12 February 2021

石岡瑛子と写真、その先鋭的な広告クリエイティブの世界

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東京都

12 February 2021

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石岡瑛子と写真、その先鋭的な広告クリエイティブの世界 | パルコの仕事より(1976~1980年)

パルコの仕事より(1976~1980年)

東京都現代美術館で開催中の「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展。展示を見ていると、時代を作り先導した一人のクリエイターの熱を帯びた仕事に圧倒される。評判が評判を呼び、現在、一目見ておこうという人々が終了目前となって駆け込みで列をなしているという。広告やエディトリアルのグラフィックデザインから舞台や映画の衣装や美術のデザインまで多彩なジャンルで活躍した石岡だが、IMAでは「写真」を切り口にアートディレクターとして活躍した初期の仕事にスポットを当てて、広告写真を中心に、戦友ともいえる写真家たちと共に築き上げたその偉業を振り返った。展覧会を鑑賞した人も、見逃した人も、作品に隠されたエピソードを知れば、石岡作品と彼女が駆け抜けた熱い時代に、一層の理解が深まるはずだ。

文=鈴木芳雄
写真=白井晴幸

巨匠写真家アーヴィング・ペン(1917~2009)のプリントが見られるとは思わなかった。マイルス・デイヴィス「TUTU」のジャケットのために撮ったポートレートだ。ここまでマイルスの迫真をとらえた写真があるだろうか。

石岡瑛子にとって、マイルス・デイヴィスのアートワークを手がけるのは石岡が資生堂をやめ、独立した直後に一度、このときはマイルスとの直接のやりとりはなく、集めた写真をもとにレコードジャケットのデザインをした。1968年、石岡が資生堂を退職し(その後69年末まで嘱託)、設立されたばかりのCBSソニーのアートディレションを担当したからだ。そのジャケットは日本限定発売のものだった。

15年後の1983年、マイルスが来日したとき、三宅一生がディナーを主催し、三宅と旧知の石岡も招かれた。そのときに60年代にデザインしたレコードをマイルスにプレゼントしたところ、日本限定だったため本人も見ておらず、このとき初めて見た彼はとても気に入ってくれた。さらに、後日、石岡の作品集『EIKO by EIKO』を高く評価してくれたのだという。

1985年、マイルスは30年以上契約していたCBSを離れ、ワーナー・ブラザースと契約を結んだ。移籍後第一作のレコードのアートワークとミュージックビデオの演出のディレクターとして石岡が指名された。そのとき、石岡はアーヴィング・ペンによる撮影を希望した。ペンと石岡はその時点で親交があり、「アーヴィング」「エイコ」と呼び合う中だったが、巨匠ペンにとっては小さかったその仕事を依頼してみた。「OK」の返事をもらったときは「ほんとうに身体中が青空で一杯になったような爽快な気分になる」(石岡瑛子『私デザイン』講談社 2005年)と書いている。しかし、いざ撮影が始まれば、音楽界と写真界の巨匠2人の間での調整に苦しむこともあった。しかも、ただの調整だけでは済まされない。なによりも大事なのは石岡の意図を通すことだから。

石岡瑛子 アルバム・パッケージ『TUTU』(マイルス・デイヴィス作、1986年)アートディレクション © The Irving Penn Foundation

石岡瑛子 アルバム・パッケージ『TUTU』(マイルス・デイヴィス作、1986年)アートディレクション © The Irving Penn Foundation

石岡瑛子 アルバム・パッケージ『TUTU』(マイルス・デイヴィス作、1986年)アートディレクション © The Irving Penn Foundation

そうして、マイルス・デイヴィスのアルバム『TUTU』(1986年)の、顔と手だけをクロースアップしたイメージは完成した。これ以上、鬼気迫るマイルスを捉える方法はないと石岡は確信していたのだ。石岡は考えた。マイルスとより親密になり、この仕事を成功させたい。そこで、二人でメトロポリタン美術館のアフリカ館を一緒に見て回ったりもしたという。静かな館内でマイルスのルーツであるアフリカの美しい美術品、トルソやマスクを見たことは、彼の端正なマスクを捉える仕事に結実したわけだ。この仕事で翌87年、石岡はグラミー賞最優秀レコーディングパッケージ賞を受賞し、アーヴィング・ペンが撮影したその写真はニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションになっている。

東京都現代美術館での回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」で、アーヴィング・ペンがマイルス・デイヴィスを撮影した素のプリント(広告グラフィックに加工される前の写真)を見たとき、これはローライフレックスで撮ったものだろうと思った。ペンが世界の少数民族や仕事の現場の人々を撮った「Worlds in a Small Room」という写真集がある。その撮影風景を写した写真があり、そのとき、ペンはローライフレックスにルーペ型のウエストレベルファインダーを付けている。また、2017年、メトロポリタン美術館でのアーヴィング・ペン生誕100年の回顧展では愛用のローライフレックスが展示されていた。詳しくいえば、ローライフレックス3.5E3(1959年発売)でレンズはプラナー75mmF3.5が付いている。展示ではさらにそのルーペ型のファインダーとケーブルレリーズも付けてあった。

撮影中は音楽をかけたいと主張するマイルスと、静粛の中で撮影したいというペンの間を取り持ちつつ、石岡はなんとかマイルスを説得し、静かな撮影になった。そのときのことを石岡はこう書いている。「アーヴィング(・ペン)はマイルスに静かに話しかけ、そしてゆっくりと、一枚目のシャッターを切った。ローライフレックス特有の心地よいシャッター音が、スタジオの中に響き渡る」(前掲『私デザイン』)


生命力に溢れ、意志的な顔と健康な肉体をもった女性を

アートディレクター、デザイナー。手がけた領域はグラフィックデザイン、映像、舞台美術、衣装デザイン。メディアは広告、映画、出版、ファッションショー、オペラ、サーカス。そして、オリンピック。それが石岡瑛子の仕事だ。

石岡瑛子は1938年、東京に生まれた。父はグラフィックデザイナーのはしりだった。のちに妹の怜子もデザイナーになる。お茶の水女子大学附属中学校・高校から東京藝術大学美術学部図案計画科に現役合格。1961年、資生堂宣伝部に入社。ときは高度成長期の始まり。東京オリンピックを数年後に控えて、日本のグラフィックデザインも大きく成長したときだ。写真製版やカラー印刷も急速に発展した。

資生堂の仕事より(1966~1968年)

資生堂の仕事より(1966~1968年)

1966年、前田美波里をモデルとして起用したサマーキャンペーン「太陽に愛されよう」で初めてのハワイロケとなった。まず、前田美波里というモデルが異色である。それまでの広告に登場する女性といえば、楚々としたお人形のような美人像が中心だった。しかし、石岡は前田の、太陽の下でへこたれない生命力、意志的な顔と健康な肉体に入れ込んだ。当時17歳。アメリカ人の父と日本人の母をもつ前田を見つけて、石岡に提案したのは写真家の横須賀功光。当時、前田は東宝のミュージカルのオーディションを受けていた。

横須賀はハッセルブラッドを使い、2,000カット撮影したというから膨大なカット数である。単純計算しても120フィルムなら167本。220でも80数本。その中から選び抜いたのがあの有名なメインカット。白い水着に白いスイミングキャップ。背景は空と海だけという絵を得る。ここがハワイかどうかはわからない。ただ強い光が印象に残るだけだ。

この仕事は1966年当時、媒体費や店頭ポスター制作費など含め総予算4億円のキャンペーンのヴィジュアルの制作である。資生堂入社5年目の石岡の給料が8,000円だったというからいかにお金のかかったプロジェクトであったかわかる。日本広告史に輝く広告となったキャンペーンだったが、ハワイでの撮影の結果は散々なものだったようだ。スタジオフォトグラフィでは定評のあった横須賀功光は初めてのハワイの陽光の下では、思うような写真が撮れず、石岡は印刷のプロセスでなんとか完成させたというエピソードが残る。

大変な撮影だったのはモデルの前田美波里にとっても同様だった。撮影からホテルの部屋に戻ると、体力的にも精神的にも参ってしまって熱を出して倒れてしまったと後年語っている。しかし、この仕事では自分でも未知の何かを引き出してもらい、人生が大きく変わった、そのことをずっと感謝している、とも。反響の大きさは前田を有名人にした。ポスターは貼るそばから盗まれていくというそれまでになかった現象に見舞われたのだ。

日本画廊主催「反戦と解放展」「POWER NOW」(1968年)

日本画廊主催「反戦と解放展」「POWER NOW」(1968年)

この資生堂ビューティケイクの広告キャンペーン「太陽に愛されよう」では、アートとしての写真を捨てて、情報としての写真に徹したのが勝利を導いたということは石岡も認めているが逆にアートを指向したポスターがある。「POWER NOW」という簡潔なコピーを与えられた「反戦と解放展」(日本画廊)のポスターだ。写真家は同じく横須賀功光。裸の体をまるめてぎゅっと小さくたたんだポーズをとったモデルを横から撮影した。それが一見、体というより、握った拳のようである。それを二つ組み合わせてより力強さを持たせている。メタルペーパーにモノトーンで印刷しているのも新鮮である。

このポスターのコピーを書いたのは小池一子。小池は、日宣美の若手登竜門のコンクールで賞を獲った石岡の作品に衝撃を受け、大いに興味をもち、知り合いを介して会いに行く。二人はすぐに意気投合し、頻繁に会うようになり、一緒にスイス、イタリアを旅行した。石岡はまずニューヨークに出かけ、一方、小池はロンドンに出かけ、そこから合流したのだという。その翌年、「POWER NOW」のポスターを作った。二人はのちにパルコの仕事をともにすることになる。

小池の紹介により、石岡は池袋のパルコの広告から関わっていたが、劇場なども付設した総合的な文化拠点となる渋谷パルコの準備の段階から本格的に取り組むようになる。デパートとは異なるファッションビルをいかに広告していくか。強烈な写真と意表をつくキャッチコピー、それらをまとめるアートディレクションで力を発揮した。

ムーヴィではモデルが服を着たままプールに飛び込むところを撮影し、それを逆回転させている。プールへの落ち方が気に入らないという理由で何度も取り直した。衣装は一着しかなく、やり直しの度にドライヤーで乾かしたと、この撮影を担当したスタイリストの伊藤佐智子が述懐している。関係者の間ではこのキャンペーンがその後のパルコの広告のスタイルの方向性を決めたと語られる。スティル写真の撮影はこれも横須賀功光。

モデルの気持ちを高めるために、撮影現場で石岡も上半身裸に

「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」「ファッションだって真似だけじゃダメなんだ。」「さらば故郷、ファッションに国境はない。」「女は明日に燃えるのです。」というパルコの広告コピー。モデルは着せかえ人形じゃない。それまでの男性が主導する広告表現と真っ向から闘う姿勢を具体的に見せている。当時、男女雇用機会均等法は施行されていなかったけれども、女性の社会進出は活発化し、ファッション文化の地位向上も背景にあった。これらの広告のディレクターはまさに石岡瑛子という女性なのである。

パルコ「裸を見るな。裸になれ。」(1975年)

パルコ「裸を見るな。裸になれ。」(1975年)

服を売ることこそ目的のファッションビルの広告で「裸になれ」は逆説的で扇動的である。あっぱれというしかない。モデルはオーロール・クレマンというフランス人で、ルイ・マル監督『ルシアンの青春』(1973年)の主演をつとめた女優。このとき、モデルの気持ちを高めるために、まず、石岡も上半身裸になっていた。さらにメイキャップアーティストも。それには長年組んで仕事をしてきた横須賀も驚いた。そうして、会心の笑顔の天真爛漫なヌード写真ができあがった。決して男たちにだけ見せるためだけではない裸である。後日、横須賀は石岡との仕事の中でこれが一番好きだったと語っていた。

写真家の操上和美は石岡の現場でのあまりの干渉に音を上げ、その場から石岡を追い出したこともあると語っている。パルコの仕事だが、女優のドミニク・サンダをパリ郊外の彼女の別荘で撮影していたとき、自分とカメラに近寄り過ぎながら、指示を出す石岡に辟易し、「ちょっと離れてくれ」「ここから出ていかないと撮らないよ」とまでいい、結局その部屋を出るようにいった。

パルコ「女優ドミニク・サンダ讃」(1978年)

パルコ「女優ドミニク・サンダ讃」(1978年)

その操上が冷静に石岡を語るとこうである。

「写真家は直感で罠をかけ、アートディレクターは偶然を信じない。だから写真家の曖昧さを許すことができず確固たるイメージとその手順の具体性を求めてくる。しかしそれは獲物を狙うプロハンターとしての方法論の違い、あるいは男と女の生理感覚の違いなのだろうか、時として意見の対立することもある。」

現場では石岡を持て余していた操上だが、「(石岡が)撮影というパフォーマンスに積極的に参加し、カメラと一体になって、写す側と写される側とのリレーションとそのエクスタシーを体感したいという強烈な願望の現れであろう。これ程までに激しい本能で撮影に参加したアートディレクターを残念ながら石岡瑛子の他に僕は知らない」とも賛辞を送る。(ともに『石岡瑛子 風姿花伝―Eiko by Eiko』)さて、現場を追い出された石岡はどうしたか。そんな写真家は操上しかいなかった。石岡は途方に暮れたのか、ドミニク・サンダの別荘の庭の草むしりをしていたという。

展示風景

石岡瑛子と組んだ写真家はまだまだいる。沢渡朔、坂田栄一郎、鋤田正義、十文字美信、藤原新也、大西公平。アニー・リーボヴィッツにはセルフポートレイトを撮影させている。リーボヴィッツは当時から肖像写真の第一人者。『写真論』などの著作のある作家で、アメリカの著名な知識人スーザン・ソンタグのパートナーとしても知られている。ピンクのスーツを着せた姿をセルフィーでという意外さが与える衝撃は大きい。

三陽商会「I AM A VERY WOMAN」(1983年)

三陽商会「I AM A VERY WOMAN」(1983年)

藤原新也とはパルコのキャンペーン「あゝ原点。」(1977年)でインド、モロッコ、ケニヤの砂漠のまわりや山岳地域に住んでいる女性たちを撮影している。そんな女性たちを、都会の消費文明の最高峰ともいえるパルコが「原点」と位置づけているのが極端である。藤原は広告の写真だけでなく、このときの撮影で『七彩夢幻』という写真集を石岡瑛子の企画・構成でPARCO出版局から上梓している。

パルコ「あゝ原点。」(1977年)

パルコ「あゝ原点。」(1977年)

十文字美信はパルコの「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテアデスガタ)」。これはニューヨークのクラブで見つけた若い男女をスタジオで撮影したもの。

パルコ「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテアデスガタ)」(1980年)

パルコ「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテアデスガタ)」(1980年)

パルコの仕事と並ぶくらい石岡ならではものといえるのが角川書店の出版物の装丁やアドワークである。当時は角川春樹がこの出版社を率いており、映画を軸に据えたメディアミックス戦略を推し進めていた。文庫本は屋内で読むものではなく、野外で移動しながら読み、読み終わったら捨てるくらいの行動的なアイテムとするキャンペーンが企画されたりしていた。本との新しい関係の構築である。コピーは「旅にでる一冊」。砂漠の中を歩く人を遠くから撮っている。よくよく見れば片手には1冊の本。これも横須賀功光の写真。

横須賀は基本的に35ミリ判カメラを使っていたが、資生堂ビューティケイクの広告で前田美波里を撮ったときのように6×6判も使う。そして16ミリのムーヴィカメラで撮ることもあった。たとえば、この角川文庫の扇動的な広告(左下の「女性よ、テレビを消しなさい。」)がそうだ。

角川書店の仕事より(1973~1977年)

角川書店の仕事より(1973~1977年)

石岡瑛子は、ニューヨークに行き、映画やステージなど多面的な活動を行う。それより以前、広告の仕事を中心にしていたときの1976年のインタビューでこんなことを語っている。

「自分が言いたいことをはっきりさせるのは、これは一種の責任みたいなものでもある。(中略)要するに他のものがつけ込むスキを与えたくないってとこもある。表現があいまいであればあるほど、その状況の猥雑感というのが、その仕事に入りこんできちゃうと考える。その辺になるとクセだけじゃなく、ロジカルに考えていってもその方が絶対いいという自信も裏づけもあるし。」(2020年『コマーシャル・フォト』12月号/再録:1976年『コマーシャル・フォト』5月号増刊「ポスター・デザインと印刷」)

NUBA レニ・リーフェンシュタール

NUBA レニ・リーフェンシュタール

NUBA レニ・リーフェンシュタール

広告の仕事のかたわら、レニ・リーフェンシュタールを1970年代に再発見し、日本に紹介した功績も石岡のものである。リーフェンシュタールはナチス党大会や1936年のベルリンオリンピック記録映画で知られているが、60歳を超えてアフリカのヌバ族を撮影し、写真集を出していた。それをニューヨークの書店で見つけた石岡は女性誌『MORE』(集英社)にリーフェンシュタールのロングインタビューを持ち込み、連載し、反響の大きさから西武美術館で展覧会を企画。会場構成はじめディレクションを手がけた。

石岡瑛子 1983年 Photo by Robert Mapplethorpe © Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.

石岡瑛子 1983年 Photo by Robert Mapplethorpe © Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.

ひとつの時代を作った人、あの時代が必要とした人。広告デザインの世界に身を置き、広告写真を一躍高みに導いた人、広告写真の発展のために必要だった人。その後、彼女はフランシス・フォード・コッポラやターセム・シンなどの才能から必要とされる。そして、オリンピック開会式のコスチュームディレクターにまで登りつめることになる。

参考文献:
石岡瑛子『石岡瑛子 風姿花伝―Eiko by Eiko』求龍堂 1983年
石岡瑛子『私デザイン』講談社 2005年
東京都写真美術館編『光と鬼―横須賀功光の写真魔術』PARCO出版 2005年
河尻享一『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』朝日新聞社 2020年
小池一子『美術/中間子 小池一子の現場』平凡社 2020年
『COMMERCIAL PHOTO』2020/12「石岡瑛子インタビュー再録」
東京都現代美術館「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展覧会解説 2020年

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