2025年12月6日、マーティン・パーが73 歳でこの世を去った。写真界に重く響き渡った、偉大なる写真家の死。日本でその姿を見たのは、昨年のKYOTOGRAPHIEの展示に合わせての来日が最後となった。亡くなるその前日にはミラノ大聖堂前で撮影を行っていたパー。文字通り最期の瞬間まで写真を撮り続けたいと願い、生涯現役の写真家として人生を終えた。
1994年にマグナム・フォトに参加し、2013~17年には会長を務めるなど、写真を撮るだけにとどまらず、写真文化への貢献や後進への支援も積極的に行ったパー。家族からキュレーターまで、ゆかりある人々からのメッセージとともに、この写真家の多様な顔を振り返る。
『IMA Vol.45』から、「マーティン・パーの 写真集とともに功績をたどる」と「マーティン・パーのマルチプルな肖像―写真コレクターとして」を転載。
目次
PARRLIFE WITH PHOTOBOOK
マーティン・パーの 写真集とともに功績をたどる
風変わりな視点が生んだ独自のスタイル
今日、マーティン・パーは彼の世代を代表する写真家の一人として知られている。彼は50年以上にわたって現代社会とその課題や変遷を唯一無二の視点からとらえてきた。マーガレット・サッチャー政権下のイギリスにおける社会的・文化的変化、世界的な観光ブーム、世界各地の習慣とライフスタイルの画一化̶それらが代わるがわる彼の関心の的となった。彼の眼差しは時に優しく、時に辛辣で、常に皮肉っぽく、いかなるときも際立っていた。彼は、アマチュアとプロフェッショナルの別を問わず、ある世代の写真家たちにとってのひとつのスタイルとなった。
独特なアプローチ、一見平凡だが独創性にあふれた被写体、考え抜かれた作品の発表の形、その活動の多様性。そうしたことから、パーはいま、アートと写真の世界で特別な地位を占めている。実際、写真関連のイベントでほんの数分間でも彼と会った者なら、誰であれ実感したはずだ̶彼が非常に高く評価された、世界でも有数の写真家であることを。そして、見知らぬ人々に呼び止められ、あれこれ質問され、ポーズして自撮りをしたいと頼まれる存在であることを。
彼はいつも変わらない好意をもってそれに応じた。私はなぜそこまで声をかけられるのか、たびたび不思議に思っていた。どうしてあれほど多くの人が彼の前に歩み出て、なんの遠慮もなく、まるで知り合いのように話しかけたのだろう。改めて考えてみると、彼の作品が直感的に理解しやすい性質を持っていたから、作者自身にも親しみやすい印象を抱いたのだろうと思う。自身の作品とスタイルをいともたやすく体現したパーのふるまいを見て、その数秒間、彼らもまたマーティン・パーたる作品とスタイルを真似、パー流に写真を撮っていたのだ。
パーの作品に、いわば普遍的ともいえる性質が感じられるのはなぜか。それは、以下の要素が合わさった結果だろう。
第一に、人間を中心に据えた主題の選択。日常的かつ平凡な活動を主として、西洋的あるいは西洋化された生活を送る鑑賞者ならばすぐに理解し、自己投影できる世界。同年代のドキュメンタリー写真家のほとんどが社会の周縁に向けられた「外側への視点」を持っていたが、パーは「内側への視点」を長年持ち続けた。中流階級と庶民、大衆的な消費文化とエンターテインメント、大量消費される日用品などが彼の作品群には必要不可欠だった。
ふたつめに、わかりやすくシンプルなスタイル。ほかの写真家たちが入念かつ複雑に作られたフォルムを研究する一方で、パーはアマチュア写真やある種の大衆的なメディアイメージから理解しやすい素材を取り入れた。例えば真昼間のフラッシュ撮影や鮮やかな色彩、時にはキッチュなものに偏ったモチーフ。それらは間違いなく、親しみやすいフォルムの追求の一環だった。
エンターテインメントを作る
彼は1980年代初期から、現代を表す言語として「色」を使った。そこにはノスタルジーもロマンチシズムもなく、アートらしい姿勢すら見えない。これはシンプルさの探求において決定的な一手となった。もしも同じ作品がモノクロで撮影されていたら、これほどの衝撃や評判は得られなかっただろう。
さらに、流行や雑誌、広告などのコミッションワークや個人的な創作活動をダイナミックに融合させる能力も考慮すべきだ。彼はメディアというシステムの内部に有能な広報担当者として片足を置き、個人のドキュメンタリー写真家としてその外部にもう片方の足を置いていた。その境界線は互いに侵食し合う̶商業用に制作されたイメージが、個人的な 「作品群」に組み込まれていることもあった。
そして最後に、徹底してとまではいかないが、ごく頻繁に取り入れられたユーモアも挙げよう。イメージが飽和した世界で、ほんの一瞬のうちに観客や読者たちの注目を集め、心をとらえるにあたって、ユーモアが最高の味方となることをパーは知っていたのだ。
ユーモアはパーの常套手段として前面に押し出されていた。過去から最近のものまで、彼が受けたインタヴューの数々にそれが垣間見える。パーは人を楽しませること、一見軽薄に思える写真言語を使うことを恐れなかった。2021年の対談では、「僕はエンターテインメントを作っている。そこには真剣なメッセージが込められていると受け取ってもいいけど、僕は誰かの意見を変えてやろうとは思っていない̶ただ、彼らがすでに知っていると思っていることを示しただけだ。僕は、エンターテインメントの分野の人間だからね!(中略)僕は戦いたいわけじゃない。あなたたちの考えも、僕の考えも、どちらも良いと思うよ」と語っている。
パーは活動家ではなく、むしろ彼が作ったイメージが批判する事象に、自身も深く関わっているのだといつも強調していた。2022年の対談でグローバルツーリズムや過剰消費について訊かれた時、彼は「僕らは破滅の方へと向かっている。みんな一緒に。自動車や飛行機の移動をすべて禁じることは誰にもできないんだから」と答えた。
泳げなくてもビーチを愛し、時には観光を楽しむことをいとわず、休みなく飛行機を乗り継ぎ、絶望的な量のカーボンフットプリント(生産、 流通、消費、廃棄などの一連の活動で排出される温室効果ガスをCO2量に換算した指標)を生んでいることを公言していた彼は、自身が扱う主題に対して決して高慢にならないように非常に気を遣っていた。彼がイメージを通して何かを批判した時は、その批判はまずなによりも、彼自身に向けられていた。
その点について、彼は90年代、つまり 「世界的な観光ブームの幕開け」の時代に 『Autoportrait』(2000年、P.160)シリーズの制作を始めている。彼は当時流行った記念写真̶旅の思い出の中でも最もキッチュなもの̶のイメージを借用し、現地の写真ブースやカメラマンに自身を撮らせた。そうすることで、世界中を旅する西洋人の「よくいるおじさん」であり、人気の観光スポットに出没する、観光写真産業の自発的な犠牲者としての自画像を表現した。つまり彼は、自身が告発した対象のいわば加担者だった。それ故に、前世代の「社会派フォトジャーナリスト」の英雄像の代わりに「観光客兼アマチュア写真家」という全く違う姿を映したのだ。(続く)
Quentin Bajac | クェンティン・バジャック
1965年生まれ。パリを拠点とするキュレーター。1995年にオルセー美術館の写真部門アソシエイト・キュレーターに就任し、その後ポンピドゥ・センターで、2003年にキュレーターに、2007年にはチーフ・キュレーターとなる。2013年にニューヨーク近代美術館に移り、写真部門主任キュレーターを務め、スティーブン・ショアの中期回顧展や、スタジオ写真に焦点を当てたグループ展の企画に携わる。現在はパリの国立美術館ジュ・ド・ポームのディレクター。
ONE MAN, MANY FACES
マーティン・パーのマルチプルな肖像

Martin Parr/Magnum Photos/アフロ
写真コレクターとして
私が2018年秋にテート・モダン写真部門のシニア・キュレーターとして着任した直後に、冬のブリストルでマーティン・パー財団を訪問したことを覚えている。テートではその数年前にパーが収集した写真集コレクション1万2千冊余りを(一部パー氏からの寄贈を含めて)LUMA財団から援助を受けて購入しており、当時のモリス館長を中心に、写真集をどう活用し展示するかを考えていた。それは私の仕事のひとつだった。
写真集の展示には(以前勤務したヒューストン美術館で)経験のあった私にとって、パー氏から助言を受けて『Photobook: A History Volumes I – III (Martin Parr & Gerry Badger)』を参照し、さまざまなテーマでテート・モダンの展示を行うことは楽しい経験だった。彼と共同企画した2019年のアルル国際写真フェスティバルでの展覧会「50 YEARS, 50 BOOKS MASTERWORKS FROM THE LIBRARY OF MARTIN PARR」開催後、全コレクションのオンライン目録を作成する作業が終了し、 2000年2月にテート美術館図書館で100冊をパー氏と選び、机の上に展示した。そこでは写真コミュニティの方々にお越しいただき、パー氏と私の二人でそれぞれの写真集について話し、彼は川田喜久治氏の『地図』について熱弁されていた。
その後もイギリスやアイルランドの作家による写真集のコレクションを続けたパー氏には、私が中心となって企画した2024年秋のテート・ブリテンでの展覧会「The 80s: Photographing Britain」のアドバイザーになっていただいた。80年代のイギリス・アイルランド写真作品のコレクションを行うマーティン・パー財団に展覧会リサーチに伺った際も何度もお付き合いくださり、歩行器を使ってロンドンまで足を運び、展覧会の構成や作家選定に助言をいただいた。展覧会は、イギリスにおける写真メディアに大きな改革のあった、彼の経験する80年代とは少し違った、特にカリブ海や南アジアからの移民作家およびクィア作家による作品を大幅に取り入れたものとなった。
彼からの批判も間接的に受けながらも、「テートはイギリス写真に力を入れていない」という氏の以前の批判を覆したことは彼も認めてくださった。彼のことを考えるといまでも目頭が熱くなる。
Yasufumi Nakamori | 中森康文
大阪生まれ。早稲田大学、米国ウィスコンシン大学ロースクールを卒業し、2011年コーネル大学にて美術史博士課程を修了。米国ヒューストン美術館写真部門キュレーター、ミネアポリス美術館写真ニューメディア部門長を経て、2018年より5年間テート・モダン、インターナショナル・アート写真部門シニア・キュレーターを務めた。近現代写真及び建築に関する著作多数。最近の共編著に『The 80s: Photographing Britain』、『Ishiuchi Miyako: Traces』がある。

