 2021年12月9日(木)~2022年1月17日(月) |
会場 | book obscura(東京都) |
時間 | 12:00~19:00 |
定休日 | 火水曜 |
URL |
▼写真集 | |
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タイトル | 『 We are Made of Grass, Soil, Trees, and Flowers』 |
出版社 | |
出版年 | 2021年 |
価格 | 7,480円 |
仕様 | ハードカバー/226mm×290mm /96ページ/表紙(題箋貼)の写真は二種類(本文は同じ) |
URL | https://www.tandmprojects.com/collections/frontpage/products/ay-flowers |
山元彩香|Ayaka Yamamoto
1983年、兵庫県生まれ。京都精華大学芸術学部造形学科洋画コース卒業。2004年のサンフランシスコへの留学を機に写真の制作を始める。馴染みのない国や地域へ出かけ、そこで出会った少女たちを撮影することで、その身体に潜む土地の記憶と、身体というものの空虚さを写真にとどめようとする。主な個展に「organ」(void+、東京、2019年)など。東欧やアフリカの各地で撮影を行い、国内外で写真展やレジデンスに参加。2019年に出版された写真集『We are Made of Grass, Soil, and Trees』(T&M Projects、2018年)でさがみはら写真新人奨励賞を受賞。