2022年4月29日(金)から5月22日(日)まで東京・表参道のGallery COMMONで森山大道の写真展「DAIDO HYSTERIC」が開かれた。ファッションブランド「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」が出版した森山の写真集『Daido hysteric no. 4』を基にした展示であり、いまや伝説となった同書も合わせて復刻された。いまでこそアートとファッションのコラボレーションは当たり前になったが、出版された90年代当時、商品広告ではなく、純粋にアーティストの作品発表の場を設けたブランドは珍しかった。当時から今日まで続くヒステリックグラマーのアート活動は、東京ファッションとカルチャーシーンの架け橋だったといっても過言ではない。同ブランド創業デザイナー・北村信彦は、全ては“青大道”から始まった、と話す。北村に当時のこと、写真との関わりを聞いた。
撮影:竹澤航基
インタヴュー:小林英治
文:IMA
森山大道の青・赤・大阪
―『Daido hysteric no. 4』、通称“青大道”を出すまでの経緯について教えてください。
1984年にヒステリックグラマーを始めたんですけど、86~87年頃、当時ヘアメイクアップアーティストだった綿谷修(写真家・アートディレクター、後にラットホールギャラリーのキュレーター)と知り合いました。綿谷に、「ノブ、作品撮りやったことあんの?」って聞かれたんです。
それまでしたことなかったんで、やってみようということになり、何度かスタジオで撮影した後、メキシコ、グアテマラ、アメリカなどでシーズンカタログ用の撮影をしました。撮影を繰り返しているうちに、僕も写真に興味を持つようになったんです。そしてある時、アメリカを一緒に横断した写真家・達川清さんの引っ越しを手伝いに行ったとき、押し入れから『Provoke』や彼らが自費出版していた写真集『GRAIN』などが出てきて、日本にも素晴らしい写真の歴史があることを知りました。
当時僕は20代で尖っていたからファッション撮影はつまらない、ファッションじゃなく日本の現代写真家をもっと開拓しよう!と思って、それで1冊目『hysteric no. 1』を91年に出版したんです。最初は広川泰士さんや奈良原一高さんら13人の写真家によるオムニバス形式の写真集でした。
そして2号出して、こんなもんでいいのかな?と内容に悩んでいた頃、綿谷に花見に誘われた時に彼が友人から借りてきた写真集を見て、衝撃が走ったんです。「こんな写真もあるんだ!」って。それが森山さんの『写真よさようなら』でした。
その日は晴れていて、桜も満開で、綺麗な日でした。桜のピンクと茶、空の青、雲の白が本当に美しかった。そんな中で森山さんのガサガサの白黒写真を見たら、ギャップがすごくて印象的で。そこで森山さんの門を叩くことになったんです。
既刊の『hysteric』を持って行って見せたら、森山さんに一人で400ページやらせてくれるなら、といわれて、喜んで「やりましょう」とお応えしました。森山さんに一年半くらい撮り溜めていただいて、編集も含めたら出版まで約二年掛かりました。それが『Daido hysteric no.4』、いわゆる“青大道”です(表紙デザインに青が使われており、後に赤い帯を敷いたデザインの“赤大道”も出版される)。
ー森山さんが撮ってもらうイメージに注文などはしなかったんですか?
全くしません、全てお任せです。画角のみ縦位置で決まっていました。撮影中にどういうものを撮って欲しい、とかは一切ないです。
ー“青大道”を出した手ごたえは?
復刻された『Daido hysteric no. 4』(税込16,500円)。Gallery COMMONやwww.akionagasawa.comなどで販売中。
もう大満足でしたね。元々『hysteric』は非売品だったんですけど、“青大道”は大作だし、販売することにしました。ワタリウム美術館の書店オン・サンデーズの地下ギャラリーで森山さんの写真の展示もしつつ、限定300部を販売したら、あっという間になくなりましたね。
そしたら「次は、横位置でやりたいな」と森山さんにいわれて、もちろんやりましょうと応えて、二作目の『Daido hysteric no. 6』、通称“赤大道”(94年)になりました。青と赤は新宿を中心とした東京だったんで、森山さんに大阪も撮りたいといわれて、3作目『Daido hysteric no. 8』もつくりました。
ー森山さん自身も手ごたえがあったんですね。
楽しんでいただけたと思います。制作中、よく森山さんの四谷のアトリエに週1~2日ほどお邪魔して、飲んで朝まで話していました。森山さんも楽しんでいる感じがしましたね。貴重な経験です。
森山大道からパティ・スミスへ
ー森山さんと写真集をつくったことで、ブランドへの影響はありましたか?
“青大道”は、もっと真剣に作家と取り組んだ本作りをやっていこうというきっかけになった写真集です。“青大道”があることによって、その後国内外の写真家たちに話を持って行きやすかった。まだ写真を撮っていた頃のソフィア・コッポラからヒステリックグラマーを撮りたいといわれたり。90年代を代表するカルチャーシーンの人たちとお付き合いが生まれましたね。
ニューヨークの若いスタイリストやカメラマンなどが、ヴィンテージのヒステリックグラマーのアイテムや我々が出版した写真集をあさっていることなどから、シュプリームのヤングチームから連絡が来て、ヒステリックグラマーとのコラボに繋がったこともあります。
また、僕は中学の頃からパティ・スミスの大ファンで、どうしても会いたくて、ある時パティをイメージして作ったTシャツと“青大道”を持って、彼女に渡してください、とレコード会社に預けました。
その後フジロックの初日に、パティが会うといってる、とレコード会社から電話が来て、行ったんですよ。それで直接彼女に、自分が悩んでた時『People have the power』を聴いて元気が出た、とか想いを全て伝えて、洋服以外にもこんな本(青大道)を作っているとお見せしたら、「あなた、創作以外にアーティストのサポートもするなんて素晴らしいわ。で、私は何すればいい?このTシャツに着替えてこようか?」っていわれて。Tシャツを着用したポートレイトを撮らせていただいたときは感動しました。
そのときのフジロックの彼女のステージを全て観て、楽屋も訪ねました。最後のステージはすごいライブで、ライブ後楽屋で燃え尽きた彼女を遠巻きから眺めていたら、こっちいらっしゃい、と呼ばれて、「私いまポラロイドの作品撮りためてるんだけど、撮り終わったら、あなたに先に見せるわ。写真集作って」といわれ、もちろん、「はい!」とお応えしました。
一年後に写真が送られてきました。構成ができたら確認にゲラを送るといったんですが、「大丈夫。大道の本を見てるから、全部任せる。あなたが納得するものをつくりなさい」っていわれたんです。
ヒステリックグラマーがつくったパティ・スミスの写真集『CROSS SECTION』。
あれは2003年のことでしたね。合わせてパルコミュージアムで展覧会もありました。展覧会初日は、パティのライブが終わってからのオープニングレセプションで、僕が迎えに行く係でした。カフェで初めて彼女に出来上がった写真集を見せたんです。2ページ目くらいでパティがにこにこ笑ってくれて、「誕生日とクリスマスが同時に来たみたい、ありがとう!」っていわれたときは本当に感無量でしたね。
ーとても感動的なエピソードですね。
今回の復刻は、それから約20年。“青大道”じゃなかったら、ここまでのマジックは絶対にありません。
また、森山さんと仕事をしているときに、直接殴りこみに来たのが荒木(経惟)さんです。俺にもやらせろ、って訪ねてきました(笑)。荒木さんとは『流石 RYU U SE KI』をつくりました。その後は、小島一郎さんや深瀬昌久さんなどの写真集も出版しましたね。
テリー・リチャードソンの処女作も
ー小島さんなんて、北村さんのこの本が無かったらここまで知られていなかったと思います。
小島さんの存在を教えてくれたのは、森山さんなんです。井上青龍さんにしたって、森山さんが憧れていた人ですし。
深瀬昌久さんの『bukubuku』は日本より海外で人気で、ロンドン、ニューヨーク、パリ、メルボルンなど各国から在庫無い?ってよく聞かれます。
ー海外フォトグラファーの写真集もつくっていましたよね。テリー・リチャードソンとか。
写真集『TERRY RICHARDSON : HYSTERICGLAMOUR』。
テリーの処女作も出版しました。彼はファッション雑誌『DUNE』編集長の林(史浩、故人)からの紹介でした。林がテリーに、どこと仕事したい?と聞いたら、ヒステリックグラマーといわれたと。テリーは“青大道”を知っていて、指名してくれたんです。
テリーとは数多くヒステリックグラマーの広告を一緒につくりました。何シーズンか続けて、どうせならと処女作品集をつくろうということになって、ニューヨークの個展にも繋がりました。
ーヒステリックグラマーの写真集は、装丁も凝っていて、当時はあまりこういうのがありませんでした。出版社じゃないのに、中身は硬派な一切妥協ない仕上がりがカッコよかったです。バブル崩壊後、大手出版社が写真集を出さなくなり、近年の独立系小出版社が出てくるまでを繋いだ存在がヒステリックグラマーだと思います。
僕が定期的にニューヨーク、ロンドン、パリに行っていた頃、80年代は現地の本屋に日本人写真家の写真集はほとんど扱われていませんでした。日本人としてそれは悔しかった。
その後、90~2000年くらいですかね、“青大道”、『hysteric』のシリーズ、『Provoke』なんかが現地書店のショーケースに高い値段がついて売られるようになっていました。これを見たとき、自分たちはやり切ったなって思ったんです。
次は写真に限らず現代アートを発掘しようと思い、ヒステリックグラマー青山店の地下1階をギャラリーにしました。それがRAT HOLE GALLERYです(現在は閉店)。
この前、森山さんとも話したんですけど、“青大道”をお願いした当時、森山さんは活動を休止していたし、僕も洋服だけやっていてもな……と悩んでいた頃。お互いタイミングが良かったんです。
“青大道”は、青大道という“ひとつのもの”になりましたよね。海外の人もAo、Akaといいます。多分大道さんの写真集じゃなかったら、ここまでの展開はなかったんじゃないかな。
北村信彦|Nobuhiko Kitamura
1962年、東京都生まれ。オゾンコミュニティに入社した1年目、84年にヒステリックグラマーのデザイナーに就任。ロックをテーマにしたコレクションが人気となる。91年ブランドのカタログとは別に写真集の出版を開始。東京ファッション・カルチャーのパイオニア的存在。