私たちの大半にとって、日常における写真との関わりといえば、それは携帯電話やデジカメのスクリーンで見る画像でしょう。特に画像を作品に用いる今の若い世代のクリエイターは、とらえたイメージを瞬時にエディットし友人と共有する、感覚的でソーシャルな環境に生まれてきた世代であり、彼らは、写真史の次なるチャプターを形成しつつあります。私たちのようなアナログな思考とプロセスで写真に関わってきた者にとっては、写真という分野の可能性が急激に拡大していく様を驚嘆とともに眺めると同時に、作家性やクラフツマンシップに長けた伝統的なプリント作品が人間の五感に訴えかける歓びを再認識する機会にもなっています。
現代の“ネットワーク化”された写真は、平面であるはずの写真が持つ身体的かつ物質的なクオリティを具現化することでアートたりうることを証明し、現代写真芸術という範疇にひとつの潮流を創ったことは間違いありません。そしてこの命題こそが、写真が持つクリエイティブとしての視座について解説するために選んだ今号のテーマです。
写真を用いるクリエイターの中で、ギャラリーや美術館で展示されることのみを目的とした作品制作をフルタイムで行うのは、現代の写真芸術家だけです。彼らの作品は、デジタルまたはアナログのプロセスを経て制作されますが、両者を合わせたハイブリッドであることが通常です。その作品群を解釈しようと試みるとき、そこに存在する意図や、すでに非物質化してしまった写真を撮るという行為に対する、各作家の興味深い“選択”の連鎖として考察することで答えが導き出されることも少なくありません。
そこで今回は、細部まで緻密に計算された彫刻的体験を見る者に提供する写真やインスタレーションで高い評価を獲得し、世界的にも活躍するアートフォトグラファーに注目しました。「写真」と「彫刻」というふたつの異なったアートフォームが“コラボ”するカタチはさまざまあります。彫刻に写真を張り付けたり埋め込んだ作品、フォトグラファー自身が制作した彫刻の写真群、海辺や森などで“発見”されたオブジェを組み合わせて彫刻的フォルムを与えたもの、そして写真と彫刻の両要素をコントラストやダイアローグの形式で表現するインスタレーションなどです。
サラ・ヴァンダービークは、アートスクール出身で、2000年代初期に彫刻をモチーフにしたパイオニアとして批評家の注目を浴びた写真家の一人です。彼女がふとした日常で見つけてきたものや、自身のアーカイブにあったマテリアルを使用して制作した彫刻の写真群は、エレガントかつ思慮深く、誰も予期し得なかった象徴的ビジュアルの集合体を形成しています(彫刻は撮影のために制作されるもので、撮影終了とともに解体されます)。
また2012年に、ロンドンで発表された作品では、彼女の写真と彫刻が持つ特性を活かした要素を掛け合わせる試みを行っています。たとえば、ここで紹介するモノクロ写真は、3人のダンサーとのコラボレーションによって完成した作品で、サラ自身がダンサーの振り付けをし、特定の動きやジェスチャーをするよう指示しています。その結果、写真というフォーマットの中に彫刻作品と見間違えるほどの完成度で人体を表現することに成功しています。ダンサーの動きを、純粋に彫刻的要素として写真に取り入れたのです。しかし彫刻ならではの重厚さと同時に、ダンサーたちの流れるような動きも表現しています。
アーサー・オーの「The Double-Slit Experiment」は、写真とハンドメイドの彫刻をモチーフにしたインスタレーションです。彼のモノクロ写真は、20世紀中頃のアメリカで高い評価を得た、抽象的かつオーガニックなビジュアルフォームを彷彿とさせます。オーのインスタレーションは、これらすばらしい写真作品を、比較的ラフに造形した真っ白な彫刻と対比することで成立しています。これは、彫刻と写真の間に視覚的な連関を持たせ、後者が持つフィジカルかつテクスチュアルな特性を強調する役割を果たしているのです。
オー、ヴァンダービーク双方のプロジェクトは、何の変哲もない彫刻作品を、いわば古典的な写真芸術の言語と並列することで、インスタレーションが提供する全方位的な体験と、写真が持つ3D的イリュージョンを表現することに成功しています。これらの作品は、アーティストが独自のロジックによって彼らの痕跡を表現する、現代写真芸術のトレンドのひとつを代表しています。
エムリーヌ・ド・モイも同じ潮流を組むアーティストの一人です。彼女の場合、写真家なのかそれとも彫刻家なのか、作家としてのアイデンティティさえ判然としません。いえ、もしかするとその両面を併せ持ち、コラージュのオブジェやトーテム像のような彫像を創る作家であるのかもしれません。作品を構成するそれぞれの要素を制作する意図が、完成した作品そのものから乖離しているため、儀式的あるいは象徴的な芸術作品のディスプレイ、または作りかけのまま作家のスタジオに放置されたオブジェのように、人知れない儀式や行為の残骸をまとっているに過ぎないからです。
ダニエル・ゴードンの作品にも、同様に強力な心理的作用を見て取ることができます。彼の作品もまた、見る者に制作過程を想起させるものです。グーグルで検索された何百ものカラーイメージが引き裂かれた断片や乱暴にノリ付けされた様は、混沌としていて神経症的でもあります。ここに用いられている写真の価値とは、インターネットから抽出されたイメージが持つ誘惑、官能的な配色、そして異常なまでに制作に時間を費やした作品が持つ絶対的な魅力の3つに還元することができます。そしてその魅力とは、ゴードンの写真がハイパーリアルな息吹を吹き込むことで完成した化身やグロテスクなシーンに対して感じる魅力と同義なのです。
セバスチャン・ブレマーのシリーズ作品「Schoener Goetterfunken(2009-2010)」は、コラージュをベースにしたゴードンのスタイルを逆手にとった作品といえるかもしれません。なぜなら、写真そのものと作家によって加えられた丸い抽象的モチーフの合間に私たちの注意を引こうとしているからです。ブレマーが描くサイケデリックな円状のイメージは、感情的かつ心理的な意図を持ったナラティブとして、彼の家族写真の表面に像を結んでいます。このように形式的でありながら直感的な点描画ともいえる手法をプリントに施すことで、ユニークでパーソナルな思い出の風景を描きだしているのです。
以上に見てきたとおり、コンテンポラリーアートにおける写真の分野でも、斬新でエキサイティングな作家が次々と生まれています。彼らは、アートギャラリーという瞑想空間でも共鳴する豊かな歴史観とともに、独自のアプローチと形式的な表現方法を用いることで、ヴィジュアルを主体とする写真というメディアに私たちの感覚を立ち返らせてくれます。彼らが提案する写真の彫刻的体験は、私たちが日常あつかう写真と好対照をなし、写真をひとつのとらえ方に定義しないことの重要性を思い起こさせてくれるのです。
シャーロット・コットン|Charlotte Cotton
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)やThe Photographer’sGallery、 ロサンゼルス郡立美術館(LACMA)、ニューヨークのカトナ美術館、ロサンゼルスの Metabolic Studioなどでキュレーターとして活躍、イギリス国立メディア博物館ではクリエイティブディレクターとして勤め、2015年から2016年にかけてニューヨーク国際写真センター(ICP)のレジデンスプログラムでゲストキュレーターを勤めた。著書に『The Photograph as Contemporary Art』(2004)、『Words Without Pictures』(2010)『Photography Is Magic』(2015)がある。
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