23 June 2021

顧剣亨インタヴュー、
時間と空間の編み物、ゆっくりと燃焼するような写真

23 June 2021

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顧剣亨インタヴュー「時間と空間の編み物、ゆっくりと燃焼するような写真」 | 顧剣亨

YUKIKO MIZUTANI GALLERYで開催された個展「A PART OF THERE IS HERE」で、世界のさまざまな都市を展望台からとらえた「Cityscape」シリーズと、自ら内モンゴルの貯炭場に足を運び石炭の山を撮影した「Dark mountain」シリーズを見せた顧剣亨。特に「Cityscape」は圧巻のサイズで、手作業で生み出した小さなピクセルひとつひとつをプリントによって可視化した。制作過程において、自身の身体性を重視する顧のこれまでの作品に背景にあるもの、そして彼がこのコロナ禍で見出したものとは何か?

インタヴュー=若山満大

―個展「A PART OF THERE IS HERE」では、都市の鳥観図と石炭貯炭場の写真が並列されていました。関心の端緒は「Utopia」シリーズにあるのかなと思いますが、いかがでしょう?

人々が生活を営む空間は、生活者が作るプライベートユートピアとそれ以外の場所から成っていると思います。僕たちは、自分にとって居心地の良い場を作るために、選択的にモノや情報をプライベートな空間に囲い込んでいます。一方で、選ばれることなく、遺棄された残骸はプライベートユートピアの周りに山積していく。そうして出来上がっているのが、現代に特有の反復的で匿名的な景観なのかなと。「Utopia」は、プライベートユートピアの外側にできる混沌とした場をモチーフにしたシリーズです。いまも世界各地を撮り歩きながら、現代の記録として残そうとしています。

「A PART OF THERE IS HERE」展示風景

「A PART OF THERE IS HERE」展示風景

「Utopia」シリーズより

「Utopia」シリーズより

「Utopia」シリーズより


―「Utopia」の次作「Wu-mai」は、一見すると幻想的・抒情的な風景にも見えますが、それもまた「プライベートユートピアの外部」として理解できますね。

霧霾(Wu-mai)は、黄砂現象やスモッグを指す中国語です。2013年以降、PM2.5による大気汚染は環境問題として盛んに取り上げられました。しかし汚染された環境が常態化した昨今では、それは人々に受け入れられ、粛々と生活が営まれています。ちなみに作品に写っている白い靄は無編集です。もはや幻想的ですらある状況を“現代の山水画”として視覚化したのが、このシリーズです。

「Wu-mai」シリーズより

「Wu-mai」シリーズより

「Wu-mai」シリーズより


―環境問題に対して露悪や告発ではなく、あえて審美性を全面化させる、あるいは肯定的に受け入れようとする態度が印象的でした。それがかえってアイロニカルに響くというか、能動的に考える気を起こさせますね。

「Wu-mai」にある風景の原点を考えたとき、次に向かったのが中国最大の石炭生産地・内モンゴルの貯炭場でした。ここを撮影したシリーズが「Dark Mountain」です。巨大なベルトコンベアやダンプカーを点景に、真っ黒な石炭の山が圧倒的なスケールで広がっていました。天然資源の採掘や依存にはさまざまな考え方がありますが、ここでも倫理的な判断は一旦保留にしています。

「Dark Mountain」シリーズより

「Dark Mountain」シリーズより

「Dark Mountain」シリーズより


―顧さんの制作において、やはり移動することは重要ですか?

そうですね。各シリーズは都市というキーワードで緩やかにつながっているようにも見えますが、都市を写真で捉えたいと思っているわけではありません。何か特定の物事を撮りに行くのではなく、「移動しながら作る」という行為の継続それ自体が自分にとっては重要です。歩いて想像すること、歩いて風景に遭遇することが大切だと思います。写真家の仕事はある時間ある場所に居合わせることであって、世界を選択的に切り取ることではない。

移動するとき、自分が世界を眼だけで見ているわけではないことがよくわかります。「Vision は、五感のすべてから作られる」というのが僕の持論です。つまり写真を考えることは、身体性の問題であるともいえる。自分の体を物理的に移動させて、都市という場所に没入しながら、五感を使って情報を摂取する。そうして集まった断片を総合することで、身体性が生まれ、写真が生まれます。SNSのフィードをスクロールしていく行為がまさにそうであるように、僕らの中の観念的な「世界」は、断片の採集と統合によって作られています。

僕が日本生まれ上海育ちであるせいか、「アイデンティティを尋ねるためにふたつの国の都市を被写体にしているのか」と聞かれることがあります。でも、そうではありません。上海と京都が自分にかかわりと深い都市であることは事実ですが、僕自身はアイデンティティというものに興味がない。写真を使って自分語りをしたいわけではありません。むしろ、そういう写真には懐疑的です。

だから僕自身は、違う態度で写真を撮っていたいと思っています。撮りたいものありきよりも、ある決まりに従ってシステマティックに撮っていくほうがしっくりきますね。ときにそれは楽しみというより、修行じみたものになりますが。

―「Cityscape」はまさに修行じみているというか……。制作には途方もない時間がかかりそうですね。

各都市の一番高いビルの屋上から四方向を撮影しています。360度の景色を一枚にしている感じですね。まず各写真の画素の列と行を消しています。1ピクセル単位で、選んだラインを手作業で消していく。そうやって1枚の写真を糸状のピクセルの連なりに分解して、それらを編み合わせるようにイメージを作っています。自分では「デジタルウィービング」と呼んでいるこの作業も、実はプログラムを組めば簡単にできるものです。でも、手作業であること自体の価値というものもあると思っています。

「Shanghai Center」(「Cityscape」シリーズより)

「Skytree」(「Cityscape」シリーズより)

「Burj Khalifa」(「Cityscape」シリーズより)


―コロナ禍以降に制作をスタートさせた「Heterotopia」についても教えてください。原生林を被写体にしているそうですが、いまそれを撮ることにどのような意味を感じていますか。

コロナ禍で移動ができなくなり、自分の制作の仕方を根本的に変えざるを得なくなりました。そこで目を向けたのが、身近にある自然です。人工林が圧倒的に多い国土の中で、最も多様性が担保されている場所が原生林です。この原生林を巡っては議論があって、「原生林はもう日本には存在しない」という見方もあるし、森林は代謝を繰り返すことで数百年を経て「原生林」の状態に回帰するという見方もあります。自分は後者の立場で、奈良にある原生林を撮影しました。

この景色の中では、肉眼には見えない無数のコミュニケーションが常に行われています。それはある意味、人間の社会とも共通している。デバイス越しのコミュニケーションもまた、無数の不可視的な回路によって成立しています。いずれの場合も、目に見えないものが、目の前の雑多な現実を作っている。見えないということは、もちろん無いということではありませんよね。自分の目の前に現れる景色それ自体が、その証明であるはずです。

いかに取るに足らない写真であったとしても、それは時空間の記録であり、ある種のドキュメンタリーであり得る。それは写真のベーシックな価値です。そのうえに固有の価値が宿ると思っています。何度も反芻しながらじっくりと意味を読みだしていけるような、あるいはゆっくり燃焼していくような、そんな写真を残したいと思っています。

「A PART OF THERE IS HERE」展示風景

「A PART OF THERE IS HERE」展示風景

「A PART OF THERE IS HERE」展示風景

顧剣亨

顧剣亨|Kenryou Gu
1994年京都生まれ、上海育ち。京都芸術大学現代美術・写真コース卒業。大学在学中にアルル国立高等写真学院へ留学。KG+Award 2018グランプリ、sanwacompany Art Award / Art in The House2019グランプリを受賞。現在、京都を拠点に活動中。都市空間における自身の身体感覚を基軸にしながら、そこで蓄積された情報を圧縮・変換する装置として写真を拡張的に用いている。独自の手法で異なる時間、場所を接続し再構成することにより、空間の周縁に潜在するコンテクストへと視線を誘導し、風景を形づくる見えない情報的地層の断面を立ち上げている。

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