写真家の思考をたどる「写真家のフィールドワーク」は、写真家による写真と言葉で綴られるフォトエッセイ。第6回目は「戦争を理解したい」という一心で世界の戦場を撮り続けてきた写真家・亀山亮。彼がいま追っているのは沖縄本島や慶良間諸島で行われていた集団自決について。言葉では語り難い壮絶な体験をした人たちから当時の記憶を写真とインタヴューで取材し、その記録をまとめた『戦争・記憶』が近日刊行される。亀山がなぜいま沖縄の戦争の記憶に向き合うことになったのか?ここではその経緯が彼が歩んできた長い道のりとともに明らかにされる。
写真・文=亀山亮
長期で沖縄の撮影を始めたのは2015年の戦後70周年の企画で沖縄戦の体験者の取材に訪れたのがきっかけだった。
久し振りの沖縄の街並みは観光客で溢れ大きく変貌していた。唯一変わっていなかった風景は米軍基地を取り囲む長いフェンスだけだった。20年前格安航空券などなかった時代、東京から船に乗って二日後にようやく沖縄にたどり着いたとき、日本語は通じるけど日本ではないアジアの匂いがする別の国にやってきたのだなという実感が強かった。
当時、金がなかった僕は(いまも大して変わらないけれど)、那覇の国際通りで夜になるとメキシコで撮影した写真を並べ、タイで買ってきたアクセサリーを路上で売る生活をしていた。メキシコで取得した運転免許を国際免許に変更して、本土から運んできた格安で買った中古の250ccのホンダのクラブマンとヒッチハイクでテントを担いで沖縄本島や八重山の島々を旅した。バイクは石垣島で藪から突然出てきた大きなサギを避けきれなく自爆。調子が悪くなったバイクはそのまま友人の家に置いてきてしまった。
沖縄の友人の家に行ったとき、応接間でビールを飲みながら友人のお父さんが大真面目に怒ったように「沖縄は日本から独立するべきだ」といったとき、それをいわれた僕は口をあんぐり開けてびっくりしたのをよく覚えている。離島でキャンプをしていたときにも小さな商店に上半身裸で買い物に行ったら島のおじいさんに「日本国民として恥ずかしい格好をして出歩くな」と怒鳴られたときもびっくりした。
当時若かった僕は彼等が歩んできた沖縄の歴史の背景までを知ろうという気持ちはなかった。それよりは年長者が年下に対しての上からの物言いに対しての違和感の方が強かった。
メキシコでサパティスタ民族解放軍の取材中に移民局の検問でパスポートを取り上げられて一年間の国外退去処分を受けていた僕は、メキシコに行けないなら、以前から行きたかったブラックアフリカに行こうと思っていたが沖縄では資金が貯まらなかった。当時沖縄に一緒に移り住んで付き合っていたパートナーと別れ、東京で土方仕事をして資金を貯めることにした。
マレーシア航空が出していた一年間有効の自由に国を選びながら世界一周できる格安チケットを持っていたが、空港で出発手続きをすると僕の勘違いで一部使ってしまった区間があって日本からアフリカ経由で地球をうまく一周して日本に戻ってくることができなくなってしまった。
仕方がなくその足で新宿の旅行代理店で翌日、日本からアルゼンチン経由で南アに行くという変則的で割高な片道チケットを買って、実家のリビングで朝早い便に乗り遅れないようにとソファーで不貞腐れ気味に寝ていた僕を見た仕事帰りの父親は「自由に旅ができるお前が羨ましいよ。できれば俺もしたかったよ。アルゼンチンまでの航空券はいくら払ったんだ?俺が払ってやるよ」といった。
2005年、コンゴ民主共和国イツリ州。食料がなくなり政府軍に投降した武装民兵たち。彼らの多くは政府軍に再編入される。
それから、南アから陸路でジンバブエに入り、戦争中だったコンゴ民主共和国に何とか辿りついたが秘密警察や兵士に何度も捕まっては殴られ、マラリアにも罹り全く撮影はできなかった。
その後、国外退去処分が開けたメキシコに再び戻り、撮影を開始したが手応えを感じなかった。頭で考えるのではなく肉体的反応で撮影する、強いイメージの写真。一枚で戦争を物語るような写真を撮りたいと、コロンビアへ行きゲリラの撮影に成功してなんとか少しずつ自分の中での写真的欲求を満たした。
2005年、コンゴ民主共和国。貧血のため生後10カ月で死んだ子供の葬儀。
日本に戻りコロンビアの写真を雑誌に文字通り叩き売って、パレスチナに向かい二日後にはパレスチナ自治区でイスラエル国境警備隊にゴム弾で撃たれて左目を失明した。
という青春時代の真っ最中という落ち着きのないひたすら前進、猪突猛進な生活を繰り返していた。
怪我した以降は少しずつ腰を据えながらパレスチナやアフリカの紛争地での撮影を続けていくことになるのだが、アフリカの撮影がようやく終わり何とか本としてまとめ終わったとき、あれだけいままで写真のことばかり考えて生きてきたのに、突然どうでも良くなってしまった自分に気付いた。
それは30代の後半になってようやく自分の青春時代が終わったことだと自覚した。
まだ人生が終わるには少し早い40代になってこれからどうしようかなと思いながらも一方では考えても仕方がないと、現在住んでいる八丈島で半自給自足的な生活と素潜りで魚を突く、海を中心とした生活に戻った。
そんな折に、海外資本のウェブメディアが日本で新しく稼働するので、「何かやりたいことはありますか?」という話が転がり込んだ。
前年にフォトネシアという沖縄の写真家たちが主催している写真ワークショップに招かれたことを思い出し、本当のところは沖縄の海で思い切り魚突きがしたいという風情は全く見せずに「戦後70周年だし沖縄はどうですか」と相手側に話した。
企画が通り、ウエットスーツや銛、ロングフィンと魚突きの道具とカメラで馬鹿みたいな大きな荷物を抱え、同行した仲間の編集者は「亀山くんに潜るときにつける鉛のおもりを持たされてそのせいでギックリ腰になった」と恨まれた。
那覇で6畳一間のアパートを借り上げて仲間の編集者と共同生活をしながら戦争体験者たちをおよそ1カ月間取材した。
2015年、沖縄県南城市。国吉勇さん(中央)はおよそ60年間、ボランティアで遺骨収集をしている。
70年経過したあとでも体験者の人たちは鮮明に戦争のことを記憶していた。そして彼らの人生は戦争を軸にして、またそれを起点にしてにしかその後の人生を生きていけないことも知った。
集団自決(強制集団死)の体験者に偶然会ったときに、初めてこの沖縄戦は日本独特の戦争であったことにも気付いた。
2015年、沖縄県糸満市。軍人、軍属だけの補償だけではなく民間人の戦争被害の救済と国の謝罪を求めた沖縄戦国賠訴訟・原稿団長の野里千恵子さん。
家族同士、隣人同士がカミソリやヒモ、枝、あらゆるものを使ってお互いに手を掛け合って殺し合う。
体験者の多くはいまも口を固く閉ざしていた。
全く視覚的にはわからない福島原発の見えない放射能の恐怖を写し込むのと同じように他者とは共有できない地獄から生き延びてきた彼らの奥深く傷ついた魂の傷を写真に写すことはできなかった。
沖縄での滞在では結局、海には一度も潜ることはなく、同時進行でアレンジしなくてはいけない動画撮影もあってどこか不完全な気持ちのまま沖縄での撮影が終わった。
そして若い頃、沖縄の人たちが僕に向けた憤りの理由が少しわかった気がした。
「なんでお前たちは、俺たちの歴史を知ろうとしないんだ」と。
2017年、神奈川県平塚市。元日本兵飯田直次郎さんは沖縄戦の終焉を迎えた摩文仁の丘で住民を迫害していた上官を撃ち殺した。
「いまの日本はだんだんと昔の戦争が起きたときの状況と同じ様になってきたよ。戦争体験をいまの人に話してもわからないと思う」。体験者たちが記憶の闇と孤独に向き合い続ける姿は八丈島に戻った後も僕の中にシコリとなって寛解できないままに残り続けた。
そして沖縄での魚突きは諦め、カメラだけを担いで身軽になって、彼らに会いに沖縄へ通う長い旅が再び始まった。
亀山亮|Ryo Kameyama
1976 年、千葉県生まれ。現在、八丈島在住。1996年よりメキシコ、チアバス州のサパティスタ民族解放軍(先住民の権利獲得闘争)の支配地域や中南米の紛争地帯を撮影する。2000年パレスチナ自治区ラマラでインティファーダ(イスラエルの占領政策に対する民衆蜂起)を取材中にイスラエル国境警備隊が撃ったゴム弾により左目を失明する。 2003年、パレスチナの写真集『INTIFADA』(自費出版)でさがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞を受賞。2013年アフリカの紛争地帯を撮影した写真集『AFRIKA WAR JOURNAL』(リトルモア)で第32回土門拳賞を受賞。そのほかに『DAY OF STORM』(SLANT)、『戦場』(晶文社)などがあり、2018年には写真集『山熊田』(夕書房)を刊行。2021年8月に『戦争・記憶』を青土社から刊行予定。