5 July 2022

菊地成孔の写真選曲集11

笠井爾示『Stuttgart』にヴィクトル・ウルマン『弦楽四重奏曲第3番』

5 July 2022

Share

老女(実母)を被写体にした写真集の中でも、歴史的傑作の1つに数えられるであろう。昨年(2021年)に出版された笠井爾示の『Stuttgart』は、少年期に暮らしていたドイツのシュトゥットガルトに実母である久子と旅行した笠井が、旅行中の母を撮影した写真集だ。

不勉強ながら、90年代からおびただしい数のCDジャケット、グラヴィア写真集、アイドルの写真集などで作品を目にしていた笠井が、少年時代にシュトゥットガルトで暮らしていたこと、父親が高名な舞踏家であり、またオイリュトミストである叡(あきら)であり、弟に禮示(れいじ)、瑞丈(みつたけ)がいることを、この原稿を執筆するために初めて知った。画数が多く、ぱっと見では読みづらい名前を息子たちにつけたのは、おそらく父親、叡であろう。私見ながらこの発想はドイツ語の言語感覚に近い。

「オイリュトミー/オイリュトミスト」という肩書きについて熟知している日本人は少ないだろう。英語読みでは「ユーリズミー」となる(高名な英国のバンド「ユーリズミックス」のアニー・レノックスは幼少期に、後述するヴァルドルフ学校で教育を受けている)、舞踏を中心とした特殊な総合芸術形態は、高名な神秘思想主義者であり、現在でも世界に多くの拠点を持ち(我が国にもある)、稼働している教育施設「シュタイナー学校(ヴァルドルフ学校)」の創設者であるルドルフ・シュタイナーが創造した。

三男である瑞丈の肩書きはコンテンポラリー・ダンサーだが、次男である禮示並びに、父、叡は共にオイリュトミスト(以下、平明さを期するために「シュタイナー主義者」とする)であり、シュトゥットガルトは、最初のシュタイナー学校である「自由ヴァルドルフ学校」の設立地である。

極めて頑健で複合的な理念に基づき、難解でありながら、未だに信奉者が存在するシュタイナー教育については、本稿では触れないが、今回ペアリングの対象となる『弦楽四重奏曲第3番』の作曲家であるヴィクトル・ウルマンは、ナチスによって「退廃芸術」の烙印を押されたことの認知度には劣るが、シュタイナー思想を高く評価していた。

本作の被写体、久子が、シュタイナー主義者の妻であり、母である女性としてシュタイナー主義者である可能性は高い。しかし、この素晴らしい写真集は、そのことを、少なくとも表向きには全く語っていない。

それよりも久子が、長年にわたる車椅子生活者であること、そして、女性被写体として、優れてチャーミングで意欲的であることに対して、本作は遥かに雄弁である。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。

笠井爾示『Stuttgart』(bookshop M、¥5,500)。


コロナ禍にドイツに渡った車椅子の老婆の、様々な写真(カフェ、路上、ホテル内等々)は、すべてが極めてナチュラルで力強く、それだけであれば、「おしゃれで可愛い、意識の高いおばあちゃんのポートレイト集」である。

そしてそこには、纏足のように固まっている足の指、車椅子生活者特有の、歪曲して固まった全身の骨格(特に頸椎と脊椎の湾曲)や指先の写真が、笠井の往年に撮影された、アイドルの写真集よりも遥かに精緻に、そして遥かにナチュラルに挟み込まれる。

更には、当たり前のように、全裸の(まるでグラヴィア写真集のオフショットのような)シャワーショット、後半には、しっかりとポージングをしたヌード写真が登場する。閉経した女性器も、そのものではないが、ポージングしたヌード写真に写り込んでいる。

一見はショッキングだ。多く老人は遺影を撮影されるが、車椅子生活者とはいえ、まだまだ元気な肢体をポーズした写真、というものを、我々は滅多に目にしない。

しかし、そのショックは、2度目にこの写真集のページをめくる時には霧散してしまう。あまりにナチュラルでヘルシーだからだ。我々はなぜ、「やや上目使いなカメラ目線で、片手をテーブルに置き、被写体を意識し、自らの全裸を“見て欲しがっている”女性のヌード写真」の年齢上限を、4~50代までと律してきたのだろうか。それは男性が切った上限なのだろうか、女性が切った上限なのだろうか。


私事だが、筆者は長年の車椅子生活の果てに逝った母親の死に際し、兄と2人で部屋の中央に置かれた棺に遺体を安置し、花を敷き詰めた。裸体ではないにせよ、火葬に向けての死化粧を施す前だったので、死後硬直によって目と口は大きく開かれ、両手は虚空にある何かをしっかり掴もうとするように、全ての指先は力強く開かれ、前近代の彫像のようだった。

筆者はこの遺影を撮影し、「見たい」と言った何人かの女性に見せた。彼女たちは一律、凄まじい感動とともに「美しい」と語った。「オフェーリアのようだ」と言った女性と後年、恋愛関係を結んだ。

しかし、その写真は、老いと女性、という問題だけでなく、死の啓示性と不可分である。筆者はその時、「生前の、車椅子生活の老婆として、ヌード写真を撮影したら、どういう反応が返ってきただろう。それ以前に母は、ヌード撮影に応じただろうか」という想いが脳裏から離れなかった。この写真集を作り上げた母子関係は、奇跡に近いと同時に、当たり前のようにナチュラルだと言えるだろう。

久子は写真集の解説の中で語っている。

<これは私の身体だけど、神様から与えられたものでもあります。人間の身体って不思議ね。老いるとちゃんと指紋がなくなっていくの。すごいな、よくできているなって思う。老いたり、病が進むと、ちゃんとひとつづつ機能を失ってゆく。尊いし、愛すべき存在。だから私の身体でよかったら、息子だろうと誰であろうとどうぞ撮って頂戴って思うんです>

7~80年代に活動の隆盛期を誇った、バイセクシュアルのポルノスター/フェミニスト/アクティヴィストであるアニー・スプリンクル(芸名は「スプリンクラー」即ち潮吹きに由来している)は、こう語っている。

「一生に一度も自分の性器を見ない女性がいることは悲しむべきことよ。誰でも一度は鏡を使って女性器を見るべき。だってそれは、自分の本当の姿の一部なんだから。女性器を見つめるのが男性だけっていう状態は、とても良くないと思う」

鑑賞者が、3度目以降にページをめくる頃には、カフェや空港で眠そうにしている写真と、ホテルで物憂い表情をしている写真と、ガルテン(公園)で楽しそうに笑っている写真と、全裸の写真に、何の障壁も無く、すべてが繋がっている事を強く実感せざるを得ないだろう。

『Stuttgart』は、フェミニズムの問題系も、老いと死の問題系も、リアリティの問題系も、裸体とそれ以外を隔てる一線の問題系も、母子の問題系も、そしておそらく、シュタイナー主義が提唱した、神と自然と人間に関する、夥しい問題系も全て含みつつ、あまりのナチュラルさと美しさ、<元気=それは体力だけでなく、意思や思想も含め>というものが誘発する、尊厳に満ちた微笑ましさと、異形にしてあまりにも自然な母子愛に立脚し、パーソナルフォトと強メッセージ的な挑発性の臨界に立つ、極めて現代的で優れた写真集である。

今回のペアリングも前回同様、トライ&エラーはほとんど必要としなかった。シュトゥットガルトは、というよりも、ドイツは、作曲家の多産地域である。前述、ナチスによって「退廃芸術」の烙印を押されたことで高名なヴィクトル・ウルマンの弦楽四重奏曲は、この、「その気になればどこでも完成できる可能性がある」写真集(多くの鑑賞者がそのことを意識するだろう)の裏に根付いている、強い「この場所」という根拠に、静謐だがセクシュアルなまでの証明を与え、祝福し、完成する。


菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家・文筆家・大学講師。音楽家としては作曲、アレンジ、バンドリーダー、プロデュースをこなすサキソフォン奏者、シンガー、キーボーディスト、ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり音楽、映画、モード、格闘技などの文化批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々出演多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。著書に『次の東京オリンピックが来てしまう前に』『東京大学のアルバート・アイラー』『服は何故音楽を必要とするのか?』など。

Share

Share

SNS