23 February 2024

“光を駆使したジョージ・ホイニンゲン=ヒューンはファッション・アート写真の先駆者”
スザンヌ・ブラウンインタヴュー

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東京

23 February 2024

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“光を駆使したジョージ・ホイニンゲン=ヒューンはファッション・アート写真の先駆者”スザンヌ・ブラウンインタヴュー | “光を駆使したジョージ・ホイニンゲン=ヒューンはファッション・アート写真の先駆者”スザンヌ・ブラウンインタヴュー

ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン・エステート・アーカイブス学芸顧問、スザンナ・ブラウン

1920〜40年代にファッション誌『ヴォーグ』『ヴァニティ・フェア』『ハーパーズ バザー』などのフォトグラファーとしてファッション写真、ポートレートなど数多くの作品を手掛けたジョージ・ホイニンゲン=ヒューンの日本初となる個展「Master of Elegant Simplicity:ジョージ ホイニンゲン=ヒューン写真展」が、東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで3月31日まで開催されている。1920年代からガブリエル・シャネルと交流し、ヴォーグのスタジオで撮影された作品や当時の撮影風景、シャネル自身を始め、映画スターやアーティストのポートレート、旅先での風景写真など貴重なアーカイヴがオリジナル・ヴィンテージ・プリント、大判のプラチナ・パラジウム・プリントで数多く展示されている。同展を企画・キュレーションしたジョージ・ホイニンゲン=ヒューン・エステート・アーカイブス学芸顧問、スザンナ・ブラウンさんに話を聞いた。

撮影=飯塚茜
文=野田達哉

―今回の写真展を開催するに至った背景を教えてください。

ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンの作品はJ・ポール・ゲティ美術館、ニューヨーク近代美術館、ポンピドゥー・センターなど世界有数のコレクションに所蔵されています。ただ、これだけ大規模な展覧会はこの40年間を振り返っても、日本ではもちろん、海外でも初めてのこと。

ヒューンの作品は1968年の死後、彼と40年近く親交があったホルスト・P・ホルストがオリジナルプリントを受け継ぎました。今から4年前にトミー&オーサ・ロングレン夫妻によりスウェーデンのストックホルムにジョージ・ホイニンゲン=ヒューン・エステート・アーカイブスが設立され、散逸していたコレクションをまとめ、彼の写真における功績を研究することが始まりました。それまで彼の撮った写真は目にされることはあっても、ヒューンとは認知されず、彼はある意味忘れ去られた存在になっていたのです。

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今回、20世紀初頭のパリで出会ったガブリエル・シャネルとの交流を主眼にした視点で本展覧会を開催するにあたって、40年前からヒューンの写真を知り、彼の写真のファンでもあったシャネル・ネクサス・ホールのキュレーターであるインディア・ダルガルカーさんと協働で、どの写真をどのように見せるかを考えました。そして単に時系列で見せるのではなく、ファッション写真に加え、ポートレートや旅の写真などでヒューンの幅広い視点を知ってもらうことを目的としています。

―モノクロプリントのラグジュアリーな質感に驚かされました。展示されている作品はオリジナルプリントですか?

展示されている半数以上はプラチナ・パラジウム・プリント(以下プラチナ・プリント)です。プラチナ・プリントは今回の展覧会の企画を進めていた早い段階から展示しようと考えました。

プラチナ・プリントの技法自体は19世紀半ばに誕生していますが、アメリカでは一旦廃れて、1970年代後半になって再び注目されるようになり、ホルストはヒューンの作品と共に自分の作品を80年代に入ってからプリントするようになりました。そのアイデアを助言したのはアーヴィング・ペン だと言われています。ペン自身が自分のプラチナ・プリントの作品をホルストに見せて、ヒューンやホルストの作風に合うのではないか、と勧めたようです。

高価なプリント技法でどんな写真にも合うというものではないですが、ゼラチンシルバーとはまた違った質感で、ヴェルヴェットのようなソフトな質感かつ黒も柔らかく出るプラチナ・プリントは、光と影、布の表現などヒューンが目指した作品の方向性に非常にマッチしていると思います。この会場の広さ、天井の高さから大きなプリントの展示も可能でしたので、大型の作品は数年前にスウェーデンの専門のプリンターにエディション数を絞って焼いてもらっています。

―ヒューンはどうしてヴォーグでフォトグラファーとして働くことになったのでしょう?

ヒューンは1917年にロシア革命から逃れ、家族とともに英国に移住しました。1921年フランスに渡り、絵を学びます。フランスのヴォーグで働き出した当初は、写真を撮影するためのセットデザインを描くためのイラストレーターとして雇われました。アメリカ人フォトグラファーのアーサー・オニールのアシスタントとして撮影補助をしていたところ、ある日カメラマンが来ない日があり、ヒューンが撮影することになり、写真家になってしまったというエピソードが残っています。

彼はヴォーグで働く以前、映画のエキストラをやっていた経験があり、その時現場で照明のセットや撮影技術を見て覚えたようです。1926年に撮影を始め、まもなくヴォーグのチーフフォトグラファーに抜擢されています。

―当時のスタジオでの撮影風景が写った作品も展示されています。ヴォーグのスタジオでしょうか?

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ヒューンの撮影現場を写した作品

パリのヴォーグのスタジオで撮影されたヒューンのポートレートも展示しています。現代では写真を撮るのは一瞬で撮影できますが、ヒューンが撮影していた約100年前というのは大判カメラでした。作品に写っているのはUniversal Globus-Stella Salon Cameraという機材です。一枚の写真を撮るのに非常に時間が掛かり、多くのステップを踏まねばならず、大掛かりな作業でした。

展示した作品は実際にヒューンの撮影シーンの写真ですが、プリントの原寸サイズの大きなネガが何枚も準備されて、大掛かりな撮影だったことがわかります。フィルムを一枚ずつセットし直しては撮影していたので、とても一人でできる作業ではなくチームを組んで作業していたのです。ヒューンや当時彼のアシスタントだったホルストが、どの写真でも上半身は何も着ていないか、もしくはタンクトップなどアンダーウェア一枚で写っています。照明で暑く、スタジオワークは重労働だったのでしょうね。

―ビーチやプールサイドで撮ったように見える写真もスタジオで撮られているのでしょうか?

「DIVERS, SWIMWEAR BY IZOD, 1930」

屋外で撮影したかのように見える水着のシリーズ

ヴォーグは当時パリ、ロンドン、ニューヨークにスタジオがあり、大型の機材を外に持って出ることは難しく、水着の撮影もスタジオもしくはビルの屋上で撮影されていました。「DIVERS, SWIMWEAR BY IZOD, 1930」はギリシャの太陽への憧れが感じられ、画面の向こうに海が写っているかのような静謐な作品なのですが、実際はパリ・シャンゼリゼ通りにあるヴォーグのビルの屋上で撮られたものです。車の騒音や街の喧騒のなかで撮られたのでしょう。まさにヒューンのイリュージョンというべき作品で、非常に完璧かつ幻想的な写真に仕上がっていると思います。

―この作品にヒューンは後に「friends」というタイトルを付けて発表していますね。

ここに写っている後ろ姿の二人はホルストとリー・ミラーです。二人ともヒューンのアシスタントとして写真を学び、その後、世界的な写真家として名声を得ました。リー・ミラーは当時の人気モデルであり、今回の展示作品にも多数モデルとして登場しており、マン・レイの恋人でもありました。

彼女はマン・レイとヒューンの作品は「まったく異なる種類の写真」と評しています。リー・ミラーの写真家としてのキャリアはヒューンより長く、作品点数も多く、来年英国のテート美術館で彼女の大規模な展覧会が予定されています。

―男性モデルを撮った作品も数多く展示されています。当時ファッション写真として男性を撮ることはあったのでしょうか?

「HORST TORSO, PARIS, 1931」

男性の身体を彫刻的に撮ったシリーズ

ヒューンがファッション誌で初めて男性モデルを登場させました 。その重要な役割を持つ存在がホルストでした。1930年に出会った二人が熱意を持ったのは男女の肉体美、ギリシャの彫刻や海、太陽への賛美です。ヒューンは旅行で撮ったギリシャでの写真の光の再現をスタジオで目指しました。

30年代初頭に撮影された古代オリンピックのやり投げ選手を模したホルストのポートレートや、プライベートでヒューンがパリのスタジオで撮った「HORST IN THE POSE OF GREEK HORSEMAN, PARIS, 1932」は「日没時のアクロポリスの照明を再現しようとした」とホルスト自身は説明しています。

―ホルストはヒューンのキャリアにおいて重要な役割を担っているのですね。

ホルストは当初建築家ル・コルビュジェのアシスタントとしてドイツからパリに移り、建築の仕事を辞め、ホルストの下でモデル、アシスタントを務めるようになりました。ヒューンが1935年にハーパーズ バザーに移籍した後、ホルストはヒューンのパリのスタジオを譲り受け、その後60年にわたりヴォーグのフォトグラファーとしてのキャリアを築きました。

パリで出会った数年はヒューンの恋人だったのですが、その後も友人関係が続き、ヒューンが亡くなる1968年までその関係が続きました。ヒューンの生活や考え方を紐解くに当たり、二人の間にやり取りされた手紙は、本展開催にあたり多くのヒントになっています。

―二人の作品をコラボレーションした作品も展示されていますね。

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ホルストが撮ったシャネルのポートレートパネルを使用した「SURREAL STILL LIFE, 1939」

二人の関係を物語る作品として「SURREAL STILL LIFE, 1939」があります。ホルストが1937年に撮ったガブリエル・シャネルのポートレートを等身大に印刷してパネルにしたものを、ヒューンが1939年にシュールな構図で撮影しています。また、シャネルが制作に携わったニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演されたダリのバレエ作品「バッカナール」の小道具と一緒に撮影した作品も展示されています。

―ギリシャ彫刻のようなモデルのポージングや、フォトコラージュの作品はシュルレアリズムの時代性を色濃く感じます。

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左から「SONIA COLMER, VIONNET PYJAMAS 1, 1931」「LEE MILLER AND AGNETA FISCHER ,1932」

1931年に撮られた「SONIA COLMER,VIONNET PYJAMAS 1, 1931」はギリシャ彫刻のようなモデルの動きですが、これはモデルを床に寝かせて、布のドレープをヒューンが一つひとつピンを打って、俯瞰で撮ったという作品です。当時女性モデルは新しい職業であり、通常はクチュールハウスの専属モデルであることが多く、このソニア・コルマーというモデルはヴィオネの専属でした。同時にいろいろな写真家やデザイナーと仕事をする女性たちもいて、二つのショットを組み合わせた「LEE MILLER AND AGNETA FISCHER ,1932」はリー・ミラーとアグネタ・フィッシャーをそれぞれ撮影し、コラージュしたものです。

―ヒューンはヴォーグからハーパーズ バザーに移籍し、ニューヨークに移った後もシャネルやパリのアーティストたちとの交流は続いたのですか?

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「PORTRAIT OF THE DALIS IN L’INSTANT SUBLIME, 1939」。左にダリとガラの姿がある

続いていました。ハーパーズ バザーに1939年に掲載された作品「PORTRAIT OF THE DALIS IN L’INSTANT SUBLIME, 1939」はシュルレアリズムの象徴とも言えるダリの代表的な作品「The Sublime moment」の絵の中にダリと妻のガラをフォトコラージュして、実際にその中に二人がいるという世界を作り出しています。シャネルの南仏の別荘ラ・パウザにダリが1938年に滞在して、この絵を描いている写真が資料に残っています。

―シャネルのポートレートはいつ頃の写真なのでしょうか?

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「GABRIELLE CHANEL, 1939」

1939年にハーパーズ バザーに掲載された作品です。今回の展示でもっともメインに据えたいと考え、会場中央にレイアウトしました。個人的にはスタジオでモデル撮影の前に撮られたと思われる、シャネルがフィッティングのために針で最終調整しているシーンのカットが好きです。

―映画スターのポートレートも数多く展示されていますが、映画会社から依頼されて撮影していたのでしょうか?

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左から「CHARLIE CHAPLIN, 1932」「GARY COOPER, 1934」

ヒューンは映画が好きで若い頃から映画への憧れがあり、パリでは数本自分でも映画を撮っていました。

ポートレートは1927年ヴァニティ・フェアの依頼で、当時の映画スターを数多く撮影しています。1934年には同誌のためにハリウッドへ派遣。ヒューンのお気に入りだったキャサリン・ヘプバーンや当時一世を風靡したジョセフィン・ベーカー、マレーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパー、チャーリー・チャップリンなど20、30年代に撮影されたものを今回展示しています。映画監督のポートレートも多く撮影しており、なかでもジョージ・キューカーと交流が深く、後にハリウッドに移り住んで、映画のカラー技士としての仕事をしています。

―ヒューンはカラー写真も撮影していたのでしょうか?

ハーパーズ バザーで撮っています。ヒューンがヴォーグからバザーに移籍した30年代半ば、バザーは変革期でした。どのように変わったかは、4月末にテームズ・アンド・ハドソン社から発刊される大判の写真集『George Hoyningen-Huene:Photography, Fashion, Film』(スザンナ・ブラウン編)で紹介しています。

ちょうど、1932年にカーメル・スノーがヴォーグからバザーに移籍して編集長に就任(1958年まで編集長)。ロシア出身でパリに亡命し、ニューヨークでイラストレーターをしていたアレクセイ・ブロドヴィッチがアートディレクターに起用され、余白を大きく取ったレイアウトはファッション誌のデザインの流れを大きく変えました。

37年には映画にもなった名物編集者ダイアナ・ヴリーランドもバザーに加わり、ヒューンはマン・レイやブラッサイとともにそのチームに入り、ファッション誌が革新的に変化していく役割を果たした時期に撮影しています。ちょうどコダクロームの登場によってカラー写真がファッションフォトにも登場し、ヒューンもモノクロ写真とは言語の違うカラーの技術に取り組みました。

―ヒューンが現代のファッション写真に与えた影響はどう考えられていますか?

ヒューンの与えた影響はスタジオ撮影が大きなポイントです。特に照明のドラマチックな演出、影の見せ方を、スタジオの中で遊ぶというのは重要な要素でしょう。その照明技術を生かした男性の身体性、ホモエロティックともいうべき表現はロバート・メイプルソープ、ハーブ・リッツらの彫刻的な写真表現に受け継がれ、ファッション写真というだけではなく、より幅広く現代に受け継がれたのではないでしょうか。

―近年ヴィヴィアン・サッセンやアレック・ソスなどファッションとアートの両方で活躍する写真家が増えています。ジャンルの垣根がなくなっているように思いますが、写真の違いは何だと考えますか?

ヒューンと同時代の写真家たちはもともとアートの教育を受け、画家としてトレーニングを積んでいました。ヒューンもキュビズムの画家としてスタートし、写真に転向しましたが、アートの視点で写真を見てきたのだと思います。

そもそもファッション写真だけを撮ったフォトグラファーはほとんどおらず、どの写真家も表現者として撮っていると思います。ファッション写真とカテゴライズすること自体が彼らの活動にそぐわないのではないでしょうか。

タイトル

Master of Elegant Simplicity:ジョージ ホイニンゲン=ヒューン写真展

会期

2024年2月7日(水)~3月31日(日)

会場

シャネル・ネクサス・ホール(東京都中央区銀座3-5-3シャネル銀座ビルディング4階)

時間

11:00~19:00(最終入場18:30)

定休日

無休

入場料

無料

URL

https://nexushall.chanel.com/program/2024/ghh/

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