27 February 2025

故・東松照明の妻・泰子が導く沖縄写真シーン

27 February 2025

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故・東松照明の妻・泰子が導く沖縄写真シーン | 01.ポートレート

東松泰子さん

沖縄・那覇にINTERFACE-Shomei Tomatsu Labはある。故・東松照明(1930~2012)の妻・泰子が運営する照明の足跡を伝えるギャラリー&ライブラリーであり、写真の私塾だ。照明に写真を習い、レタッチャーを務めた伴侶、泰子の元には今も写真を学びたい作家の卵が門を叩きに来る。彼女に照明とラボについて聞くと、その言葉には亡夫への尊敬と慈愛が端々からほとばしった。

取材・文=IMA

沖縄写真界を作るラボ

02.ラボの外観-1

INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab外観。那覇のメインストリートである国際通りを一歩入ったところにある。

沖縄の写真界は盛んだ。石川真生、伊波リンダ、石川竜一、上原沙也加など各世代で活躍している写真家がいる。それは、東松照明が沖縄を終の棲家としたのも一助となっているだろう。照明は人生の後半、ライフワークとして撮影に通っていた長崎、沖縄に居を移した。長崎時代には、山谷佑介もまた、氏の指導を仰いでいたという。

最晩年の2009年には、後進を育成するためのワークショップを那覇で開いた。2012年に亡くなった後は、妻の泰子が引き継ぎ、門戸を開いている。

「東松がワークショップを始めた当初、生徒は『沖縄在住29歳以下』という条件で2人から開講しました。2週間で約1000カット撮るという課題を繰り返してもらうんです。その中から、生徒と東松それぞれがセレクトし、その違いを講評する。これを約半年繰り返して、最後は展示をするんですね。大分体が弱っていましたが、写真をセレクトするときの東松はとても楽しそうでした。2012年に東松が亡くなった後、閉めようかとも思ったのですが、生徒が私に教えて欲しいとやって来たんですね。最初はできるか不安でしたが、引き継いだら東松が喜んでくれると思って。同じスタイルで運営しています」

泰子は、そもそも照明が東京で森山大道らと写真学校を開いていたときの2期生だった。その後、2000年から照明のレタッチに携わるようになる。また、20代の頃に塾の講師を務めていた経験もあり、それらのバックグラウンドがあるから引き継ぐことができた。

『沖縄マンダラ』より

『沖縄マンダラ』より

『沖縄マンダラ』より


「東松は、いきなり『明日からデジタル化するよ』と言い出す人です。先を見据えていました。なので、私もマックとフォトショップを勉強することに。東松は色の調整が細かいんです。繰り返し繰り返しプリントしながら色を調整しました。1点につき、30枚くらい出力したでしょうか。最初の1枚を仕上げるのに1カ月くらい掛かりましたね。髪の毛1本でも指示が入るこだわりです。そうして、私がレタッチャー兼プリンターデビューしたのが『沖縄マンダラ展』(沖縄県浦添市美術館、2002年)。あの時は300~400枚をレタッチ、プリントしましたね。その後、石川真生など東松以外の作家からも頼まれて、レタッチするようになりました。東松がとても厳しく指示してくれたから、私もワークショップで教えられるんだと思います」

INTERFACE-Shomei Tomatsu Labのライブラリー。数百冊の写真集が並ぶ。

ギャラリースペース。年に数回展示が行われる。

入り口には東松照明の年表が掲示されている。


現在のワークショップは1対1でセッションを行う。写真のセレクト、つまり見方からレクチャーする。

「まずは、良い写真は何かという視点を教えることから。生徒の持っている良いところを見つけるために何千枚と撮ってきてもらって、講評するんです。生徒の良い感性が見つかったら、そこを伸ばしていけばいい。3〜4回繰り返すとかなり成長しますね。これまで、伊波リンダさん、北上奈生子さん、七海愛さんなどが巣立っていきました」

ワークショップでは東松照明作品の展示に加え、生徒の展示も実施している。さらに東京にも広がりを見せる。

「2012年に東松が亡くなった際、東京・品川のキヤノンギャラリーで展示をしました。そのときキヤノンの方に『年に1回沖縄の作家の写真展を開催させていただけませんか』とお願いしたところ、ご快諾いただき、現在まで続けさせていただいております。沖縄の写真家をできるだけ広く知られるようにしたい。沖縄の写真界は活発です。小さなギャラリーもいっぱいあるんです」

にっこりと微笑みながら、生き生きと話す。引き続きワークショップと生徒の展示には力を入れていきたいという。ワークショップは宣伝活動をせず、募集も公開していないので、興味がある人は直接問い合わせる必要がある。

「写真をやりたい多くの人に来てほしいですね。70代、80代の方々もいらっしゃいますよ。またあるときは、年の瀬の12月29日に大阪の写真学校の生徒から突然電話があって。課題のためにセレクトとレタッチを急遽教えて欲しいと。年末ギリギリの30・31日にこちらに来てもらって、突貫で教えて課題を終えて帰っていったなんてこともあります。やはり生徒が上手になっていくと嬉しいですね」

長崎への思いを込めて

もうひとつ、いま、泰子が集中していることがある。照明作品の展示準備と長崎の被爆者たちへのインタビューだ。照明が長崎に住んでいたことは前述の通りだが、その発端となったのは、30歳のとき、原爆投下された長崎の撮影依頼があったことからだ。照明の長崎に対して、土門拳が広島を撮影し、2人の写真集『hiroshima-nagasaki document 1961』が出版され、発表当時大きな話題を呼んだ。

『hiroshima-nagasaki document 1961』より東松照明の作品

『hiroshima-nagasaki document 1961』より東松照明の作品

『hiroshima-nagasaki document 1961』より東松照明の作品

「東松は長崎の被爆者の状況を目の前にしたとき、余りの衝撃にカメラを構えられなかったと言っていました。あの東松が、です。被写体となった被爆者の方に、『何をしているの!あなた私を撮りに来たんでしょう』と言われて、初めてカメラを構えたと語っていました。そこから長崎との交流が生まれました。それから60年を経た今、私は長崎県に呼ばれてたびたび被爆者の方々へインタビューに通っています。彼ら彼女らは高齢になられてもなお、当時のことをあまり語りたがりません。思い出したくないことでしょうから。でも、続けて訪れる度に被爆後から現在に至るまでのことを徐々にお話いただけるようになったんです。東松の写真に始まり、長年関わり続けてきた旧知の仲ゆえ、段々と心を開いてくださったんだと感じます」

泰子は長崎と沖縄を大切にしていた照明の遺志を継ぎ、さらに伝えていく。

「6月に台湾で、7月に土門拳記念館において展覧会が開催されます。長崎の写真も展示されます。海外では、長崎の原爆投下は広島ほど知られていないという現状を知りました。世界で戦争が続く中、今だからこそ、改めて長崎のことを伝えていかねばならない気がしています。戦後80年の今年、改めて東松の足跡を多くの方に伝えていきたいと思っています」

INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab
沖縄県那覇市牧志1-3-18 エトワール牧志101
098-862-5588

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