文・選曲=菊地成孔
横田大輔の『COLOR PHOTOGRAPHS』には、何が写っているかわからなかった。これは本当にとても素晴らしいことだ。筆者は音楽家/選曲家だが、写真の事はおろか、ペインティングについても何も知らない。
この「写真」がそもそも「写真」である事の意味が、どれほど見つめてもわからない。繰り返すが、それは素晴らしい経験である。これはペインティングではないのか?それともペインティング作品を撮影したものなのか?
何れにせよ、何が写っているのかわからない写真、何が鳴っているのかわからない音楽、何が書いてあるのかわからない日本語の文章、等々が我々にもたらす、感覚的、知的な効果は、それが成し遂げられた段階で保証されるものだ。その効果に名前はない。
そもそも、物質的な意味での素材がわからない。どんな食材をどう調理したか、全くわからない料理を食べている感覚。リキッドを使っているのか、金属を使っているのか、更にはそれが何によってコントロールされているのか、コンピューターと言われても、手書きだと言われても、ある状態において発生する液状金属の反応の結果だと言われても納得してしまうだろう。画面構成のことではなく、タイトルにある「色彩」の構成に関して、だが、非数学的なアブストラクトにも、複雑系の厳格な数構造を持つアブストラクトにも感じられ、前述の効果に打たれる事になる。非常に優れた写真集だと思う。
こうした優れた写真美は、音楽を寄せ付けない。厳密には、音楽を殺してしまう。「いかにも」な音楽が山ほどあるからだ。筆者は、事前に「ある予感」を抱きながらも、ヨハン・ヨハンスン、デトロイトテクノのVA、ピエール・ブーレーズの管弦楽曲、ピアノ曲、メルツバウのデジタルノイズ、オーネット・コールマンの集団即興によるフリージャズ、名前も知らないアブストラクトなテクノ、カンディンスキーの音楽に付与されたあらゆる音楽、等々を鳴らしながら鑑賞し、本作が、驚くべき効果、それは「通俗的に聴こえる」という、「殺し」の効果の強さに愕然とした。
どの音楽もアブストラクションとコンストラクションを止揚し、情緒性を脱却した優れた音楽なのに、本作とペアリングすると、「いかにも」「ああ、ねー」という、所謂シミュラクラ効果で、一挙に通俗に落ちた。「ある予感」が予想以上に的中した格好になる。
通俗性それ自体を石もて追う事は出来ない。しかし、「ペアリングによって、各々単体では感じることがなかった通俗性」が発生してしまう事は、恐怖にも似た体験だった。
かなりの数のトライエンドエラーを繰り返しながら、邦楽が両者を際立たせる通路である事がわかった。理由は不明である。邦楽は多岐にわたるが、邦楽を日常的に聴かない者にとって、邦楽が、全方位的に、驚くべき色彩感覚を持っている事が伝わっていない。一般的に邦楽よりも認知度が高いだろう、「浮世絵」との関係性を持つ邦楽も、ない邦楽もある。新内、常磐津、都々逸、浪曲、能楽、と、様々な邦楽をトライしたが、ギリギリで通俗に落ちないものの、ペアリングによって湧き上がるものが少なかった。
清元(きよもと)は浄瑠璃の一種で、歌舞伎舞踊の伴奏に使われる三味線音楽だが、三味線だけでなく、謡(うたい)や打楽器も使用され、特に金属打楽器である金鉦(かね)、和銅鑼、鈴(りん)、等々は複数の初音源と共鳴域を持ち、弱音で打っても、空間上の全ての振動を塗り潰す振動質があり、邦楽器の中で、最もインターナショナルな汎用性がある。金属を持った人類は、必ずそれを銅鑼や鐘の姿にして打ち鳴らし、形状上の違いはほとんどない。時を超えた、根元的なSEと言えるだろう。
今回の試みに於いては、と限定するが、清元の古典的演目である『夕立』について、知らなければ知らない方が良い。奏者の一覧を添えるが、一読で間違えず音読できる者は少ないだろう。その事が本作とのペアリング効果を根本から支える事になる。
浄瑠璃/清元志寿太夫、清元小志寿太夫、清元志佐太夫
三味線/清元正寿郎、清元寿太郎
鳴物/住田長三郎社中
ここでの奏者も、写真家も、等しく現代日本人である事、そしてシンプルに視覚と聴覚のペアリングによって立ち上がる効果が素晴らしい、それは2015年の『COLOR PHOTOGRAPHS』が、1814年に創出され、極めて叙情的な清元のシミュラクラを、まるで化学反応のように分解し、飲み込んで同化する瞬間の連続である。これは「新しい写真集が古典的な音楽を解体する」という意味で、
タイトル | 横田大輔『COLOR PHOTOGRAPHS』 |
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出版社 | Harper’s books and Flying books |
出版年 | 2015年 |
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家・文筆家・大学講師。音楽家としては作曲、アレンジ、バンドリーダー、プロデュースをこなすサキソフォン奏者、シンガー、キーボーディスト、ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり音楽、映画、モード、格闘技などの文化批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々出演多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。著書に『次の東京オリンピックが来てしまう前に』『東京大学のアルバート・アイラー』『服は何故音楽を必要とするのか?』など。