そのとき、私と盲目の人はどのように同じで、違うのかを実際に教えてもらう必要がありました。撮影を手伝ってくれたケイトが生まれたときから全盲の彼らを紹介してくれた。手をつないで滞在先の作業場に来てくれたその彼らと話をした最後、彼女はこういいました。
“目が見えぬ、らしいのです。それは私の知らない前世に関係するでしょうか。本当のことを知りたくて、大学に行き、世界中のさまざまな宗教について学びました。それらは生死について実にさまざまなことを述べています。でも、その全てに違和感を感じました。私には当てはまらない気がするのです。”
タイでは現世のことは前世に関係するという考えがあるので、彼女はこういったのですね。それを聞いたとき、彼らは私たちの常識や宗教、文明や文化とは少しちがう世界に生きていて、それはすぐそばにある、救われるような思いでした。そして私が探している「歌」とはこの、誰しもが心の奥に持つ自由な心の領域のことではないかと思いました。同時に、写真は目にしか見えない、というよりは目や耳や皮膚などさまざまな器官が感知する感覚が体の中に結ばれて初めてその感情が生まれる。そういう意味で目に見えないものとも付き合っているのだと。
タイでの撮影を終えて4年ほど経った頃、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での個展のお話をいただき、ちょうど「螺旋海岸」の制作を終えて再び「Blind Date」のことが気になっていたのでそれを掘り下げたいと伝えました。目も耳も皮膚も等しく扱うことができる場に会場ができるのであれば、「Blind」という言葉を扱う意味があるのと思ったのです。
© Lieko Shiga
会場はプリントの展示と21台のスライドプロジェクターを使ったインスタレーションで構成されています。プロジェクターは通常、光源が常に光り続けてスライドが順番に映し出される装置ですが、光源自体を点滅させたいと技術の方に相談して実現しました。写真は過去・現在・未来という時間軸にない完全に独立した空間であるかもしれないという仮定を、そこにアプローチするように向き合ってきました。その写真を光で映写することによって、現在に呼び戻す試みがしたかったのです。
この点滅には、ひとつは宮城県の北釜に住んでいたとき近くにあった飛行場の、夜間に飛行機を誘導する誘導灯のイメージがありました。もうひとつは、福島智という視覚と聴覚を同時に失った人の本で読んだ「体がどこかに触れていない限り、宇宙との一体感でしかなくなり、自分が消える」という話です。暗転する時間があることで、福島さんが言う世界と自分が一体となって、体が溶けていくような感覚に少しでも近づきたかった。
写真はイメージが立ち現れた瞬間であり、像が消えていくさまを見る機会はあまりありません。ここに今回の展示の大きな意味があると思っています。会場が暗転する時間を作るためにひとつひとつのプロジェクターを連動させて、30分で一曲の楽曲のようにプログラミングしました。それでもときにエラーが発生します。でもそれは、エラーとはいえない、ノイズ、もっといえばゴーストともいえるかもしれません。その度に会場の中を走り回ってケアをし、まるで生物が棲んでいるよう。それを見た漫画家のいがらしみきおさんは「子供の頃に心臓が止まるのが怖くて、止まらないように押さえながら寝ていたのですが、それみたいですね」といっていました。そういった意味でも21台もスライドプロジェクターを使ったこの展示は、最初で最後になると思います。
© Lieko Shiga
会場に満たされた赤い光には、死ぬ間際の惑星の光は赤く地球に届くという逸話や、死ぬ瞬間に見る光が赤と言われていることなど、様々な意味を込められている。
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「Blind Date」で彼女たちが見つめていたもの
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。