公立美術館で初の大規模個展「澤田知子 狐の嫁いり」が東京都写真美術館で開催中の澤田知子。本展では、澤田の原点となる《Untiled》(1996年)から、出世作《ID400》(1998年)、そして初公開となる最新作《Reflection》(2020)まで、代表作を網羅しながら25年間のキャリアを概観するものとなっている。その一方で、展示室を大きな空間として活かし、作品が一望できる展示方法も特徴的だ。「狐の嫁いり」という意表を突くタイトルの裏にある彼女の真意について語ってもらった。
文=若山満大
写真=黒滝千里
―澤田さんは「アイデンティティやジェンダーをテーマにしている作家」と紹介されることが多いですよね。そのような評価については、どのように感じていますか?
澤田知子(以下、澤田):じつは自分から「アイデンティティをテーマにしている」といったことは一度もないんです。そう解釈してくれる人がいるというだけで。ほかにも、私をフェミニストだと思っている人は大勢いるみたいですね。特に外国に行くとよくいわれます。「知子はフェミニストなんだよね?」って。違うよと答えると驚かれたりします。
私の作品って、見る人によって解釈にかなり差が出るんです。「キャラクターを演じてる」とか「コスプレしてる」という人もいれば、ジェンダーやアイデンティティを問題視して社会批判をしているという人もいる。笑わそうと思ってないのに、笑われることもあるし(笑)。もちろん笑ってもらっていいんですけどね。
私の作品が社会への社会風刺に見える人、フェミニズムに見える人、いろいろな人と出会ってきました。ただ、いまのところ、私と全く同じように作品を見ている人には会ったことがないですね。
見たいように見てもらえればいいと思っています。その時々の誰かの解釈が世の中に伝播していって「澤田知子は〇〇な作家」というイメージが出来上がっていく。私はその過程を遠くから眺めながら、面白いなと思っています。
Photo: Takeshi Asano
-こちらの断定や確信を裏切って、かわしていくような。解釈は自由といいつつ、一定の解釈を許さない。
いやいや、全然そんなことないんですよ。本当に。私はただ単に、自分が日々不思議だなと思うことを素朴に作品という形にして考えているだけです。べつに肩透かしをしてるつもりはないですけど、鑑賞者のリアクションはいつも私の想定を超えてきますよ。
評価や解釈が一定しないのはいいんです。ただ一方で、私自身はこれまでの作品をどう解釈できるんだろうかという自問もありました。今回の展覧会は、澤田知子という作家が25年のキャリアの中で何をしてきたのか、それを知ってもらうものでもあり、私自身が知るための機会なんです。
―化かす/化かされるという関係は、タイトルにある「狐」に通じるところがありますね。
今回の展覧会の全体的なコンセプトとして「仮面とお面の関係」というものがあります。例えば、お面は面のキャラクターを演じることを前提につけるものです。でも仮面は役を演じなくてもいい。英語だと両方ともマスクですが、日本語だとそういうおもしろい違いがあります。私は自分の作品を「仮面」だと思っているけど、見ている人は「お面」だと思うみたいですね。
―展示室を仮設壁で仕切ることなく、最大限広く活用していたのが印象的でした。
今回の展覧会は25年を回顧するのではなく、新旧複数のシリーズで構成したひとつの“新作”だと考えています。なので作品も発表順には並んでいません。空間を構成するにあたっては、作品を広い空間に展示して一望すると同時に、作品に四方から囲まれる空間を作りたいという意図がありました。
東京都写真美術館2階の展示室には二本の大きな柱があります。仮設壁を立ててこれを隠す作家も少なくないみたいですが、そうすると空間を広く使うことはできないんですよね。ならば、ということで、今回は二本の柱を神社の「御神木」に見立てて空間を構成しました。
Photo: Takeshi Asano
―会場に入ると、《SKIN HEAD》を含む《ID400》に目が行きますね。
《ID400》以降のシリーズはすべて、《ID400》の解説になっていると思っています。いい換えれば、ほかのシリーズのどの写真も《ID400》の中に集約されてしまうんですよね。でも《ID400》に限っては、いまだにうまく説明できないんです。
―ほかのシリーズは《ID400》の“各論”や“続編”として位置付けることができると?
そうかもしれませんね。例えば《これ、わたし》は、いわば《ID400》のエッセンス版です。このシリーズはもともと月刊誌『たくさんのふしぎ』で出版した絵本『これ、わたし』のために撮りおろしたものです。結果的に《ID400》を限界まで削ぎ落とした作品になりました。
愛・地球博で発表した《Face》と《FACIAL SIGNATURE》は、国籍/人種を扱っているという点が共通しています。遺伝子の極々わずかな違いが容姿の違いを生み、人種や個人を区別しています。人間としてほとんど何の違いもないのに、現実には明確に違うものとして認識されている。
Photo: Takeshi Asano
―唯一セルフポートレイトではないシリーズとして《Sign》がありますね。
《Sign》は、アンディ・ウォーホル美術館のレジデンスプロジェクト「Factory Direct」に参加したときに制作しました。美術館があるピッツバーグの企業とコラボレーションするというプロジェクトで、私はハインツさんにコラボレーションのお願いをしました。このシリーズを通して、自分の作品がセルフポートレイトであると同時に、タイポロジーでもあるということに気がつけたことは大きな発見でした。
―情報を並列させて、差異や共通点を明らかにするという点では確かにタイポロジーですね。このシリーズを画期として自作の認識が変わったと。一方、今回は近作や新作も展示されています。これまでの活動とどのようにリンクしているのでしょうか?
最近は「人はどうやって人を判断するのか?」ということ興味があります。《FACIAL SIGNATURE》では「人はどこを見て人を認識しているのか?」ということに焦点を当てました。日常の中で、外見から人を判断して認識すると思いますが、その判断基準ってどこにあるのかなって。
大衆演劇をよく観に行くんですが、あるとき、役者さんが登場する場面でシルエットだけが舞台上に映される演出があったんですよ。一見の観客には「シルエット」としか認識できませんが、客席のファンはそこで「キャー」っと声援を送ることができるんですよね。このコミュニケーションが不思議だなと思って。シルエットを見ただけで、自分が好きな役者さんがいるって何でわかるんだろって。
あと、人の性格を判断するのも面白くて、「かわいい」「かっこいい」は好みの問題ですけど、「まじめそう」「こわい」「しゃべりづらそう」とかは、そう思う根拠を外見から読み取っているってことですよね。人に対する判断の基準って何なのか。もちろん、それまでの経験というのは影響すると思いますが、それだけじゃない気もしていて。
人がどうやって人を判断するのかについて考えるなかでできたのが《影法師》と《Reflecion》でした。シルエットと後ろ姿。作ってから時間も経っていないのまだわからないことだらけです。「外見と内面の関係」という大きなテーマに答えは出ないでしょうが、これからも考え続けていくんだろうなと思います。その疑問の数だけ作品が生まれるんでしょうね。
タイトル | |
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会期 | 2020年3月2日(火)~5月9日(日) |
会場 | 東京都写真美術館 2階展示室(東京都) |
時間 | 10:00〜18:00(入館は閉館の30分前まで) |
休館日 | 月曜(ただし5月3日は開館) |
料金 | 【一般】700円【学生】560円【中高生・65歳以上】350円*小学生以下、都内在住の中学生および障害者手帳をお持ちの方とその介護者(2名まで)は無料 |
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備考 | 新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、入場制限などを実施します。ご来館のお客様は、必ずこちらをご確認ください。 |
澤田知子|Tomoko Sawada
兵庫県神戸市生まれ、在住。成安造形大学造形学部デザイン科写真クラス研究生修了。 デビュー作《ID400》で2000年度キヤノン写真新世紀特別賞、2003年度木村伊兵衛写真賞、ニューヨーク国際写真センターのThe Twentieth Annual ICP Infinity Award for Young Photographer 受賞。世界各地で展覧会を開催するほか写真集や絵本を出版。 主なコレクションに、東京都写真美術館、京都国立近代美術館、兵庫県立美術館、The Museum of Modern Art(ニューヨーク)、International Center of Photography(ニューヨーク)、Brooklyn Museum, New York(ニューヨーク)、San Francisco Museum of Modern Art(サンフランシスコ)、National Gallery of Art(ワシントン)、Maison Europeenne de la Photographie(パリ)など。 東京都写真美術館では、「日本の新進作家 vol. 7 オン・ユア・ボディ」展(2008)、「第9回恵比寿映像祭」(2017)等に出品。