7 June 2019

The Great Master’s View

vol.4 ジャック=アンリ・ラルティーグ「写真との蜜月をまっとうした偉大なるハイアマチュア」
阿久根佐和子(IMA 2012 Winter Vol.2より転載)

7 June 2019

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ジャック=アンリ・ラルティーグ「写真との蜜月をまっとうした偉大なるハイアマチュア」 | Francis Pigueron, patinoire de Chamonix, janvier 1920 Entrainement de Suzanne Lenglen, Nice, novembre 1915

Francis Pigueron, patinoire de Chamonix, janvier 1920 Entrainement de Suzanne Lenglen, Nice, novembre 1915

恵まれた境遇に花開いた「自由さ」という才能

「自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない」――人の生死や現世への感慨を綴った『侏儒の言葉』にそんな言葉を残したのは、作家・芥川龍之介である。1894年生まれの芥川の母の実家は、十数代続いた士族。義父母となった叔父叔母は、文学や美術を愛し、龍之介に大きな影響を与えたという。恵まれた環境にあったかに思える龍之介だが、最後には神経を病み、自らの命を絶ってしまう。彼こそが自由に堪えかねた一人だったと言うほかはない。

“自由”とは、なかなかに面倒で繊細なものなのかもしれない。自由でありたいと思った途端に、自由さは永遠に失われてしまうというような。あるいは自由とは何かを考え始めた時点で、二度と自由にはなれないというような。ジャック=アンリ・ラルティーグの写真を見るにつけ、そんなことが痛感されてくる。

19世紀末のフランスの裕福な一家に生まれ、8歳でカメラを手にして以来92歳で生涯を閉じるまで、自分の興味の赴くままに、実に自由な写真を撮り続けた男。飛行機、自動車レース、さまざまなスポーツ、ゲームなどのレジャーに興じる家族、友人、そして美しい女性たち……。ひたすらに身の回りにある楽しみを撮った60万枚にも及ぶ彼の写真は、どれも生き生きと輝き、「自由」そのものだ。作品を追いかけてページを繰るうち、なんて楽しそうなんだろうと微笑まずにはいられない。

しかしながらラルティーグは、自らの自由さについて考えたことなど、一度もなかったのではないか。晩年まで写真家として知られることはなく、それでいてそんなことは全く気にもかけていなかったのだから。撮りたいから撮るのだし、楽しいから続ける……。ごくシンプルかのように思えて、それは誰にでもできることではない。ラルティーグとは“自由さ”という希有な才能に恵まれた、芥川の言葉を借りていうならば山巓の空気を呼吸してなお天真爛漫に振る舞うことのできた、偉大なるアマチュア写真家なのである。


“良き時代”のパリに育ったお坊ちゃま

1894年6月13日、パリ郊外の街クルブヴォアで、ジャック=アンリ・ラルティーグは生を受ける。実業家である父アンリ・ラルティーグと、母マリー・アゲにとっての次男。90年生まれの兄モーリスは、後に最高の遊び友達となっていく。ジャックが5歳になる頃、99年に一家はパリ16区エミール=オジェ通りに引っ越している。当時のパリは半世紀ほど前に普仏戦争に破れ、続くパリ・コミューン成立などの混乱を経て第三共和制を迎えて、政治的には安定期とは言いがたい状況ではあった。とはいえ産業革命も進んで人々の収入は上がり、幾たびものパリ万博にも湧いて、文化的な爛熟期に突入している――いまだにパリのシンボルとして君臨するエッフェル塔が、フランス革命からの100周年を記念して完成したのが1889年。ルノワールやロートレック、ピカソやユトリロ、マティスなど多くの画家たちがモンマルトルに集い、プルーストは大著『失われた時を求めて』の準備を着々と進め、リュミエール兄弟はシネマトグラフを開発して世界初の映画作品を送り出す……。

ラルティーグが幼少期を過ごした19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリは“ベル・エポック(良き時代)”とも称され、まさに世界の芸術文化の首都であった。十分な資産のある裕福な家に生まれ落ちた幸運も手伝って、彼は華やかで活気に満ちた日々を過ごすことになる。

Simone, Rouzat, 1913

M. Folletete (Plitt) et Tupy, Paris, 24 mars 1912


生涯を魅了した写真技術という魔法

本業はあくまで絵描きとしながらも、生涯片時も離れることのなかった写真との出会いは、1900年。ブルジョワらしく、早くから写真を趣味にしていた父のカメラと助けを借りて初めてのシャッターを切っている。このときに紙切れに書きつけた記録や感想は後に日記やアルバムとなる。これがさらに1970年になってリチャード・アヴェドンらによって編纂され、知られざる才能の出現として世界を驚かせる『Diaryof A Century(一世紀の日記帳)』のもととなるのだが、つまりはもうこのときから、彼の“写真家”としてのキャリアは始まっているといえるだろう。1901年の日記に、彼のこんな記述が残る。

「写真は魔法だ!いろんな種類の不思議な匂いのする、ちょっとヘンで怖い魔法。でも誰だってすぐに好きになってしまう!パパが僕を抱っこして黒い布の中に入れて、これから撮ろうとしているポートレートを見せてくれる。絵みたいだ……すぐに現像されて、そうしたら写真になる。ガラス板の上にある、逆さまで、たくさんの素晴らしい色で描かれた美しい小さな絵!なんて生き生きとしてるんだろう!僕が実際に見ている世界より、ずっと楽しそうで、はっきりと見えるんだ」

7歳の子どもの書いた無邪気な日記ではある。それでいてすべての写真家が、もっと言うならばものを作るすべての芸術家がうらやむ、創造の喜びに満ちた瑞々しい言葉ではないか。すっかり写真の虜になった次男に、父アンリ・ラルティーグは専用のカメラを買い与える。1902年のことだ。三脚のついた13×18cmと大判の暗箱カメラ。たとえば当時アメリカで普及し始めていたコダックのカメラならばロールフィルムで、「You press the button, we do the rest」のキャッチコピーの通りにフィルムセットや現像の手間もなかったが、こちらは、ガラス乾板を用いるカメラである。シャッターが付いておらず、自分でレンズに蓋をして撮る方式だし、現像も自分で行わなくてはならない。どう考えても子どもには手の余る機械だが、ともかくも10分以上の露光が必要だった写真湿板からは格段に進歩して、露光時間は短くなっていた。

そんな技術革新が、少年ジャックにスナップ撮影を可能にする――そうして彼は夢中で自分の身の回りの写真を撮り始め、暗室にこもっての現像作業も覚えるのだ。

「これまではパパにあれ撮って、これ撮ってってお願いしなくちゃならなかった。“分かった、分かった”ってパパは言うけど、撮ってくれたことはないんだ。でもこれからは、僕は全部自分で撮れる。すごくたくさんの物たちが、僕に“撮って”って言ってくるだろうな。僕はその全部を撮ろうと思う」

この頃のラルティーグ一家のパリでの住まいは、コルタンベール通りの貴族の元邸宅。さらにパリの北東100kmほどの場所にある、ノルマンディー地方の自然豊かな小さな村ポン・ド・ラルシュに別荘を持ち、夏のバカンスをここで過ごしていた。

Louis, Jean, course de bobs, Rouzat, septembre 1911

Le ZYX s’envole… Piroux, Zissou, Georges, Louis Dédé et Robert essaient de s’envoler aussi, Rouzat, septembre 1910


裕福で幸せなファミリーの喜びが満ちたスナップ

自分より背丈の高いカメラを抱えたジャックが撮った最初の一枚が、このポン・ド・ラルシュの別荘にいる最愛のママンとパパの姿である。フリルのついたスタンドカラーの、ゆったりとした白いドレスを身にまとい、貴婦人らしく髪をふわりと結い上げたママンと、彼女の後ろに立ち、そっと肩を抱くパパ。髭もじゃのパパのほうは、アスコットタイにジレを合わせ、洒落た帽子をかぶっている。また別の一枚では、石造りの別荘の窓からママンが身を乗り出し、三つ揃いのスーツを着て窓の外に立つパパの肩を抱いている。よく見ればママンの傍らのカーテンを抱くようにして、子どもの小さな両手が写っている……きっと、くるくると丸い眼をした兄のモーリス(ジスー)のいたずらだったろうか。

家族、使用人、家に出入りする大勢の親戚や友人たち。学校へは通わず、家に訪ねてくる大勢の家庭教師たちに教育を受けていたから、時間はたっぷりあった。少年のカメラは小さな世界を自由に泳ぎ回り、さまざまな瞬間を自在に捉えるようになる。

撮った写真はすべて、レイアウトしながらアルバムに貼り、親しい人々はあだ名で表しながら細かな記録をつけた。天気や散歩の時間、食事やその日の遊びのこと。写真についてのスケッチも多いが、それらが“撮ったはず”の写真を正確に描き出したものであるのは驚くべきことだ。確かな才能の萌芽……というよりはむしろ、すでにしての開花を、そこには見てとることができる。

手づくりの四輪車が、土ぼこりを巻き上げながら疾駆する一枚に写る着飾った男は、友人のルイといとこのジャン。広い草原から今にも飛び立たんとする華奢な飛行機を写した一枚は、飛行機に心を奪われていた兄ジスーの「ZYX24号」を写したものだ。“ZYX”は文章を書いたり名前をつけたりするときに使うジスーの記号。ちなみにジャックのそれは写真を思わせる“PIC(ピック)”である。

あるいは、ブラックスーツにシルクハット、カイゼル髭の紳士然とした格好で、犬を放り投げる男を写した一枚は、「自分の犬・チュピーに小川の飛び越し方を伝授するプリット(父の秘書であるフォルテット)」。やはり手づくりの二輪車から振り落とされて急斜面を転げ落ちる途上にあるのは、はとこのシモーヌで、浮き輪をつけて拝むような体勢でエイッとばかりに水に飛び込む少年は、いとこのデデ(アンドレ・アゲ)。デデが着ているドットの水着はジャックのデザインだ。それからとんでもない角度で階段を飛び降りる着飾った女性もまた、遠い親戚のビショナードである(一体彼女はどんな姿勢で着地したのだろうか?!)……あらゆる場所からジャンプする人々に、池に架けた棒をおっかなびっくり渡る大人、自転車で下り坂を滑走する輩もいれば、テニスに興じる者や、踊る者、柔術の技をかけ合う者も見える。

自分の身の回りで見つかる、底抜けに明るい躍動やきらきらとした瞬間を写真の中に閉じ込めたい――少年ラルティーグの写真は、その後も続いていく彼の作品の本質をはっきりと示す。

今でこそプライベートな瞬間を収める写真や写真家はそう珍しくはないが、20世紀初頭のほかの写真家たちの作品を考えると、とびきりの若さを置いておくとしても、ラルティーグの特異性は際立ってくる。たとえば、アメリカに拠点を置いたエドワード・スタイケンの、びりっと時を止めたようなポートレートは、人々の感情が弾ける瞬間を捉えたラルティーグの写真とは対角線上にあるし、夜のパリを撮ったブラッサイや、昔ながらのパリを追い求めたウジェーヌ・アジェとは、時代風俗と空気感を写しおおせた点では共通するものの、親密さや、目の前にあるシーンを写真家自身が一人称的に楽しんでいる感覚はラルティーグ写真に圧倒的に色濃い。

晩年、『ル・モンド』紙によるインタビューに答えたラルティーグは、美についてこんな言葉を残している――「美が何に関係があるっていうんでしょう?いろいろなものがあなたの目に飛び込み、あなたを夢中にさせる。(中略)僕には理解できないことがひとつあるんです。それはラディッシュとチョコレートケーキ、もしくはコートダジュールと北部地方を同時に好きになることがあまり快く思われないことですよ!」

好きかどうかが美に勝る。そう言い切れる強さは間違いなく、幼少期から続くラルティーグの特質だ。少年からひょろりとしたやせ形の青年へと成長するにつれ、パリの街中を闊歩する女性のファッションや、リゾート地ビアリッツで戯れる女性の姿など、女たちを撮った写真が増えてくるのは、だからある種当然の流れでもある。

Bichonnade, 40 rue Cortambert, Paris, 1905

Dédé, Rouzat, 1911


4人のミューズとの愛“写真家”としての日々

ラルティーグの写真に登場するミューズは主に4人。それぞれに個性的な美しさのどの女性にも真剣な愛を注いでいたことが、彼の日記には明らかである。「ビビ」という愛称をつけた最初の妻、マドレーヌ・メサジェとの結婚は1919年。その前年、第一次世界大戦の休戦調停の日を共に過ごした女性でもあった。

「僕は誰なんだ?僕はここで何をしているんだ?僕は既婚で、ハネムーンの途中だ。(中略)ビビと僕は手に手をとって、どこへ行くにも一緒だ。すべてを一緒に見て、すべてを一緒に発見する」

ところで、ベル・エポックに終止符を打った第一次世界大戦中に、ジャックがどんな態度を示していたかは意外と言及されていない。実は兵役審査には合格したものの、180cm52kgと痩せぎすの彼は徴兵から外れてしまう。それがために自動車を駆って戦場の医師の運転手として奉仕をするのだが、今度ははしかにかかって撤退を余儀なくされているのである。その大部分がパーソナルなシーンの集積であるラルティーグの写真を見ていると取りこぼしてしまいがちなことだが、彼もまた戦争で親友を失った多くの普通の人々の一人であり(年かさの兄のように親しんだ遠縁の青年、オレオが戦死している)、その日記には、銃を持った兵隊たちを写した写真が綴じられ、愛国心や戦争への恐怖もしっかりと記されていることは付け加えておきたい。

モダンなおかっぱ頭にはっきりとした顔立ちをして、体型維持のために毎朝の運動を欠かさず、まだ女性がスカートしか履いていなかった時代にズボン姿でも写真に収まった(ラルティーグはその写真に「ニースだから許されているけれど、こんな格好でパリに帰っ
たら逮捕されてしまうだろう! 」と添えている)ビビ。進歩的な彼女との間には長男ダニが生まれるが、ビビの心変わりとともに二人の関係は破綻してしまう。

ビビとの関係に苦悩している頃に出会ったルーマニア人モデル、ルネ・ペルルが次のミューズで、「彼女こそ正真正銘の女性。彼女は僕が出会った初めての女性かもしれない」と絶賛するものの、結婚には至らず数年で別れてしまう。「ココ」と呼んだ2番目の妻、マルセル・パオルッチとの結婚も長くは続かず、第二次世界大戦へと向かっていく世界の中で、ラルティーグの恋愛遍歴はいささか停滞するかに見える。

とはいえ、1915年に私立の美学校アカデミー・ジュリアンの門を叩いて以来、本業と決めていた画業のほうは、時折展覧会へ出展するなどまあまあの様子ではあった。1923年にパラマウント社の事務員として契約するも5日で辞表を出してしまうのはご愛嬌で、監督に請われて映画の助監督を務めたり、晩餐会の装飾を引き受けたり。落ち着いた大人とは言いがたいものの、絵を描くことと売ること、そして写真を撮ることは中断することなく続けている。

あくまで自らの興味に忠実であることを、ラルティーグはここでも譲っていないのだ――ついに落ち着いた愛を得てその後の一生を添い遂げる3番目の妻、フロレット・オルメアとの1942年の出会いの頃は「それはひどい貧乏暮らしだった」と、彼は後に振り返っている。

「一方でわたしを愛してくれる豪華なパリにすっかり慣れていましたし、マキシムに招かれることもあるのに、メトロに乗るお金がないこともありました。どうしていいか分からないと同時にワクワクもしましたね……。絵のお得意さんが来てくれないときは本当に苦しいものでした。でも、貧乏を気にすることはありませんでした。人間らしい小さなことにしか心を痛めなかったのです」

なんとも大らかに貧乏を受けとめたものだが、裕福であれ貧乏であれ“人間らしい小さなこと”を享受することの難しさは、わたしたちの誰もがよく知るところではないか?朝のコーヒーの匂い、うなじを撫でる風、三日月の慎ましい光。それらを感じ続ける力は、ラルティーグを語るときに言われがちな、生まれた環境からくる余裕とは、実はさほどの関係はない。

時は戦渦が暗くパリを覆う頃。南フランスで出会ったフローレットとラルティーグは、43年からは再びパリに住み、44年のパリ解放を目の当たりにした。「パリがまた僕らの手に!」と喜びを隠さなかったラルティーグは、このとき大量の写真を撮影している。「フィルムが手に入らなくてしばらく写真を撮れなかったけれど、とっておいた古いロールフィルムを引っ張り出してきた。古くなりすぎてないといいが!」

二度の世界大戦が過ぎ去り、51年には画家としての展覧会活動も再開したラルティーグ。“写真家”としてのスポットが当たるのは、戦後10年を経てのことだ。

Automobile Delage, Grand Prix de l’ACF, 26 juin 1912

Automobile Delage, Grand Prix de l’ACF, 26 juin 1912


写真家としての名声にも自由さを失うことなく

ラルティーグが写真家として発掘されたのは、果たして偶然だったろうか、必然だったろうか?南仏でピカソとコクトーを撮った写真が世界中に配信されたのが1955年。この頃にはギャルリー・ド・オルセーでマン・レイやブラッサイらと写真展を開催し、フランソワ・トリュフォーやロベール・ブレッソン、フェデリコ・フェリーニらの映画監督からスチール写真の依頼も受けた。

さらに62年、アメリカ旅行でニューヨークに立ち寄った彼は、ロベルト・ドアノーを見いだしたことでも知られる、写真通信社アジャンス・ラフォの創始者シャルル・ラフォの紹介でニューヨーク近代美術館のジョン・シャーカフスキーに会う。MoMAの写真部門の初代ディレクターとして、世界中の優れた写真作家を見いだした名物キュレーターであるシャーカフスキーは、ラルティーグが20世紀の初頭に撮った写真をついに“発見”し、翌年『ジャック=アンリ・ラルティーグ写真展』を開催するのである。このとき『LIFE』誌に10ページにわたる特集が組まれ、ラルティーグの写真家としての名声と評価は突如として不動のものになる。

ドイツのフォト・キナ展への出品(66年)に、ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーでの展覧会(71年)、パリ装飾美術館でのフランス初の大個展(75年)。大きな個展が続き、賞の審査員やさまざまの勲章も舞い込み、74年にはジスカールデスタン仏大統領の公式カメラマンを任された。70歳を超えてからの名誉を、しかしラルティーグは大して気にとめていないように映る。79年には生涯にわたって撮影した全作品と数百冊のアルバムを、フランス政府に寄付する証書にサインしたのだ――自分にさらなる名誉を与えるであろう作品群が、折しも60年ごしで評価されているさなかに、権利まるごと国に渡してしまえる作家がどれほどにいるというのか?

先に挙げた『ル・モンド』によるインタビューで、晩年の名声について彼はこんなことを述べている。「(突然写真家として名声を得たからといって)何も起こりませんし、わたしは自分を偉大だなどと思ってもいません。わたしは情熱だけでものを作るし、作ったものには決して満足できないのです」。あるいは寄付についてのこんな言葉はどうだろう。

「(それについては)フローレットとずいぶん話し合いました。(中略)素晴らしい果樹園を持っている料理人が、採れた果物を駄目にしないために、初めてジャムを作ったのだといいますが、それはまるで作り話だと僕は思うんです。むしろ彼女は決して自分で食べないのにジャムを作る。僕も、写真と思い出を缶詰にします。でも、その缶詰を決して開けはしないでしょう。それは美術館の地下室にきちんと収められていて、僕のほうは新鮮な果物を食べるんです」

もっと面白いものが見たい、もっと楽しいものがある。7歳のときに書きつけた言葉から、寸分も違わない純粋さがにじみ出る言葉である。1986年5月13日、93歳の誕生日を目前にして、ラルティーグはこの世を去る。どんなものも、この人から“自由さ”を奪うことはできなかった。

ラルティーグが偉大なるアマチュアでいられたのは、プロならではの懊悩に毒されていなかったからだとか、あるいは特別に裕福で恵まれた環境に生まれたためだというのはたやすいが、それはまったくの誤解なのだと納得されてくる。彼の写真を眺めるときに見落としてはいけないのはまさにこの点だ――才能も財産もあり、男性としてもチャーミング。人が羨む何もかもを手にしながら、まったく屈託なくあり続けるのは、じつはとても難しくたくましいことだ。誤解をおそれずに言うならば、たとえば冒頭の芥川のように、幸福な状況に影を見いだして絶望する方がよほど分かりやすい。自由な自分に気づくことすらなく、自由でありおおせたからこそ、ラルティーグの写真は輝く。

悲しいかな、好奇心と活力に溢れた子どもの眼差しを、誰もが少しずつ失いながら大人になっていく。それがいわば普通の世界にあって、終生少年らしさを失うことなく一生を全うしたラルティーグ。明るい情熱にあふれる彼の写真世界には、だからちょっとユートピアにも似た多幸感が宿る。桃源郷……ヨーロッパ風に言うならばアダムとイヴが遊んだエデンの園をのぞいているような……。

しかつめらしく自由の理由を考える者も、そこにいる人々の幸運を羨む者も、エデンには入れない。彼の楽園を享受したいならば、人はすべての負の感情を忘れて、ただ身を投じるしかない。

All images:Photographie Jacques Henri Lartigue © Ministère de la culture, France-MAP / AAJHL

ジャック=アンリ・ラルティーグ|Jacques Henri Lartigue
1894年フランス・パリ郊外生まれ。8歳でカメラを手にする。パリのアカデミージュリアンで絵画を学び、画家として暮らす中でも写真を撮り続けた。’60年代中盤になって初めて写真家として注目を浴び、MoMAで個展、『LIFE』誌での特集をきっかけに高く評価される。’70年R. アヴェドン編集の『dairy of Century』で世界に名前が知られる。’79年全作品をフランス政府に寄贈。’86年没。

阿久根佐和子|Sawako Akune
文筆家。鹿児島県生まれ。東京大学文学部卒業(英語英米文学)。雑誌への執筆のほか、翻訳、書籍構成なども手がける。2011年、東京・浅草にオルタナティブ・スペース「GINGRICH(ギングリッチ)」をオープンした。

2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。

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