ヴォルフガング・ティルマンスの個展「How does it feel?」が東京・六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートで開催中だ。新型コロナウィルスの感染リスクを避け、作家の来日はかなわなかったが、ティルマンス自身がディレクションした綿密な空間設計によるインスタレーションからは、現在の彼がとらえる世界の見方と関心のありようがうかがえる。作品単体ではなく、様々な要素が作品同士、そして空間と連動してリズムを生み展開していくティルマンスならではの展示の魅力について、ギャラリーオーナーの和光清にナビゲーションいただいた。
文=小林英治
写真=小山和淳
パンデミックを経験して 選ばれた「日常の接触」
今回の個展は、ギャラリー内の4つの空間から構成されている。まずエントランスを入ると、仮設の壁が手前にあり、それによって2面の壁に仕切られた横長の小さな空間が新たに生まれているが、これは当ギャラリーで開催されたひとつ前の展示のためにつくった壁を、ティルマンスがそのまま利用したものだという。ここには雑誌に掲載された誌面をそのままピン留めしたもの、Cプリントの印画紙をテープ留めしたもの、インクジェットプリントの額装作品を展示したものなど、複数のモチーフとメディウムが配置されている。インスタレーションされた個々の作品が、多重的に、相互に関係しあいながら独特のリズムを生みだし、彼がとらえる世界の様相を観る者の身体に浸透させていく効果は、この最初の小さな空間だけでもはっきりと伝わってくる。
もう少し細かく見ていこう。入口正面にピン留めされた雑誌の誌面は、新型コロナウィルスによるロックダウンとジョージ・フロイド氏殺害事件に端を発したブラック・ライブズ・マターが拡がる期間に制作された2020年春夏の『i-D』no.360〈The Faith In Chaos issue〉に掲載されたティルマンスの10の見開きページだ(ちなみにこの号の表紙はファレル・ウィリアムス)。ここでティルマンスは、”We can’t escape into space, we’re in it”というメッセージのもと、1990年~2020年までの新旧作品を誌面上にコラージュ/レイアウトしているが、選ばれている多くのイメージは、人々が他者に触れ、抱き合いキスをし、または食べ物を手で掴むといった、コロナ禍で失われてしまった日常の接触の光景だ。同時に、これらのイメージの連なりの背後からは音楽も聞こえてくる。そのイメージは右に目を移すととらえられる、ARCA、Grace Jones、Neneh Cherryといったミュージシャンたちの写真と呼応し、そのポートレートというフォーマットは、さらに右側の壁に点在する各地で撮影されたアノニマスなポートレートとして反復・分散されていく。
この2面の壁で唯一額装された作品は、『i-D』誌面にも選ばれている花弁を切り揃えられたチューリップの写真だが(今回の個展のメインイメージでもある)、額装されたことでマテリアルとしての写真が浮かび上がり、周囲とは異なる印象を与えている。そして、一番右端の写真(雑誌誌面)は、和光氏によれば今年2月にベルギーのブリュッセル現代美術館(WIELS)で開催された大規模な個展「Today Is The First Day」の会場風景だという。世界を旅しながら我々が生きる時代を把握し、各地で展覧会を行ってきた2010年代のティルマンスだが、この写真はそういったグローバルな動きが制限される前の最後の記録と見ることもできるかもしれない。今回の個展のタイトル「How does it feel?」というティルマンスの問いかけが、頭の中でリフレインする。
Clipped Tulip, 2020
次の大きな部屋へとつながる壁に配置された2つの写真は、2018年からアフリカ大陸での初個展を4カ国で巡回した際に撮られた、バラック風の建物のトタンの波板と、アジスアベバの建築現場の写真。どちらも一見するとアブストラクトな印象を与えるが、よく見ると具体的なディテールが浮かび上がって土着の地域性も感じさせる、ひと言では言い表せない複雑なイメージだ。
反復される作品群が互いに共鳴し合う空間
アフリカの印象を残したまま大きな空間に足を運ぶと、目に飛び込んでくるのは、3方の壁にそれぞれ掛けられた2メートル近い大きさの作品だ。
そのうち額装された2点は〈silver〉というシリーズで、技法的には代表作のシリーズのひとつ〈Freischwimmer〉と同じく、暗室作業のみで印画紙に直接イメージを定着させたもの。〈Freischwimmer〉では制作プロセスに手作業を介入させてイメージを生みだしているのに対して、〈silver〉ではより機械的に現像液と残留化合物の反応に任せている。和光氏によれば、「〈silver〉シリーズの中でも、今回展示しているのは複数の明るい蛍光色がストライプ状になったポップな印象のセレクションです。他の〈silver〉のように通し番号ではなく〈silver PCR〉と名付けられていますが、2009年に制作されて未発表だったもので、ロックダウン中にティルマンスがスタジオで過去の作品を見直しているなかで発掘し、今なら発表できると考えた作品」だという。「『PCR』という今では毎日のように聞くようになったこの言葉は、PCR検査のことを指していますが、すでに2015年のNYのギャラリーでの個展のタイトルに使われています。ティルマンスは、個々の作品で多様な世界のありようをとらえてきたが、たったひとつの作品からでも世界の全体像が見えるのだ、という意味合いを1本の毛髪からでも個人が特定できるこの検査に重ねているのでしょう。<Silver>のように、オーディエンスによって見え方の幅が広い抽象作品においても、ひとかけらのミクロの情報にすべてが詰まっている、という意味を込めているのだと思います」。
〈silver PCR 1〉の鮮やかな色合いは、手前のアフリカの写真にあるビニールシートのオレンジとも呼応し、また左隣に配置されたサハラ砂漠を空撮した砂の山の反復とも響きあうことで、地平線をとらえた写真のようにも、アブストラクトなペインティングのようにも見えてくる。〈silver PCR 2〉にある襞模様は、隣にある衣服のシワを写した作品〈Faltenwurf (blau)〉に連なり(シワはアフリカの写真のトタン板のテクスチャーの反復でもある)、そのティルマンスらしい初期からのモチーフとまなざしは、左壁に掛かる窓際の静物の作品〈Hampstead still life〉と共鳴していく。この2点はどちらもおなじみのモチーフだが、和光氏によれば、静物の写真はロンドンのロックダウン直前に撮られたものとのこと。ティルマンス の写真は反復しながらもつねに現在が刻印されている。
常にテクノロジーとともに進化するティルマンス作品
この空間でもうひとつの大きな作品は、インクジェット出力した縦2.4メートルのプリントをクリップで吊るした〈crossing the international date line〉。タイトルが示すように、飛行機で日付変更線上を通過したときに夜空を撮影した写真だが、時期的には、こちらも新型コロナの感染が拡大する直前の2月に、ティルマンスが舞台美術を手がけたベンジャミン・ブリテンの合唱曲《戦争レクイエム》が台湾に巡回した際の、移動中の機内から撮られたものだという。イメージとしては、デジタルカメラで真っ暗闇を撮影した際に生じた3原色のモアレのノイズが全面に現れて、本来写っているはずの星空に重なり、その境目が曖昧になっているところが興味深い。白い点は星かノイズかはもはや判別がつかない。
crossing the international date line, 2020 (展示風景)
「これはそもそもフィルムだったら生まれえない、彼がデジタルの最前線でチャレンジしている姿勢がうかがえる作品だと思います。モアレみたいな偽色の現象も、本来なら失敗だから、作品にはしないですよね。数年前にロシアで撮影した〈End of Broadcast〉(2014)という作品があって、放送終了後のテレビ画面の砂嵐を撮ったものなんですけど、それも近くで見るとブラウン管の3原色が写っていたので近いものを感じますね。ちなみにこのモアレの現象は、左の壁にあるティルマンス自身の後ろ姿をセルフポートレイトで撮影した〈Walk〉にも、逆行で影になった部分に同じく現れています」
Walk, 2017
抽象化していく代表作、そして映像、音楽
3つ目のスペースには、代表作のひとつ〈paper drop〉シリーズの大きさの異なる作品が2点と、うねる湖の表面をとらえたクリップ留めされた縦長の大型作品、ゲストエディターを務めた写真雑誌『Aperture』237〈Spirituality issue〉の誌面や額装された作品、テープで貼られたCプリントなどで構成された壁面と、ここでも複数の異なる素材を用いたインスタレーションがなされている。
「〈paper drop〉は2001年から制作しているシリーズで、Cプリントの印画紙をくるっと丸めて撮っているだけなんですけど、昔からティルマンスは、プリント自体もイメージというよりは物質であり、写真は3次元のものだと言っています。〈paper drop〉はそのことを端的に見せているわけですが、最初の頃は物質としてリアルに撮っている感じだったのが、ここ数年どんどん抽象的になってきました。徐々に最初のコンセプトから離れてきたことで、〈paper drop〉でまだやれることあるとティルマンス自身感じたそうで、去年から集中して新作を撮っています。抽象度が高まると逆にアブストラクトなペインティングのようにも見えてきて、手前の部屋の〈silver〉とのつながりも立ち現れてきます」
美術館での大規模な展覧会であろうと、今回のようなギャラリースペースの個展であろうと、ティルマンスは必ず縮尺模型を作って空間構成をシミュレーションし、1ミリ単位の厳密さで配置の指示を出すという。実際に現場入りしてから即興的に変更させていくこともあるようだが、今回は来日が実現しなかったため、完全に当初の計画通りにインスタレーションされているという。唯一かなわなかったのが、映像作品の見せ方で、本来はベルギーの展示でも行ったように、写真が配置された部屋全体にビデオを投影する体感型のインスタレーションにしたかったそうだが、それには現場での細かい調整が必要なため、今回は映像だけ独立して別の小部屋で見せている(2作品のループ)。とはいえ、映像につけられた音源は、ティルマンスが近年積極的に取り組んでいる自身の音楽で、ギャラリー全体に響き渡るようになっている。
「すごくよくインスタレーションが練られているんですよ。作品同士のつながりとか、各部屋の導線の連動とか、僕らもお客さまの指摘で新しい発見があり、なるほどと思うことも多々あります」。
ここに記述した見方もほんの一例に過ぎない。誰もが自由に空間を行き来して、自分なりの関係性を発見していきながら、ティルマンスが投げかける「How does it feel?」に応答してほしい。
Anemones March, 2020 (展示風景)
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。