16 December 2019

時を超える美を解体する:デザインの来し方と行方をめぐる対話

廣川玉枝と渡邉康太郎によるトークセッション。

16 December 2019

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時を超える美を解体する:デザインの来し方と行方をめぐる対話 | 渡邉康太郎×廣川玉枝

現在、国立新美術館(東京・六本木)で開催中の展覧会「カルティエ、時の結晶」。「時間」をテーマに、長い歴史を誇るカルティエが脈々と築いて来たジュエリーデザインの軌跡を追いながら、そのデザイン哲学を追求する展示となっている。杉本博司と榊田倫之による新素材研究所が会場構成を手がけたことからもわかるように、これまではないジュエリー展だ。 その関連企画として、去る11月22日に、SOMARTAのデザイナーとしてファッション、グラフィック、サウンドなどの領域を自由に横断する廣川玉枝さんとデザイン・イノベーション・ファームTakramでコンテクストデザイナーを務める渡邉康太郎さんをお招きして、学生を対象に「デザイン」をテーマにしたトークイベントを開催。人類にとっての装飾の意味やデザインの不易流行とは何かなどについて探っていただいた。

構成=若山満大
写真=白井晴幸

「飾文化」の歴史の先に:デザインの現在地

渡邉康太郎(以下、渡邉):今日はファッションデザイナーの廣川さんと一緒に、これからデザインについて話していければと思います。キーワードとしてまず挙げたいのが「装飾」です。

廣川玉枝(以下、廣川):縄文時代の日本列島には、ほかの文明にも引けを取らない装飾文化があったそうです。私も出土した当時の装飾品を見たことがあるんですが、いま見てもすごくクオリティが高い。「魅力的なものを身にまといたい」「美しく装いたい」という気持ちは、はるか昔からあったんだなと感じました。

廣川玉枝

渡邉:あったと思いますね。ただ、縄文時代と現代では、装うという概念の中身が違ってくると思います。現代の僕たちは「美しく装うこと」と「身を守ること」を切り分けて考えられています。しかし、過去はもっとオーバーラップしていたと思うんです。

例えば、古代エジプトでは群青がアイシャドウとして使われていました。これは単に鮮やかな青色が美しいからというだけでなく、ハエなどを寄せ付けないための防虫の意味もあったともいわれています。つまり、ここでは「美しく装うこと」と「身を守ること」は渾然一体だった。

また別の例として、インドのある地方では、結婚した男女の新居の壁に黄色いターメリックを塗り込む風習があるそうです。ターメリックといえば香辛料として知られるものですが、その効能のひとつに高い抗菌作用が挙げられます。それを家の壁に塗り込むことは、実質的にも儀式的にも「不浄を払う」ことなのではないでしょうか。食と住がシームレスに接続しているだけじゃなく、「祈ること」と「安全・衛生」も密接につながっている。

コスメティックの語源は「コスモス」、宇宙です。つまり身体に装うことの起源は、宇宙の摂理に心身を寄り添わせることと同義だった。装飾とは単に美しく飾ることだけじゃなくて、守ったり、祈ったり、多義的な意味を備えた行為だったんじゃないでしょうか。

廣川:そうかもしれません。藍染も抗菌作用があるといわれていて、美しさと実用性を両立させてます。服飾についていえば、衣服のデザインが決まる要因のおよそ半分くらいは、その土地の風土だったりします。地勢、植生、あらゆる環境が、その土地で作られる衣服の形を決めていく。そうやって必然的に生まれてくる衣服は機能的で、だからこそ美しいのかなと。

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渡邉:一方で、装飾の一般的な意味、デコレーションの歴史もすごく興味深いですよね。端的にいえば「加えていく」ことから始まった。高貴な人や権力者は着飾ったり、荘厳な屋敷をつくったりしてきました。自身の存在に権威を付与するための手段が装飾だった。そしてバロックがロココへと移り変わったように、「装飾性」は絶えず変化していて、それが新しい造形や美意識を次々に出現させてきました。人類史のある部分は装飾が作り出している、といっても過言ではないと思います。

装飾の意図とは長い間、富や権威を表すものでした。文明を超えて、超絶技巧の調度品とか、植物、獅子や龍を、幾何学模様を象(かたど)った文様が用いられてきた。装飾とは、ほぼ細やかさや過剰さのことを意味していたんですね。しかし産業革命以降の西洋から、別の価値観も生じるようになります。つまり、大量生産に向いている、よりシンプルなものもいいよねとなってきた。すると「装飾がない」ことも一種の装飾になります。合理性・機能性を追求することが、モダニズムにもつながりました。

しかし、今回の展覧会で改めて感じたのは、日本が古くから培ってきた「装飾を排除したデザイン」でした。産業革命を待たずして、というかそのはるか以前から、簡素で美しいものが作られてきた。わびさびは日本の大事な美意識の一つです。今回の展示では、「西洋の装飾文化が育てたカルティエのジュエリー」と、「日本の古美術」の出会いも、大事な見どころですね。古美術といえば、掛け軸って、寸法の細かなルールとか、何回見ても「ちょっとおもしろい」フォーマットですよね(笑)。一体どうやってあの形式にたどり着いたのか……。

© N.M.R.L./ Hiroshi Sugimoto + Tomoyuki Sakakida

© N.M.R.L./ Hiroshi Sugimoto + Tomoyuki Sakakida

廣川:くるくるって丸められるところとかね(笑)。着物とか風呂敷とか、コンパクトにできるって日本的なデザインの特徴なのかもしれない。

渡邉:ここまで装飾をキーワードにざっくりと歴史を振り返ってきたわけですが。廣川さんに聞いてみたいのは、そういう歴史を踏まえた上で、じゃあいま、何を作るべきなのかってことですね。


デザインの正しさをめぐって:「何をデザインすべきか」と「いかにデザインするべきか」

廣川:産業革命以前の服飾は、すべてオートクチュールでした。糸一本、布一枚、縫製や刺繍もぜんぶ手作業。それを機械が代替することで、プレタポルテ(既製服)が可能になりました。その大量生産文化の「末期」ともいえる状態が、現代だなと私は思っています。たくさんの服が作られ、みんながだいたい同じような服を着る時代。もちろん、それが悪いといいたいわけではありません。産業革命以後にできうることが「やり尽くされた状態」というか、「もうぜんぶ出揃った状態」が現代なんだろうなって。そんな行き止まりのようないま、自分は何ができるんだろうっていうことは常に考えます。

まず、意識しないといけないのは「自分は今どんな時代に生きてるのか」っていうことです。そうしないと、自分がこれから作るものが役に立たないものになってしまうし、美しく見えない。さっき服のデザインの半分は風土が決めるという話をしましたが、まさにそれに近い。現代にはモノがたくさん溢れてるわけだけど、それはなぜなのか、それは良いことか、悪いことか、立ち止まって考えてみるのは大事なことだと思っています。そういう意識があった上で、自分が作りたいもの、自分が表現したいもののかたちを探っていってる感じかな。

渡邉:なるほどね。必然性に迫られたデザインをするということ。それで一つ思い出したのが、私の恩師でもある、文化人類学者の竹村真一さんの話です。最近は「スマート」なものが増えてきましたよね。スマートフォン、スマートシティ、スマートスピーカーとか。たしかに機械はスマートかもしれないが、はたして人間はスマートになっているのか、というのが竹村さんの問いなんですね。

道具とともに人間もスマートでありつづける道があるはずだ、と竹村さんはいっています。インドの民族衣装サリーは一枚の布ですが、砂が舞ったときは顔を覆うことができるし、日差しが強ければ頭にかざすこともできる。とても「スマート」な一枚布です。しかし、そのスマートさを担保しているのはこの場合、人と道具の関係性なんですよね。

最小限の機能しか持っていないものを「最大限」活用しようとする時、それを使う人のクリエイティビティは上がる。そう考えると、現在社会には人の要求に応えきる道具ばかりが身の回りに溢れています。人のパフォーマンスが低下する可能性も考えられますよね。つまり、現代の暮らしに必要とされるデザインはたしかに「美しく機能的」であるかもしれないが、それは果たしていま生きてる人のためになっているのかってこと。

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廣川:うーん。そこまで批判的になったことは無かったな。たとえば、服は「第二の皮膚」といわれていて、ある服を着た人は「その服のような人」になるって私は思っているんですよね。服装はその人の生き様を表すし、極端な話、見た目でその人を判断することはできる。だから、自分がこうありたいっていう思いが、着る服に現れると思うんですよ。現代における「服」は、自分を表現するツールとして重要。

そう思うのは、やっぱり「個性を表現する」っていうことが、現代では過去のどの時代より重視されるべきだと、私が考えているからなんですよね。ほら、「人類補完計画」ってあったでしょ?「エヴァンゲリオン」で。みんなが溶け合って「ひとつ」になればいい。なぜなら、みんな違うから争いが起きたり、不幸なことになるんだから。だったら「みんなひとつになれ」みたいな。

ファストファッションが流行して、人の見た目が画一化しているのが現代です。ということは、人の意識も画一化してるってこと。私は自分の服を作るのは、着る人が自分を表現するための道具として使ってほしいからなんですよね。個性を表現しないことが当たり前になってる現代だからこそ、個性を表現し得る状況を作るために、私は服を作っています。まあ、そこには個性を表現しないことよりは、個性を表現することの方が「豊かだ」っていう、私の持論があるんですけどね。どうでしょう?(笑)

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渡邉:なるほどね。自分がデザインをしていく上で疑う言葉のひとつに「人間中心設計」「ヒューマンセンタードデザイン」というのがあります。東北大学の川島隆太教授は9年間、子どものスマホ利用と脳の関係をリサーチしました。その結果は「スマホを利用する子どもほど学力が低い」という、当たり前といえば当たり前なものだったんですが、その理由は「スマホに夢中で勉強していないから」ではなかったんですよね。

そもそもこのリサーチの対象は、睡眠時間と勉強時間が十分に確保できている子どもに限られています。にもかかわらず、スマホを使うと学力が落ちるのは「マルチタスクによる弊害」が原因だと、心理学者が指摘しています。スマホっていくつものアプリを切り替えて使いますよね。いわゆるマルチタスクを自然にこなしていることになる。使うアプリの数が増えるのに比例して、偏差値が低下することがわかっているそうです。

ゆえに「集中して勉強ができなくなる」ということもいえるのかもしれないけれど、それ以上に重要な結果は「スマホを頻繁に使う習慣がある子どもの脳の発達が止まる」ということでした。これは別の調査で分かったことですが、スマホを常用する子どもの脳の「灰白質」や「白質」という部位の容積が増加しないいうことが、調査によって明らかにされたわけです。

僕たちは仕事でアプリ開発などをしています。そこではユーザーが使いやすいような、生活をより良くするような「人間中心のデザイン」が求められている。でも、この結果が示すように、便利で楽しいアプリを開発することで人間に悪影響を及ぼすことも当然ありえます。しかし、幸いというべきか、現代はこういうリサーチも同時並行して行われるので、あるデザインが「本当に人間中心の設計なのか」という批判ができるようになってきました。ここに来てやっと、近視眼的な使い勝手に閉じた「人間中心設計」から、より長期的な、遠くまで見通せる「人間中心設計」が可能になってきたともいえる。

実際、Googleの元プロダクトマネージャーのトリスタン・ハリスは、デジタルデバイスを中心に動く社会は人間をダメにすると主張してGoogleを辞めたんです。この主張が世論を動かした結果、iOSに「スクリーンタイム」というアプリの利用時間を制限する機能が搭載されました。今ではAndroidにも同様の機能があります。

デザインは、課題設定と解決をするプロセスです。それは、あるクライアント企業やデザイナーが届けたいもの、売りたいものが中心になってしまう、利己的な部分もあると思います。でも、時代は少しずつ変わってきていると思うんですよね。つまり、提供者側だけの目線でなく、社会との関係性がどうあるべきか、ちゃんと議論されるようになってきた。デザインにせよ、ファッションにせよ、業界の中に「本当に正しい道とは何か」を見据えていこうとするムーブメントが起こってきているような気がしますね。働き方やサステナビリティといった議論が、大きな企業に限らず盛り上がってきています。

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「本質の美」と「移りゆく美」:デザインがめざすべきもの

廣川:今回の展覧会では、カルティエが製作した歴代のジュエリーが並んでいました。必ずしも時系列順では無かったのですが、それでも違和感なく見られたのはデザインの統一感があったからだと思います。しかし、その中にも「変わったこと」と「変わらないこと」がありました。

時代が変わっても、変わらないことってありますよね。例えば「夕日が美しい」という感覚は、おそらく私たちのDNAに刻まれていて、いつの時代も人間が等しく共有できている。そういう、本能を刺激するような美しさを仮に「本質の美」と呼ぶことにしましょう。

一方で、時代に応じて評価が変わる美というものもある。それは「移りゆく美」ということができるでしょうか。現代であれば「サステイナブルなものづくり」が重視されていますよね。どうすれば持続可能な生産が可能なのか、デザイナーたちが一生懸命考えたとする。そうした知恵と熱意が結集したところに、現代特有のデザインが生まれるんだと思います。時代が変われば、その時代ごとに作り手に要請されることは違うんだけど、その都度生み出された答えが「ある時代特有のデザイン、特有の美しさ」ということになります。それが「移りゆく美」。

本質の美と移りゆく美が両方合わさったところに、「強い」ものづくりが現れるんじゃないかなと。それはもちろん「いま」にも受け入れられるし、「未来」においても変わらず愛されるはずです。カルティエのものづくりを見ながら、その強さを感じていました。石という不変の強度と美しさを持ったものと、時代に応じて変化していったデザインがある。石の寿命は永遠だから、デザインがいつ見ても美しいと思えるものであったとすれば、その「もの」も時代を超えて永遠に生き続けることができる。おばあちゃんが、お母さんが、そして娘が、それぞれの理由で愛している「カルティエ」というブランドがあるからこそ、一つの石が世代を超えて受け継がれるんだろうなって。展覧会を見ながら、そんなことを思いましたね。

渡邉:なるほど。「伝統」っていう言葉を思い出しました。いまでこそ伝統は「統べて(すべて)伝える」と書きますが、明治以前は違った漢字が使われていました。「傳燈」、つまり「ともし火を伝える」と書いたんです。ともし火とは「仏の教え」を意味していて、「闇=苦しみの世界」を照らすものを意味しています。人を苦しみから救う仏の教えを、後世まで間違いなく伝え残すことをもって「傳燈」といった。いわずもがな、「伝統」の語源は仏教にあるというわけです。

比叡山延暦寺には「不滅の法燈」という火がともされています。これは1200年間、絶えず燃え続けている火なんだそうです。1200年ものあいだ火を絶やさないとは、どういうことか。これには単に物理的な障害を避けるだけでなく、新鮮な菜種油を毎日注ぎ続けることが不可欠です。ここには「本質の美」と「移りゆく美」を考える上で、重要な示唆があると思うんですよね。

火を消すまいと風を避けるだけでは、そのうち必ず消えてしまう。火に新しい油を注ぎ続けることでもって、火は消えずに燃え続ける。古いものを守ろうと固執した瞬間、ものづくりは進化を止めて、鮮やかさを失ってしまいます。それがいつの世も輝くためには「新しい油」、つまり新しい発想や挑戦が必要だということです。要するに、新しさを取り入れながら本質的なものをリレーしていくことを「伝統」という。

 カルティエもまた、この「伝統」を体現しているブランドなんじゃないでしょうか。カラーストーンの組み合わせをデザインに活かした「トゥッティ フルッティ」はカルティエの代名詞として有名です。しかし、例えばサボテンのフォルムを形態美として昇華した「カクテュス ドゥ カルティエ」のように、まったく違う魅力を持ったラインも作られている。一つの規範に固執することなく、数多くの革新的なデザインを生み出してきたからこそ、長い歴史が紡がれているんだと思います。歴史的な美意識に囚われてもいけないし、単に新しいだけでもいけない。デザインの現場には、その両方をバランス良く取り入れたクリエイティビティが必要ですね。

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© N.M.R.L./ Hiroshi Sugimoto + Tomoyuki Sakakida

廣川:今回の展覧会は、私の中のカルティエの印象を大きく変えるものでした。特に印象的だったのは、挑戦的なデザインの数々です。クロコダイルやスカラベといった動植物からインスパイアを受けることが多かったみたいですね。

Nils Herrmann, Cartier Collection © Cartier

Nils Herrmann, Cartier Collection © Cartier

渡邉:僕も動物のデザインは印象的でした。たくさんのスケッチが残されていましたからね。カルティエのすごいところは、クロコダイルからエッセンスや特徴を抽出してデザインに活かすのではなく、クロコダイルそのものをストレートにデザインに持ち込んだことですよね(笑)。

廣川:もうびっくりするくらい直接的にね(笑)。でも、それってすごく難しいことですよ。おそらく作者は、クロコダイルそのもののフォルムやディティールに感動して、なるべくその姿形を壊さぬようにジュエリーを表現したかったのだと思います。何かに感動した瞬間にこそ、それが表現へのエネルギーとなって現れると思うんです。ちょっと考えてみてほしいんですけど、自分のやっていることに「クロコダイル」を取り入れてみようって思ったら、みなさんなら何をしますか?私も「クロコダイルをモチーフにデザインしてください」っていわれたら何をするかなって、展示を見ながら考えていました。いずれにせよ、あるモチーフを活かすには、対象を徹底的に見て研究する姿勢が不可欠だし、それを実現するだけの洗練された技術が必要です。

渡邉:そういう問いは、作り手が展覧会を見る上でも大切かもしれませんね。主語を自分に置き換えて、自分だったらここでどうするか、と問うてみること。作り手であれば、デザインの力を鍛える訓練になると思いますね。

廣川:何かを表現するにも、自分の内側にあるものからしか表現できません。情熱や好奇心を持って、外界を自分の中に取り込もうとするカルティエの「眼」は、デザイナーに必要な資質だと思いました。私自身も、この展覧会の中にたくさんの発見をすることができました。そういう蓄積を毎日続けていくことが「デザイナーにとってのトレーニング」だといえるかもしれません。

>社会人向けアカデミックプログラム「筧康明と渡邉康太郎によるスペシャルトーク」レポートはこちら

タイトル

「カルティエ、時の結晶」

会期

2019年10月2日(水)~12月16日(月)

会場

国立新美術館(東京・六本木)

時間

10:00~18:00(金土曜は20:00まで/入場は閉館の30分前まで)

休館日

火曜

入場料

【一般】1,600円 【大学生】1,200円 【高校生】800円

URL

https://cartier2019.exhn.jp/

廣川玉枝|Tamae Hirokawa

廣川玉枝|Tamae Hirokawa
SOMA DESIGN Creative Director / Designer
2006年「SOMA DESIGN」を設立。同時にブランド「SOMARTA」を立ち上げ東京コレクションに参加。第25回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。単独個展「廣川玉枝展 身体の系譜」の他Canon「NEOREAL」展/ TOYOTA「iQ×SOMARTA MICROCOSMOS」展/ YAMAHA MOTOR DESIGN「02Gen-Taurs」など企業コラボレーション作品を多数手掛ける。 2017年SOMARTAのシグニチャーアイテム“Skin Series”がMoMAに収蔵され話題を呼ぶ。2018年WIRED Audi INNOVATION AWARDを受賞。
http://www.somarta.jp

渡邉康太郎|Kotaro Watanabe

渡邉康太郎|Kotaro Watanabe
Takram コンテクストデザイナー/マネージングパートナー
慶應義塾大学SFC特別招聘教授
東京・ロンドン・ニューヨークを拠点にするデザイン・イノベーション・ファームTakramにて、事業開発から企業ブランディングまで幅広く手がける。「ひとつのデザインから多様なコンテクストが花開く」ことを目指し活動。主な仕事にISSEY MIYAKEの花と手紙のギフト「FLORIOGRAPHY」、1冊だけの書店「森岡書店」、日本経済新聞社のブランディングなど。慶應SFC卒業。在学中の起業や欧州での国費研修等を経てTakramの創業期に参加。趣味はお酒と香水の蒐集と茶道。茶名は仙康宗達。大日本茶道学会正教授。81.3FM J-WAVE 木曜日26:30-27:00の番組「TAKRAM RADIO」ナビゲーター。国内外のデザイン賞の受賞多数。また独iF Design Award、日本空間デザイン賞などの審査員を務める。

2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。

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