1990年代に起こった若い女性アーティストによる写真のムーブメントは、「女の子写真」および「ガーリーフォト」と称され、いまや日本の写真史に刻まれている。本書は、HIROMIXや蜷川実花と並び、その中心的な担い手であったアーティスト自身によるそのムーブメントの成り立ちについての「異議申し立て」である。長島は、本書で「女の子写真」について語る批評家や編集者らによる言説を丁寧に、ともすると執拗に批判し、問い直し、訂正する。そのうえで、このムーブメントを「女の子写真」ではなく「ガーリーフォト」としてフェミニズムの文脈から再考し、アメリカで1990年代に起こった第3波フェミニズムと接続させていく。
さて、タイトルにも登場する「僕ら」とは当のムーブメントを「女の子写真」としてもてはやし、各メディアでとりあげた批評家や編集者らを指している。彼らは、「女の子写真」の担い手たちを、それまで男性を中心としていた写真の業界に風穴をあける救世主であるかのごとく迎え入れ、彼女たちの写真が「直感的」で、「軽やか」で、「衝動的」だと称揚し、「無知」で技術的に「未熟」な特徴にさえ賛辞を送った。
一見、「僕ら」は「女の子写真」の味方のようにも見えるが、「女の子は直感的」「女の子は技術的に未熟」といったステレオタイプの女性観を踏襲している。この論調によって、「僕ら」が、彼女たちを「写真界」の他者としてまとめて周縁に追いやったやり口が、本書では明かされている。長島が批判する「僕ら」の言説は怒りを通り越して情けなくなるほどに女性蔑視的だし、ぶっちゃけ、わたしも読みながら自分が直面した男性からのナメた言動を思い出してキレ気味だった。むしろいまでは、差別意識を暴露された「僕ら」のみなさんが呪われていないか逆に心配になるほど。いまごろ、息してるかしら?
フェミニズムの視座を取り入れた語りのなかでは、「ガーリーフォト」の担い手たちは、写真行為によって「男性=撮る側」「女性=撮られる側」という性役割を撹乱する主体である。この点で彼女たちの行為は、イメージを生成する写真家の活動というよりも、むしろパフォーマンスアートに近い。もちろん、「ガーリーフォト」に属するとされる作家の全員が、フェミニズムに意識的であったかというと疑問ではあるが、彼女たちの取り組みを、第3波フェミニズムと結びつけることは可能である。ライオット・ガールなどに代表される第3波フェミニズムの担い手たちがパンク・ロックを通じて表明した態度は、長島らのそれと重なる部分も多い。
しかし、作家主義に陥りがちな「写真」の批評においては、彼女たちの写真行為を読む時にさえ、フェミニズムの観点は採用されなかった。フェミニズム批評が文学や美術において一つの方法論として確立していることを考えると、写真批評が他の批評分野に比べて「直感的」で「衝動的」であったところに、性差別を孕んだムーブメントとしての「女の子写真」の根っこがあるような気もする。詳しくは本書に多数引用された「僕ら」の言説を読んでもらいたいが、「僕ら」が彼女たちを評する言葉は、「僕ら」による「女の子写真言説」を評する際にそのまま用いることができる。彼らの言説は「直感的」で、「軽やか」で、「衝動的」で、「未熟」と言わざるを得ない。
といいつつ、同時にわたしもまた、本書を読んでいるあいだじゅう、反省を促されつづけた。まず、わたしはこの本を手にとったとき、表紙のイラストのタッチから軽やかなフェミニズムのエッセイを想像して中をひらき、かなりガッシリとした論文であることに驚いた。この感覚こそ、「女の子=非論理的」といったステレオタイプの継承だろう。「僕ら」の代表格である飯沢耕太郎でさえ、この呼名に侮蔑的なニュアンスが含まれていることを認めていた(1)。そうでありながら、彼をはじめとする「僕ら」の論調にミソジニーがしっかりと染み付いていたように、ジェンダー・バイアスは手強い。本書のなかで長島が繰り返し訂正する「女の子は機械がニガテで、コンパクトカメラの登場によって写真を撮れるようになった」というような偏見に満ちた言説は自分のなかにも確かにあった。その意味では、わたしも、少なからず「僕ら」だったのかもしれない。
本書から響く声は、黒人差別に対してスパイク・リーが「Wake Up Black Men!」となげかけたように「Wake Up Women!」と、わたしたちの目を覚ましてくれる。長島はすでに歴史に組み込まれてしまったムーブメントの土台や骨組みが、性差別で腐食しているのを暴いた。差別を明確に認識し、徹底的に修正していくこと。本書は、このムーブメントを救出し保全していく行為であり、長島のアーティストの活動としても意義深いものである。
長島が明らかにしたのは、20年以上前に写真界で起こった狭い業界内の揉め事ではない。この本は、女性が日々の暮らしの中で当たり前だと思って飲み込んできた差別をも吐き出させる。この手の差別は今日も続き、そして悲しいことに多分明日もわたしたちが直面するかもしれない分断のひとつなのだ。
目をさませ、Wake Up!
文=村上由鶴
(1)飯沢耕太郎「カノジョたちは部屋にいる;90年代の女性写真家たち」『水戸アニュアル ’99 プライベートルームⅡ―新世代の写真表現』水戸芸術館現代美術センター、1999年
タイトル | 『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』 |
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出版社 | 大福書林 |
価格 | 3,300円+tax |
出版年 | 2020年 |
仕様 | ハードカバー/四六判/412ページ |
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村上由鶴|Yuzu Murakami
1991年生まれ。日本大学芸術学部写真学科助手。日本大学芸術学部写真学科卒業後、東京工業大学大学院社会理工学研究科にて写真・美学・現代アートを研究。幻冬舎plus「現代アートは本当にわからないのか?」を連載する他、写真と現代アートを中心に執筆。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。